神学について
まず神学(シオロジー)、「神の学問」とは何か
神学とは一体何か。私は長い間、深く考えてきました。この原稿は、2011年から書き始めていたものです。しかし、昨年2013年に、副島隆彦から理神論を訳せと言われ、それをきっかけとして、その反対の神学、「有神論」(シーイズム、セイズム theism )を仕分けし終わり、宗教と神学の結論と神の存在論の真実が、はっきりと認識出来ました。
結論から言いましょう。神学、キリスト教神学とは「カトリック、ローマ教会、ヴァチカントップの枢機卿集団(すうききょうしゅうだん、コンクラーヴェ、英語でコンクレイヴ、ローマ法王=ポープを決定する最高会議)による人民に対する、思想だけではなく、モラル=道徳、心の在り方までをも支配管理する学問」なのです。
では神学というのはいったい何だろうか。宗教ではない。いわゆる「宗教」(リリジオン religion )とか「信仰」(ビリーフ belief ビリーヴィング believing フェイス faith )とは違う。祖先崇拝とか自然崇拝に使う「崇拝」(ワーシップ worship )とも違う。神のことを考える、思う、祈るということが神学ではない。
「神学」とはシオロジー( theology セオロジー、テオロジー)という。これは中世から始まり、今でも存在する。カトリック、ローマ教会のエリート養成教育学問である。
カトリック教会のエリートとは、ローマ法王(教皇、ポープ pope )が頂点にいる、圧倒的に上位階級の僧侶、聖職者( clergymanクラージーマンという)のこと。上から、法王、枢機卿(カーディナル cardinal )、大司教(アーチビショップ archbishop )、司教(ビショップ bishop )、司祭(プリースト priest )となる。
さらに、ヴァチカンの中にはコンクラーヴェ(コンクレイヴ conclave カトリック中央協議会)という枢機卿の集まりがあり、この枢機卿は司教枢機卿、司祭枢機卿、助祭枢機卿などと言って、一般の司教らとは違うらしい。
この枢機卿の集まりがローマ法王を決める。カトリックの出世とは、この特別な司教や司祭である枢機卿になることが最終目的である。
元外交官の佐藤優氏は、同志社大学神学部卒である。佐藤氏の神学関係の著作には、シオロジー、つまり日本の神学部で学ぶことや、本人が学んだことが事細かく書いてある。佐藤勝氏の学んでいたものは、組織神学というらしいが、まさしくシオロジーである。ただしプロテスタント側の。
私を含めた一般の人間が、ローマ教会幹部を目指す神学を学んでも、一体何のことだかわからない。神学は人間の思想統制、思想コントロールの学問であり、思想警察=ソート・ポリス thought police につながります。
思想ではなく、人間の「行動」の方を束縛するのは、権力であり、統治する政治と行政(警察、検察、国税当局)の世界である。しかし、シオロジーは人間の「脳」をコントロールする学問。神学は、人への支配を行動や思想にとどまらず、人としてのモラル、道徳、倫理までもコントロールする学問だという側面がある。教会は「モラル警察」と言っていい。
この意味で、神学とは、大半の人々には本質的理解が難しく、庶民の実生活に不必要である。その本質を暴いていく必要があるが、歴史上の哲学者や科学者、政治思想(ロック、ホッブズ、ガリレオ、コペルニクス、スピノザ、デカルトといった無数の人々)のほとんど、特に近代思想は、神学の欺瞞を暴くためにあったともいえる。いまさら私がいうことでもないほどに、多くの言論が行われ、多くの解説書が存在する。
シオロジーの解説は、本筋を外し、結局キリスト教組織の在り方を学ぶことになってしまう。私たち、普通の人が知りたい、知るべきことはすかされてしまう。
ではキリスト教の神について何を学ぶべきか、知るべきか
シオロジーがダメなら、何から神に入ればいいのか。私たちが知らなければならない「神学」とは、「シーイズム」theism の方である。
