20・3章:イングランド史 | 藤原の田中のブログ

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新国王の周辺に集まった者たちの中で、この男(ヘンリー・ハワード(1540-1614):訳者)は間違いなく、わざわざ他の人と比べるまでもなく、その受けた愛顧にもっともふさわしくない人物であった。彼は、ヘンリー8世の御代を特徴づける一連の処刑の中でもっとも最後に処刑されたサリー伯の、2人の息子のうちの次男のほうであった。その兄ノーフォーク公(4代目ノーフォーク公トーマス・ハワード(1536-1572):訳者)は、スコットランド女王メアリーと結婚するために企てた陰謀で反逆罪に問われ、それを処刑台の上で償った。その甥(つまり、兄ノーフォーク公の息子:訳者)はエリザベス女王の命でロンドン塔に幽閉され、そこで命を落とし、イングランドのカトリック教徒から殉教者として崇められている、あのアランデル伯(フィリップ・ハワード(1557-1595):訳者)であった。ヘンリー・ハワードが信奉していた宗教は、陰に陽に彼の家族が信奉していたものであった。(つまり、カトリック:訳者)しかし、そればかりでなくヘンリーは、国王大権に対する尊重の念をもっていた。それは間違いなく、彼の親族が感じたことのないものであった。たしかにカトリック貴族の中には、ウースター伯(たぶん、4代目ウースター伯・初代ウースター侯エドワード・サマセット(c.1550-1628):訳者)のように国王に対する忠誠心を疑われない者もいた。しかし、ハワードはこうした者たちが満足していた控えめな義務の遂行で満足しているつもりはなかった。今日、私たちの間で頻繁に礼節の言葉が交わされるように、「大仰なお世辞」ともいうべきものが頻繁に述べられていた時代に、彼はしなやかさとお世辞の面で容易に一等賞をとったのである。ハワードがジェームスのことを慕ったのはかなり前のことであった。そして、ジェームスからセシルに推薦されていた。セシルがローリーに対して抱いていた感情がどの程度までこの取るに足らない相棒(ハワードのこと:訳者)の影響によるものかを知ることは興味深い。ハワードがローリーを心底嫌っていたことは確かなことである。そして、セシルの心がローリーから離れたのは、セシルがハワードと親密に付き合い出してからのことであることも確かなことだ。(つまり、ハワードの影響があった?:訳者)それでも数々の欠点があるにもかかわらず、ハワードは決して有力者の単なる頭の空っぽのお気に入りではなかった。彼はかなりの才能の持ち主であり、決して学の少ない者ではなかった。彼は政府の職務を信用をもって分担していた。しかし、セシルが生きている限り、彼は従属的な役割を果たすことで満足しなければならなかった。