今のギフテッドブームに思う事 | シャイな露出狂

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今の日本で考えられているギフテッドは
発達障害ありきの事ばかりで少々辟易する

発達障害を持ち合わせないギフテッドだって存在する
でもその数はたぶんあまりにも少なく
純粋なギフテッドの数は発達障害を持ち合わせているギフテッドに比べ
圧倒的に少数ゆえにギフテッドに関する議論の中でも
その存在は忘れ去られているかのように感じる
人口>ギフテッド>純粋なギフテッド
その存在はマイノリティ中のマイノリティなのだろう

発達障害を持ち合わせていないギフテッドは
幼少時から既に自分がいかにマイノリティで孤独な存在かを知っている
だからこそ極力存在を隠す
能力をマスクして生きる

今「ギフテッドに専門教育の場を」「ギフテッドに支援を」
と訴える大人に思うことは
本当のギフテッドなら専門教育の場も支援も必要はないという事だ
特別な環境がなくても学習する
見るもの聞くもの全てが学習の対象であり
それは自身の存在だけでなく周囲の環境すべてを対象としているからだ
放っておいても勝手に興味関心のある事象に対して独自に学習し
その意識はいつしかジャンルを問わず関連する事柄すべてに及ぶ

特別な支援、境域の場が必要だと感じるのは
ギフテッドという存在に対する周囲の心の在り方そのものだ
「特別な環境にないと能力を伸ばせない」
「特別な支援がないと困る」
困るのは周囲の人間であってギフテッド本人ではない
発達障害を持ち合わせないギフテッドにとって
用意されるであろう特別な環境はただの檻に過ぎない
我々はそこまで手に負えない存在ではない
自分の存在価値、存在が周囲に及ぼす影響を
子供のころからただ生きているだけで
身に染みて感じているからだ

今の日本ではギフテッド支援が遅れているという内容をよく目にする
ギフテッド教育が行われていないという不満、要望も目にすることが多い
それは日本におけるギフテッドを巡る本当の環境を知らないだけだ
自分が過去に経験したような教育の場は今も存在している
声をかけられなかったり、その場に集められない子供たちは
たんに求められる基準を満たしていないのだと思う
公式に認められた子供たちには、あの場は今も存在し開放されている

このこと一つをとっても感じることは
「知らないということの怖さ」だ
無知は恥ずべきではない
しかし調べれば簡単に出てくるこうした情報を
調べもしないままで議論を進めることは現在のネット社会において
静かに暮らしているギフテッド達に対する凶器にもなりかねない
それだけは理解してしかるべきだと思う