この数日、ラマナ・マハルシが、真我探求の実践について語っている部分をアップしようと、
「あるがままに」をテーブルの上に出していたのですが、
なかなか探す時間もありませんでした。
先程、久しぶりにとあるサイトを覗いたら、
アジャシャンティが、同じようなことを語っているのを発見しました。
勝手ながら引用させていただきます。
問うこと
さきほど話した1つめの実践方法は、完全にリラックスした状態になるための誘導のようなものでしたが、
2つめの「問うこと」は、少し自発的・積極的になる必要があります。
愛や真実と繋がるためのものであり
リアリティーへの切望であり
私の教えの中でも、より大きな動きを伴う部分です
「私は誰か? 私とは何か?」
これが私たちにとって、究極的で最も深い問いです。
私たちが、エゴの夢から目覚めるまで
何よりもしっかりと取り組むべき重要な問いなのです。
一方
「私は何を求めているのか?」
「私はどうなりたいのか?」
このような疑問は
「私は誰か? 私とは何か?」
という問いほど重要なことではないのです。
なぜなら、そんなふうに何かを求めたり探したりしているのは、
いつも「私」です。
「私」の正体が何なのか知らないまま、その他のことが本当に分かるわけがないでしょう。
いまここで、この画面を見て、この話を聞いているあなた
その「あなた」として生きている存在。
それが何なのか、本当に分かっていないと
人生で最もすばらしい贈り物を受け取れないことになるのです。
ですから
「私は誰か? 私とは何か?」
この問いは、私の教えの中でも最も重要な部分です。
他のどんな教えについても言えることですが
「どのように」実践するかもとても大切なポイントです。
これは、単に頭で考えられるようなことではないのです。
この問いに対して、頭であれこれ考えて、どこかで見聞きしたイメージを引っ張り出してきたりしたら、的外れなことになってしまいます。
そんなことをしても、思考に浸ることになるだけです。
「私は誰か? 私とは何か?」
この問いは、あなたをエゴが創り上げている夢の世界から脱出させる手段なのです。
これは、とてもシンプルなのですが、かなりの着実さが必要です。
そして「どのように」問うかを、きっちりと理解しておかなければなりません。
「私とは何か?」
こう問うとき、しっかりと自分を見てください。
「『私』と言っているものは何なんだろう?」
ほとんどの人にはここで、いろんな考えが浮かんでくるでしょう。
記憶、身元、自己イメージ、性別、世代、年齢、性格、鏡に映る姿など
すべては、頭の中にあるものですね
でも、もっとしっかりと、深く追求してみてください。
ここで いますぐに。
自分だと思っているものはすべて、単に「思っている」だけだと分かるでしょう。
思考の産物ですね。
その思考は、意識の中で起こっています。
あたなの中で起こっているのですから、それは「あなた」ではないのです。
あなたは、思考よりも一歩手前にあるということです。
私たちは、「私の思い」とか、「私は考えている」とか、「こんな考えが私に浮かんだ」などと言いますよね。
「私」と「思考」は、同じものではないということですよね。
この問いは、意識と思考の狭間の夢うつつ状態や、自己イメージから、私たちを目覚めさせてくれるのです。
「私とは何なのか?」と問うことで、
自分は思考よりも、もっと根底的で、より親密なものだと気付くでしょう。
「私」だと思っていたイメージを除外すると、何が残りますか?
何らかの感情や感覚があるという人もいるでしょう。
しかし、感情や感覚も、あなたのすぐ側で起こっている現象に過ぎず
あなたという意識によって、感知されているものなんですよ。
あなたが誰なのか、何なのかを、知る手がかりにはなりません。
では、さらに深く探ってみましょう。
「私の中で、思考や感情や感覚が起こっているのなら、その『私』とは何なのか?」
「今、この話を見聞きしている『私』とは、いったい何なのか?」
思考や感情や感覚をアテにしなければ、あなたは誰なのでしょうか?
瞑想のように静かに、この問いかけをしてください。
すると、ムダにあれこれ考えたりせず
自分という直接体験から、答えを見つけることになるでしょう。
それが、この問いの大きな力なのです。
覚えておいてください。
ここがいちばん大切なポイントです。
あなたの最も深いところを探らなければなりません。
頭で考えて答えを出そうとしないことが、この教えを実践する上で非常に大切です。
この問いによって、思考や感情から離れて、自分という意識の奥底へ深く深く入っていくことです。
「私は、頭の中に浮かぶ思いや考えではない。」
「思考は、刷り込まれた条件付けに過ぎない。」
「私は、感情や感覚でもない。」
これらはすべて、広大な私の中で起こっているだけだ。
それなら、
「私はいったい何なのか?」
深く 誠実に、しっかり問うと、静けさに辿り着きます。
言葉に出来るような答えは、見つからないでしょう。
もしも、言葉に出来る答えが出てきたら、それは間違いです。
答えは、意識の次元だけに現れるのですから。
思考や感情が自分ではないと分かり始めると
自分は思考や感情を内包している「意識」なのだと気付いてくるでしょう。
これが、この問いの大きな力です。
もちろん、「意識」というのも言葉ですから
「意識」という言葉にとらわれていると
この教えの全てを根本的に誤解してしまうことになります。
自分という直接体験によって知る「私」は、言葉を遥かに超越しているのですが
ここでは、何らかの言葉で説明しなくてはいけないので
「意識」や「スピリット」という言葉を使っているだけです。
私たちは、描写できるものではありません。
形も大きさも香りもなく、言葉にできないけれど
確かに存在しているので
私は「意識」や「スピリット」と呼んでいるのです。
意識が、いまこの瞬間も、存在していて機能していることを否定できないでしょう?
仮にあなたが、「いまここに意識など存在しない」と否定したとしても
私の話を聞いて否定したという事実が、意識がいまここに存在するという証拠になりますね。
そのようなことは、意識なしには起こりえないことですから。
「私は誰か? 私とは何か?」
このように問うことで、
あなたは考えるのではなく、逆に思考から抜け出すのです。
この点が非常に重要です。
そして その答えを、あなたは今すぐ知ることが出来るんです。
むしろ、今しか知ることが出来ないのです。
スピリチュアルの教えを何十年も学んでいる人でも、
まったくの初心者でも同じです。
どれだけ長く学んでいるかなど関係ないのです。
自分の本質への目覚めは、
いつでも、いまこの瞬間、
いまこの瞬間だけに可能なのです。
目覚めは、長年の修業によって起こるのではなく
今ここの、深い問いによって起こるのです。
さすがは、アジャシャンティですね。
以前、動画を観た時、「この透明さは只者ではない!!」と感じたのですが、
単に目覚めるだけでなく、感情やプログラムから自由になることの重要性について語っているところを見つけ、とてもうれしくなったものでした。
このアジャシャンティの講話は、こちらのページから拝借させていただきました。
いつもお世話になりありがとうございます。