では理神論とは何か、簡単に説明する
理神論=デイズムの「デイ」とは、これもゼウスを表す。「ダヴィンチ・コード」で出てきた「オプス・デイ」 opus dei の「デイ」もこれのこと。ただし英語では、大文字のGOD、唯一の存在であるゴッドのことを表す際に使われるのではなく、複数形小文字のgods のことを表す。ディーイティ deity と言う。この言葉は、ギリシャの神々のことを言う。ポリシーイズムの神々。だから理神論者は、この言い方を本来は認めていなかった。
そもそもディーイズムもシーイズムも、用語の区別はヨーロッパ思想ではいまだはっきりしていない。ディーイズムのつもりでシーイズムを使っていた例もある。どちらとも、互いを外側から軽蔑する言い方である。
理神論とはこれこそが現代につながる、一般の人々の共有する、今では普通の神の観念であり、反ローマ教会的な「教義」の中心である。これが「不可知論」(アグノスティシズムagnosticism )、果ては「無神論」(エイシーズム atheism )に変化した。というより、どうやら本来彼らは無神論を言いたかったらしい。
理神論とは一七世紀イングランドでチャーベリーのハーバートで知られるエドワード・ハーバートEdward Herbert, 1st Baron Herbert of Cherburyという男が作った。外交官であったらしい。
ジェファーソンやジョン・アダムス、ベンジャミン・フランクリンが理神論者であったことはよく知られていて、アメリカは理神論という反カトリック思想によって建国されたと言っても過言ではない。これは、小中高校の一般的な社会科の知識である。
シーイズムはこの理神論、ディーイズムと共に使われだした言葉で、この両者は同時に論じられなくてはならない。
ブリタニカの理神論の説明では、理神論者と言われる人名の列挙が続く。まるで犯罪者列伝であるかのような印象を抱いてしまう。それほどに理神論とは、根本的に無神論に直結している。ということは、無政府主義、アナーキズムにつながる。当然リバータリアン思想も理神論から来ている。アメリカの国是としての思想の20世紀版なのだから、当然の思想系譜と言えよう。
アメリカ建国の父(ファウンディング・ファーザーズ)や、初期の大統領たちはみな理神論者、ディーイストである。ワシントン、フランクリン、ジェファーソン、アダムズ、みな自分は理神論者であると公言している。これは完全にローマ教皇に反旗を翻す姿勢で、ヨーロッパ側から見ると「自分は犯罪者だ」と言っているようなもの。アメリカ建国自体が、ローマに支配された旧世界からの支配の脱却だったのだから、筋が通っている。
理神論は、ブリタニカのようないわゆる権威ある事典に載せるのは憚(はば)かれるような、体制、支配の側からは危険な思想を今でも孕(はら)んでいる。
政治家や学者、大企業経営者など、社会的立場のある人物や名士と言われるような人は、今でも理神論的思想を公言するのを憚(はばか)られるという傾向を持つ。彼ら社会的地位のある上層階級が気にする先は、いまでも最終的にはヴァチカンのローマ・カトリック教会である。同時に各プロテスタントの宗教教団であろう。宗教からも自由であるはずのアメリカともあろうものが、情けない。
では「有神論」シーイズムとは何か
そこでまず、エンサイクロペディア・ブリタニカで、シーイズム(有神論、人格神論とも言う)を説明します。
私がこの宗教仕分け、シーイズムやディーイズムを知ったのは、ブリタニカからです。それまでは、そのような宗教思想など知りようもなかった。どこにも書かれていない。いまだに。
ブリタニカの本体である「ミクロペディア」のシーイズムの定義から見てみましょう。冒頭にはこのように書かれている。
The view that all limited or finite things are dependent in some way on one supreme or ultimate reality of which one may also speak in personal terms.
「あらゆる限定された、または有限な事物は、人間の言葉でそれについて語ることも可能な、ある最高の、または究極の現実に、いずれかの方法で依存しているという見解。」
(ミクロペディア 冒頭の説明。 681ページ)
非常にわかりづらい。私の文章では、英語やラテン語、ギリシャ語の原文の引用し、その訳を書きます。まず普通の、当り前の訳を書いておきます。しかし、大概それではわかりづらい。
ですからそれを、普通の自然な日本語にもう一度直すというやり方をします。ですからもう一度言いかえましょう。
「シーイズムとは、次のような神の見方である。現実の世界の中では、人間や生物たちが生き、様々な物が存在している。しかし、それらはすべて限りある非力な存在だ。だからみな何らかの形で、ある最高の存在に頼って生きている。その存在とは、人の言葉では表せぬ至高の存在だが、各々が自分の言葉で、その存在を言葉にして表すとよいだろう」という意味である。
私は、「人間は非力」で「その存在は、言葉では表せぬ至高の存在」と言葉を補っています。これはマクロペディアの定義が裏付けてくれています。それを提示しましょう。
「Macropedia の定義」(五六三ページ)
The view that all limited or finite, things, though fully real in their own right, are dependent in some way upon, while, yet distinct from, one supreme or ultimate being, of which one may also speak in personal terms.