シーイズム(セイズムともいう)は「有神論」(ゆうしんろん)とか「人格神論」(じんかくしんろん)という。キリストの神性を認める思想である。イエス・キリストは神であるという思想。イエスの人性論ともいう。カトリック教義、アタナシウス派の「三位一体」(トリニティ trinity )のことだと言っていいでしょう。
それを外側(キリストが神であることを否定した理神論の側)から観察したものが「シーイズム」という。これは、中世神学哲学(フィロソフィコ・シオロジー)と言って、「スコラ哲学」である。カトリックの教義、ドグマそのものではない。
副島隆彦の学問道場の「フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を作った」(成甲書房 2014年7月)に理神論のブリタニカからの説明を載せたが、じつは理神論だけを見てもあまり意味はないのです。ここに16世紀に出現し、17世紀に隆盛を極めた理神論者(ディーイスト、デイスト)が「ローマ教会の教えはシーイズムだ」と言って批判した。彼らが批判したカトリックの教義の基本知識と問題点を提示しよう。
「シオ」「テオ」の意味から
シオロジー theologyもシーイズム theismも、その両者の頭の3文字「テ、シー」the、または「シオ、テオ」theo は「ゼウス」「デウス」deusのことを表す。時代の変化と、地域の違いで、発声や綴(つづ)りが変わっただけ。天主、天、いわゆる神のこと。
ラテン語のデウス deus が変わってデュオdeuo, duo となって、シオとか、シー theo, the という発声、綴(つづ)りとなった。「テオ」と言ってもいいし、テオロジーでもテイズムと表現してもよい。ギリシャ語がラテン語化して、ドイツ語や英語になったものである。
オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー(OEDといい、分厚い数十冊の辞書集)によれば、シーイズムの接頭辞 theは、ギリシャの「テオス」θέ-ός = goodから来ているとある。
ローマン・カトリック教会はシーイズムなど認めているはずがない。これは教会外から見た神学論、神学=シオロジー批判であり、理神論者が、ローマ教会の教義を指して言い出したものだ。理神論者とは何か。ディーイスト(デイスト)はキリストの神性と三位一体というアタナシウス派の教義を否定していた人々のこと。反カトリックであり、無神論者(エイシーイスト atheist )に近い。
理神論者、デイストたちが批判し、名指ししたシーイズム自体、結局何なのだろうか。それは、中世の哲学の事である。アンセルムスから始まり、トマス・アクィナスに終るあれのこと。つまり、スコラ哲学に他ならない。
スコラ哲学は、そもそもローマ・カトリック教会の正統教義ではない。むしろ異端である。スコラ哲学というが、それは「哲学的神学(フィロソフィコ・シオロジー)」という。神学と哲学はそもそも一緒になれるわけがない。なぜなら、この二つは「信じること」と「疑うこと」という、相反する思考だからである。「信仰」と「疑問」だ。だからそもそも、哲学、つまり問いかけ、疑問に思うことは、キリスト教にとどまらず、ユダヤ教やイスラム教の教会当局から嫌われ続けた態度である。
「疑問」や「問いかける」ことこそが「理性」「合理」ということだ。英語ではラショナル。ラショナルな態度は、現在世界で通用する普遍的価値観で、欧米近代社会のみならず、イスラムの世界でも通じる。通じないのは日本人で、特に老人。しかし、ラショナルな態度は、教会から忌み嫌われた。
(鴨川光 注記:日本ではラショナルに「合理」「理性」「理由」という訳語が与えられているが、すべて元はラショナルである。「冷静な態度」ではなく、「他人のモラルや価値観、思想や宗教に関わることなく、お金で割り切ってあとくされ無く縁を切る態度。これこそがラショナルという意味。」
有神論、汎神論、理神論、不可知論、無神論の流れを覚えよう
