糖質制限食 | ハリーの養生訓

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僕が見つけた養生

短期的に切れ味鋭く治療効果を出す食事療法としては筆頭にあげられるでしょうか。


現代日本に顕著な精製度の高い糖質の大量摂取を是正するという意味においては、有効なものと感じます。


一方で、中長期的に継続した場合の腸内環境の悪化が気がかりでした。


医学界でも長期的な臨床データを待っている状況ですが、大腸がんや腎不全のリスクを高める可能性が示唆されています。


世に出ては消えていった食事療法を見渡してみても、実際に効果があった人もいますが、同時になかった人、あるいは害になった人もいたわけです。


当然ながら、個体差があり体質が異なりますから、見合った方法も異なるのです。


誰にでも抜群の効果を示す完全無欠な方法があるとすれば、それだけが今でも通用しているでしょう。


実際は多くの食事療法が今も出ては消えているのです。


食事療法はそもそも、創始者の個人的な思想と体質に基づいて構築された面があり、それが劇的な効果を感じられる人もいれば、かえって体調を崩す人も出て、万人が安心して食べられる食事とはいえない面もあります。


療法としての性質を特化する以上、病気治療効果の切れ味を期待されるところがあり、人工的なメニューや食べ方になることがあるからでしょう。


ゆえに、その療法が絶対的に悪いということではなく、自らの体質に照らし合わせて選んでいく我々の主体性が求められているということです。


糖質制限食は伝統的と呼ばれる和食に照らしても、かなり医療的でテクニカルな方法と言えます。


個人的な意見を述べれば、病気治療に特化した療法としての食事は、期間限定で、しかも短期的に行うべきものと考えます。


治療のための食事(治療食)と日常的に食べる食事(日常食)を混同したところに、さまざまな混乱と偏見があるのだと思います。


<なにを食べればいいのか>


何が必要で、何が不要であるか、精妙な生命の働きを前にして、単純化できないところがあります。


今も昔も世の中に出ては消えていく様々な健康食品があります。


「これを食べれば病気が治る」といったロジックで語られる安易な誇大広告は、大衆の心をわしづかみにし、店頭へ走らせるだけの魅力があるようです。


正統な食事療法と呼ばれるものでさえ、古今東西、方法は様々で、それぞれが相容れない理論を持っていることもあります。


それでは何を信じたらいいのでしょうか。


まず、個体差、体質というものを考慮にいれず、画一的に行うことには無理があるでしょう。


それは体感として、または無月経、体重減少など目に見える形で表れてくるものです。


また一つの方法に固執し、それ以外をすべて排斥するような態度を養うような方法もまた精神衛生上不健全と言えないでしょうか。


つまり、自らの生命の実感を通してだけ真実があるのではないかということです。


食というのは生命を支えるもの、日々の糧となるものであって、それが肉体を傷つけ、精神を病ませるものであってはならないと思うのです。


よって金科玉条のような食事療法を期待することもなく、ある人に劇的な効果があるものでも、ある人にはさっぱり効果のないものがあっても、至極あたりまえということです。


万人に強力な効果をもたらすものは、かえってその薬理的な副作用に思いが至ってもいいはずです。


食に期待されるべきは、穏やかさであり、安心安全であるということではないでしょうか。


一方で、ある期間、限定的に行う方法も残されていいはずです。


療法としての食事が、その威力を発揮するあり方はそこにあると思うのです。


非日常的な刺激を心身に与えることが、自然治癒力を喚起し鼓舞する方法ではないかと考えます。


ところが、それも漫然と繰り返されると、その刺激に対する感受性が鈍磨し、それ自体が偏り歪みとなっていきます。


鮮やかな効果を示した療法が、ある時期から精彩を欠くのも、受け手である感受性に問題があるからに違いありません。


その反応は「慣れ」であって、それ自体、不自然なことでもなく、生命に備わった自然的な順応の働きです。


それは生命を永らえるための合目的的な反応といえます。


一方で、現代社会の病理は、この順応という生命の働きをも超える、外的な環境のストレスによっているとみることはできないでしょうか。


現代の産業構造はコスト削減を至上命題として、その品質や安全性が後回しにされることも少なくありません。


こと食品に関して言えば、農薬や食品添加物などの化学物質の利用が不自然さを極めています。


より自然に近い食材を求める消費行動が、社会運動を伴い、ひいては社会や産業構造を変革する可能性があるということも否定できません。


自然に沿った循環型社会に向けて、「できることからはじめる」ことの意義は大いにあると思います。


同時に、差し迫った現実を生きる者として、経済的な制約も鑑み、すべてを完遂することもまた非現実的でしょう。