In religions, one speaks of this being as God, who is regarded as beyond human comprehension, perfect, and self-sustained but also as peculiarly involved in the world and its events.
「あらゆる制限のある、すなわち有限の物事は、それ自体では完全に現実ではあるが、何らかの形で、それでも別のものではあるが、ある一つの最高の、すなわち究極の存在に依存しており、その存在と人間の言葉で語ることも可能だという考え方。」
「宗教的には、この存在はゴッドであり、ゴッドは人知を超えており、完全で自立しながらも、個人的に世界とそこで起こる出来事に関わると考えられている。」
前半の段落は、ミクロペディアとほとんど変わらない。後半の段落には「ビヨンド・ヒューマン・コンプリヘンジョン」とある。「人間にはとらえられない」「人知を超えた」と言っている。これが、「人間は非力で、神を言葉では表せない」という意味を表している。
以上がシーイズムの定義である。世界のすべてのものは、究極の存在に依存している。その存在は人間の理解力を超えており、人知で把握することは出来ない。それでいて、世の中にあるものすべて、人間の生活にも心にもかかわってくるという考え方である。これがキリスト教の、カトリックの基本的な考え方である。
(注記:ピューリタン革命にさらされたホッブズの著作を読んでみると、こうした教えは必ずしもカトリックや、アングリカン・チャーチの教義ではないようだ。分離派と言われたピューリタン諸派が言い出したことで、どうもこれらのほとんどは、カルヴァン派である。長老派、改革派、会衆派、その後のバプティスト、メソジスト、ホーリネスらはすべてカルヴァン派と言ってよい。ですから、この稿でのシーイズム思想は、あくまで理神論者が言い出したものと解釈するべきである。)
さて、ここで問題なのは、唯一の存在とかそういうことではなく、人間に関わってくるという性質である。さらに人知を超えていることと、人間の言葉で話しかけられるという点が矛盾となってくる。このことは後に説明します。
「みだりに神の名を口に出してはいけない」の本当の意味
シーイズムは「一つの最高の究極の現実」(ア・シュープリーム・オア・アルティメット・リアリティ)がある、としている。この現実が神=GODのことであり、真実の存在、唯一の存在であるのは言うまでもない。
しかもその現実は最高存在なのだから、有限な人間では把握できるはずがない。しかし「言葉にして表してよい。各々勝手な個人の言葉で」といっている。これこそが神=GODの定義である。
神は言葉では表せない。しかし、偶像を禁ずるどの宗教も、神を言葉に表すのを禁じてはいない。本来神のことを、勝手に自分なりに表してもよいというのは、どの宗教でも同じである。これは不信心な態度だとは言われない。
しかし、そもそもこれは旧約聖書のユダヤ教の神、ヤーウェ(エホバ)のことである。ヤーウェも、本来はそのように発声されていなかったと山本七平は述べている。ヤーウェは本来、YHWHと表記され、それに母音を足したものだという考えなどがある。細かくはここでは追求しない。
いずれにしろ、神の名前をみだりに口にしてはいけないということの元を言っている一文である。
ですから、「神の名をみだりに口に出してはいけない」とは、本当は、「神は人知を超えているから、神を人間の言葉で表すことは出来ない(これは後に神の叙述問題となる)が、個々人で神の名を表しても構わない」というのが真実。
シーイズムは18世紀、反カトリックとして理神論側から言い出されたもの
ブリタニカは、この時点で、「理神論」「汎神論」(パンシーズム)「神秘主義」(ミスティシズム)と対照的説明が可能であるとしているが、これは先に述べた理神論から無神論への発展の順番と同じこと。汎神論も神秘主義も実は、理神論と同じ仲間なのである。
汎神論については述べたが、カバラーやヘルメス・トリスメギストスの思想も、理神論と同じで反カトリック思想から出てきている。
これはどういうことかというと、有神論=シーイズムの本質は、カトリックの神であるとか、ローマ教会の教えではなく、理神論の立場からのカトリックの教えだという見方である。ここのところはこの文章を貫く大きな流れであるから、よく理解してほしい。
この事実は「オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー」のシーイズムの定義に明記されている。定義は次の四つ。
a. generally. Belief in a deity, or deities, as opposed to atheism.
b. Belief in one god, as opposed to polytheism or pantheism; = Monotheism.
c. Belief in the existence in God, with denial of revelation: Deism.
d. esp. Belief in one God as creator and supreme ruler of the universe, without denial of revelation: in this use distinguished from deism.
