2/⑷/9章/『スコ史』 | 藤原の田中のブログ

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 その後、風向きが変わった。ジェイムスは、「二つの王国」というドクトリンを頑固に主張する教会に苛ついた。また、アンドリュー・メルヴィルの激しさにも苛ついた。メルヴィルは、ある時などは王のことを「神の愚かなる(か弱き)しもべ」と呼んだ。また、国王に本来備わっている威厳に対しても全然敬意を払わなかった。さらに、過激な論者は、「我々は教会の説教壇で述べたことについて、世俗の法廷で問われる必要はない」(訳注1)とまでいった。これによって、ジェイムスは彼らを攻撃する機会をもった。1596年、セント・アンドリースの牧師ディヴィッド・ブラックが、説教壇において、エリザベス女王を批判した。エリザベスはちょうど自分の国のピューリタンを迫害している最中だったので、スコットランド長老派教会の支持は必要ないと感じていたので、ジェイムスは、イングランドから干渉される心配なく長老派を取り締まることができた。ジェイムスの牧師たちに説教壇でいったことに対して責任をとらせようとする決意は、彼らの間に大きな不満を生み、それが12月17日のエディンバラにおける大きな騒擾につながった。(それは、いわゆる「八人衆(オクタヴィアンズ)」を嫌っている廷臣たちによって扇動されたことはたしかだが。)これに対する国王の反応は、法廷をリンリスゴーに移して、王はもはやエディンバラを首都とは思っていないということを明らかにすることであった。このような脅迫下におかれて、エディンバラ市民は国王に服し、国王は1597年1月1日、勝利者としてエディンバラの町に再入城を果たした。


(訳注)

1.説教壇上の表現の自由。世俗の法廷で問われることはないということは、国王に問われる必要はないということであり、国王や議会が作った法に違反していることも問われることはないということ。すなわち、イエス・キリストの王国(イコール教会)と、国王が支配する世俗的な意味での王国はちがう、別物である、という「二重王国論」。もちろん、ジェイムスから見ればやめてほしい議論。