そこで提案できる食のあり方が「少量多種」です。


現代社会との兼ね合いを考える中で、極力リスクを回避する方法がベターではないかと考えます。


昔ながらの言葉を使えば「中庸」と言ってもいいと思いますが、ある食品に危険性があっても少量であれば、多大な損失をこうむることがない。


総じて少食であれば、人体に備わっている解毒、排泄能力の範囲内でそれを処理できるという自衛策でもあります。


健康に寄与するとされる食品も、摂り過ぎることで弊害がないとも言い切れないでしょう。


現に人体には生理学的なフィードバック機構が働き、過剰を抑制する機能が備わっています。


バランスをとることが生命のあり方と仮定すれば、その生命を支える食もまた、一方に拘泥せず、バランスをとっていくあり方が望ましいのではないでしょうか。


自らの生命の声に耳を傾けて、大局的な視点に立って総合的に実践していく。


それは食に限らず、生活万般にも言えることです。


<「変わること」と「治ること」の違い>


『体が本当に治った場合には、心も正しく変わり、生活も正しく変わるはずである。これが本当の治し方であり、治り方である。そうしてその方法は、因をのぞく事、すなわち業を改造することである。』


とヨギ沖正弘は自身の治療家としての経験、また癌を患った体験からこのように悟ったといいます。


ブッダが悟ったことの一つに「因縁生起」がありました。


あらゆるものは「因」という直接の原因と「縁」という間接的な条件がお互いに関係し合って生じたり滅したりする。また、因が縁となることもありうるし、縁が他の因となることもある、ということです。


つまり、今「病気」という結果をつくる原因となる「因縁」というものは、複雑に絡み合い一つに特定することなど到底できないと解することができます。


実際、医学が進歩しても慢性病を一向に治せず、また生活習慣病が増加していることが何よりの証左ではないでしょうか。


しかし、医学界では原因の特定に躍起となり、それですべてが解決されるように思っている節があります。


仮にも悟りを得た者でしか知りえないとされる因果の全容を、凡庸な庶民が把握するのは難しいのではないでしょうか。ただでさえ、自分のことを客観視できず、日々反省の毎日を送っているというのに。


「いや、実際にある治療法で治った」と言う人がいるかもしれません。


しかし、謙虚に生命に向き合い、病気の真意を見定めると、病気や症状に対して、特定の原因を導き出し、それにある特定の方法を用いてアプローチしていくことの限界と危険性に気づくのです。


短絡的に決め付けることの危うさです。


また沖はこのようの述べています。

『心身に現れた異常現象は身についている不自然を自然にかえそうとする働きの現れであり、その不自然因は無意識の働きになっており、しかもこの不自然を解消する働き自身もまた無意識の働きの中にあるのである。慢性病は無意識内の凝固エネルギーの心身的表現、すなわちエネルギー消耗の方向が異常化していることであるから、そのエネルギー消耗方向をかえると症状もまたかわるのである。どんな刺激でもエネルギーの消耗方向をかえることになるから症状もまたかわるのである。であるから症状をかえるだけならどんな刺激でもよいわけである。』


「変わること」と、「本当に治る」ことの違い。


症状が変わるので一見治ったかのように見えます。


症状が見えなくなった、それは奥の方に隠れてくすぶっているのかもしれません。


治ったと早合点して、また同じような放埓な生活に戻し、かえってそれまでよりも病状を悪化させて命を縮めてしまうこともあるかもしれません。


本当に治したいと思ったら、ある一つの治療法に特定、依存せず、あらゆる角度から総合的にアプローチしていく必要があるのでしょう。


代替医療の泰斗アンドルーワイルは『最高の医療とは最小の侵襲で最大のプラシーボ効果をもたらすものである』と述べています。


表現の違いこそあれ、同じ事なのだと思います。


心も正しく変わり、生活も正しく変わる必要です。


沖先生もこう述べています

『治病にとって一番大切なことは、心を誤解による恐怖観念から解放すなわち離して、生活のあり方を改善し、身体の状態や心構えを全体的、且つ総合的に調整することによって、病気の自然的経過に協力することである。』


手技であれ、物理療法であれ、食養であれ、精神療法であれ、「治す」と思っている人間と「治った」と思っている人間との間で商売が成り立っているわけで、それにとやかく口をはさむのは無粋なのかもしれませんが、本当に治る可能性、つまり自立心、主体性を奪っているのであれば安易に見過ごすこともできないでしょう。


これは価値観や人生観に関わることかもしれません。


「なぜ生まれ、いかに生きるのか」ということです。

この人生を自らの進化と向上のためと位置づけるのか、なんとか間に合わせて生きながらえればいいと考えるのか。


本当の「やすらぎ」を求めたとき、どうしてもこの問題を避けては通れませんでした。


僕は少なくとも前者の生き方を選びたいと思っています。