一つ目と二つ目の定義にも、無神論や多神教、汎神論とは正反対であると書かれていることがわかる。しかし、ここで重要なのは、四つ目の理神論と対比させてある定義である。
「唯一の神、GODは、普遍的宇宙の創造者であり、宇宙の最高支配者であるという信仰で、神の啓示も否定しない。この用法で「理神論」と区別される」
ですから、シーイズム(有神論、人格神論)は理神論との対比として使われるべき言葉で、理神論の説明としてのキリスト教神学を表した言葉といえる。キリスト教神学の全体像が分かりやすいので、シオロジーやキリスト教の教義、聖書を読むよりもわかりやすいので、私たち一般の現代人がキリスト教思想を簡単に知る道具としては、有効ではある。
ただし、必ずしもその当時のローマ・カトリックやイギリス国教会の正式な教義そのものではないし、本来そんなことは言っていないことが多々あっても不思議はない。ローマ・カトリックの教義自体が長年にわたってと、様々な人間によって勝手に会社殊され、変質している面があると思われる。
シーイズムという言葉は、一七世紀、一六〇〇年代から使われ始めた。初出は、一七世紀イギリスのフィロソファーでプラトニストのラルフ・コドワースRalph Cudworth (一六一七年~一六八八年)の「ザ・トゥルー・インテレクチュアル・システム」(一六七八年)”The True Intellectual System of the Universe: the first part, wherein all the reason and philosophy of atheism is confuted and its impossibility demonstrated” という出版物からである。
その次はイギリスの政治家、シャフツベリー伯爵(一六七一年~一七三七年)Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesburyの「キャラクタリスティクス」(一七三七年)という著作の中である。シーイズムという言葉自体は、イギリスの名誉革命前後から出てきたということになる。
理神論=デイズムの「デイ」とは、これもゼウスを表す。「ダヴィンチ・コード」で出てきた「オプス・デイ」 opus dei の「デイ」もこれのこと。ただし英語では、大文字のGOD、唯一の存在であるゴッドのことを表す際に使われるのではなく、複数形小文字のgods のことを表す。ディーイティ deity と言う。この言葉は、ギリシャの神々のことを言う。ポリシーイズムの神々。だから理神論者は、この言い方を本来は認めていなかった。
そもそもディーイズムもシーイズムも、用語の区別はヨーロッパ思想ではいまだはっきりしていない。ディーイズムのつもりでシーイズムを使っていた例もある。どちらとも、互いを外側から軽蔑する言い方である。
理神論とはこれこそが現代につながる、一般の人々の共有する、今では普通の神の観念であり、反ローマ教会的な「教義」の中心である。これが「不可知論」(アグノスティシズムagnosticism )、果ては「無神論」(エイシーズム atheism )に変化した。というより、どうやら本来彼らは無神論を言いたかったらしい。
理神論とは一七世紀イングランドでチャーベリーのハーバートで知られるエドワード・ハーバートEdward Herbert, 1st Baron Herbert of Cherburyという男が作った。外交官であったらしい。
ジェファーソンやジョン・アダムス、ベンジャミン・フランクリンが理神論者であったことはよく知られていて、アメリカは理神論という反カトリック思想によって建国されたと言っても過言ではない。これは、小中高校の一般的な社会科の知識である。
シーイズムはこの理神論、ディーイズムと共に使われだした言葉で、この両者は同時に論じられなくてはならない。
ブリタニカの理神論の説明では、理神論者と言われる人名の列挙が続く。まるで犯罪者列伝であるかのような印象を抱いてしまう。それほどに理神論とは、根本的に無神論に直結している。ということは、無政府主義、アナーキズムにつながる。当然リバータリアン思想も理神論から来ている。アメリカの国是としての思想の20世紀版なのだから、当然の思想系譜と言えよう。
アメリカ建国の父(ファウンディング・ファーザーズ)や、初期の大統領たちはみな理神論者、ディーイストである。ワシントン、フランクリン、ジェファーソン、アダムズ、みな自分は理神論者であると公言している。これは完全にローマ教皇に反旗を翻す姿勢で、ヨーロッパ側から見ると「自分は犯罪者だ」と言っているようなもの。アメリカ建国自体が、ローマに支配された旧世界からの支配の脱却だったのだから、筋が通っている。
理神論は、ブリタニカのようないわゆる権威ある事典に載せるのは憚(はば)かれるような、体制、支配の側からは危険な思想を今でも孕(はら)んでいる。
政治家や学者、大企業経営者など、社会的立場のある人物や名士と言われるような人は、今でも理神論的思想を公言するのを憚(はばか)られるという傾向を持つ。彼ら社会的地位のある上層階級が気にする先は、いまでも最終的にはヴァチカンのローマ・カトリック教会である。同時に各プロテスタントの宗教教団であろう。宗教からも自由であるはずのアメリカともあろうものが、情けない。
では「有神論」シーイズムとは何か
そこでまず、エンサイクロペディア・ブリタニカで、シーイズム(有神論、人格神論とも言う)を説明します。
私がこの宗教仕分け、シーイズムやディーイズムを知ったのは、ブリタニカからです。それまでは、そのような宗教思想など知りようもなかった。どこにも書かれていない。いまだに。
ブリタニカの本体である「ミクロペディア」のシーイズムの定義から見てみましょう。冒頭にはこのように書かれている。
The view that all limited or finite things are dependent in some way on one supreme or ultimate reality of which one may also speak in personal terms.
「あらゆる限定された、または有限な事物は、人間の言葉でそれについて語ることも可能な、ある最高の、または究極の現実に、いずれかの方法で依存しているという見解。」
(ミクロペディア 冒頭の説明。 681ページ)
非常にわかりづらい。私の文章では、英語やラテン語、ギリシャ語の原文の引用し、その訳を書きます。まず普通の、当り前の訳を書いておきます。しかし、大概それではわかりづらい。
ですからそれを、普通の自然な日本語にもう一度直すというやり方をします。ですからもう一度言いかえましょう。
「シーイズムとは、次のような神の見方である。現実の世界の中では、人間や生物たちが生き、様々な物が存在している。しかし、それらはすべて限りある非力な存在だ。だからみな何らかの形で、ある最高の存在に頼って生きている。その存在とは、人の言葉では表せぬ至高の存在だが、各々が自分の言葉で、その存在を言葉にして表すとよいだろう」という意味である。
私は、「人間は非力」で「その存在は、言葉では表せぬ至高の存在」と言葉を補っています。これはマクロペディアの定義が裏付けてくれています。それを提示しましょう。
「Macropedia の定義」(五六三ページ)
The view that all limited or finite, things, though fully real in their own right, are dependent in some way upon, while, yet distinct from, one supreme or ultimate being, of which one may also speak in personal terms.
In religions, one speaks of this being as God, who is regarded as beyond human comprehension, perfect, and self-sustained but also as peculiarly involved in the world and its events.
「あらゆる制限のある、すなわち有限の物事は、それ自体では完全に現実ではあるが、何らかの形で、それでも別のものではあるが、ある一つの最高の、すなわち究極の存在に依存しており、その存在と人間の言葉で語ることも可能だという考え方。」
「宗教的には、この存在はゴッドであり、ゴッドは人知を超えており、完全で自立しながらも、個人的に世界とそこで起こる出来事に関わると考えられている。」
前半の段落は、ミクロペディアとほとんど変わらない。後半の段落には「ビヨンド・ヒューマン・コンプリヘンジョン」とある。「人間にはとらえられない」「人知を超えた」と言っている。これが、「人間は非力で、神を言葉では表せない」という意味を表している。
以上がシーイズムの定義である。世界のすべてのものは、究極の存在に依存している。その存在は人間の理解力を超えており、人知で把握することは出来ない。それでいて、世の中にあるものすべて、人間の生活にも心にもかかわってくるという考え方である。これがキリスト教の、カトリックの基本的な考え方である。
(注記:ピューリタン革命にさらされたホッブズの著作を読んでみると、こうした教えは必ずしもカトリックや、アングリカン・チャーチの教義ではないようだ。分離派と言われたピューリタン諸派が言い出したことで、どうもこれらのほとんどは、カルヴァン派である。長老派、改革派、会衆派、その後のバプティスト、メソジスト、ホーリネスらはすべてカルヴァン派と言ってよい。ですから、この稿でのシーイズム思想は、あくまで理神論者が言い出したものと解釈するべきである。)
さて、ここで問題なのは、唯一の存在とかそういうことではなく、人間に関わってくるという性質である。さらに人知を超えていることと、人間の言葉で話しかけられるという点が矛盾となってくる。このことは後に説明します。
「みだりに神の名を口に出してはいけない」の本当の意味
シーイズムは「一つの最高の究極の現実」(ア・シュープリーム・オア・アルティメット・リアリティ)がある、としている。この現実が神=GODのことであり、真実の存在、唯一の存在であるのは言うまでもない。
しかもその現実は最高存在なのだから、有限な人間では把握できるはずがない。しかし「言葉にして表してよい。各々勝手な個人の言葉で」といっている。これこそが神=GODの定義である。
神は言葉では表せない。しかし、偶像を禁ずるどの宗教も、神を言葉に表すのを禁じてはいない。本来神のことを、勝手に自分なりに表してもよいというのは、どの宗教でも同じである。これは不信心な態度だとは言われない。
しかし、そもそもこれは旧約聖書のユダヤ教の神、ヤーウェ(エホバ)のことである。ヤーウェも、本来はそのように発声されていなかったと山本七平は述べている。ヤーウェは本来、YHWHと表記され、それに母音を足したものだという考えなどがある。細かくはここでは追求しない。
いずれにしろ、神の名前をみだりに口にしてはいけないということの元を言っている一文である。
ですから、「神の名をみだりに口に出してはいけない」とは、本当は、「神は人知を超えているから、神を人間の言葉で表すことは出来ない(これは後に神の叙述問題となる)が、個々人で神の名を表しても構わない」というのが真実。
シーイズムは18世紀、反カトリックとして理神論側から言い出されたもの
ブリタニカは、この時点で、「理神論」「汎神論」(パンシーズム)「神秘主義」(ミスティシズム)と対照的説明が可能であるとしているが、これは先に述べた理神論から無神論への発展の順番と同じこと。汎神論も神秘主義も実は、理神論と同じ仲間なのである。
汎神論については述べたが、カバラーやヘルメス・トリスメギストスの思想も、理神論と同じで反カトリック思想から出てきている。
これはどういうことかというと、有神論=シーイズムの本質は、カトリックの神であるとか、ローマ教会の教えではなく、理神論の立場からのカトリックの教えだという見方である。ここのところはこの文章を貫く大きな流れであるから、よく理解してほしい。
この事実は「オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー」のシーイズムの定義に明記されている。定義は次の四つ。
a. generally. Belief in a deity, or deities, as opposed to atheism.
b. Belief in one god, as opposed to polytheism or pantheism; = Monotheism.
c. Belief in the existence in God, with denial of revelation: Deism.
d. esp. Belief in one God as creator and supreme ruler of the universe, without denial of revelation: in this use distinguished from deism.
一つ目と二つ目の定義にも、無神論や多神教、汎神論とは正反対であると書かれていることがわかる。しかし、ここで重要なのは、四つ目の理神論と対比させてある定義である。
「唯一の神、GODは、普遍的宇宙の創造者であり、宇宙の最高支配者であるという信仰で、神の啓示も否定しない。この用法で「理神論」と区別される」
ですから、シーイズム(有神論、人格神論)は理神論との対比として使われるべき言葉で、理神論の説明としてのキリスト教神学を表した言葉といえる。キリスト教神学の全体像が分かりやすいので、シオロジーやキリスト教の教義、聖書を読むよりもわかりやすいので、私たち一般の現代人がキリスト教思想を簡単に知る道具としては、有効ではある。
ただし、必ずしもその当時のローマ・カトリックやイギリス国教会の正式な教義そのものではないし、本来そんなことは言っていないことが多々あっても不思議はない。ローマ・カトリックの教義自体が長年にわたってと、様々な人間によって勝手に会社殊され、変質している面があると思われる。
シーイズムという言葉は、一七世紀、一六〇〇年代から使われ始めた。初出は、一七世紀イギリスのフィロソファーでプラトニストのラルフ・コドワースRalph Cudworth (一六一七年~一六八八年)の「ザ・トゥルー・インテレクチュアル・システム」(一六七八年)”The True Intellectual System of the Universe: the first part, wherein all the reason and philosophy of atheism is confuted and its impossibility demonstrated” という出版物からである。
その次はイギリスの政治家、シャフツベリー伯爵(一六七一年~一七三七年)Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesburyの「キャラクタリスティクス」(一七三七年)という著作の中である。シーイズムという言葉自体は、イギリスの名誉革命前後から出てきたということになる。