ブリタニカの宗教思想の項目には、世界の宗教思想(ヒンズー、イスラム、キリストとかそういった宗教教団という外面的な仕分けではない)が細かく仕分けされている。その半分は、自然崇拝、アニミズム、祖先崇拝といった、文化人類学的知識に過ぎない。ここのところを宗教思想の「本流」と勘違いしてはいけない。
残り半分が反カトリック、反キリスト教会的知識であり、いわゆる「宗教思想」であり、私たち一般庶民が心得ておくべき「神学」の部分。
まずは一神教(モノシーイズム)、多神教(ポリシーイズム)、宗教的二元論(リリジャス・デュアリズム、ゾロアスター教のことで、実はこれが一番重要)から始まって、さらにそれ以降の最後の4つの順序が重要である。
有神論(シーイズム)、理神論(ディーイズム)、不可知論(アグノスティシズム)、無神論(エイシーズム)の順で書かれている。もう一つ汎神論(パンシーズム、パンテイズム)があるが、汎神論だけこれら4つの思想の前に出ている。おそらく汎神論は、キリスト教神学以前からあり、少なくとも近代以前から唱えられてきた思想であろう。
汎神論は非常に気になる思想で、日本では一般的に、日本の「八百万(やおろず)の神」とか「祖先崇拝」と同一視されている。しかし、どうもそれとは違う。
スピノザやデカルトは「自分は汎神論者だ」と言って、ローマ・教会から迫害されたというが、実はそう言い逃れてきたのだと思う。自分は汎神論を信じると言えば、16世紀や17世紀でもお咎(とが)めなしだったのだろう。
汎神論は独特の立場があり、これも掘り起こす必要がある。おそらくは言い逃れの道具、昔からある少し迷信めいた思想だろう。
キリスト教思想の根幹の一つである三位一体(トリニティー)の要素である「精霊(ホーリー・スピリット)」はこれから来ていると思う。また、イギリス人やアイリッシュが元々信じていたドルイド教は汎神論である。ジョン・レノンの歌にも出てくる。
そんな原始的で未開的色合いを残している汎神論は、「そんなもの信じているこいつは少し教化してやる必要がある」とローマ教会当局に思わせるに便利な言い逃れの役割を果たしたのだと思う。あるいは「落としどころ」であっただろう。そうでないとなぜデカルトやスピノザのような当時最先端の明晰な人間がそんなものを信じていたのか説明がつかない。
話を元に戻す。汎神論以外の、ブリタニカにある宗教思想項目の最後のこの4つの宗教思想だが、この順番が重要である。有神論、理神論、不可知論、無神論。この順番で書かれている。
2009年の10月に私は、副島隆彦氏に電話で興味深いことを言われた。
「不可知論っていうのがあるだろ。あれはアグノスティシズム agnosticism というよな。「グノ」gno、「ノウ」noの部分がある。あれが「ノウ」know 「ナレッジ」 knowledge という意味で、哲学のグノーシス gnosis も「グノ」で同じだろ。結局、真実はわからないってことで、不可知論と同じことを言っていて、最終的に無神論、エイシーズムに行くんだよ」と言われた。
実際にはグノーシスというのは、逆の意味で、「知る」という意味らしいのだが、いずれにしろ異端的な思想で、哲学の範疇に入る。実に有名で重要思想だが、今のところよくわからない。私は、グノーシスは不可知論(アグノスティシズム)の哲学版だと思っている。プラトンの思想や、仏教の唯識と同一のもので、そのような大きな運動のうねりがあったと思う。
副島先生が言いたかったことは、「哲学も合わせて種々雑多な思想が出てきた理由は、結局、神はいない、または分からない。だから神がいることを前提としたローマ・カトリック教会、ヴァチカンと法王の生活や、態度、考えやモラル、脳の中まで支配するお仕着せの教えはウソ欺瞞だ」ということである。
その流れが「神がいるかどうかわからない=不可知論、アグノスティシズム」から「いや、神なんかいない=無神論、エイシーズム」という。ニュートンやデカルトなども「お前は神がいないとか、神がやったとかいうが本当はどうなのだ」と教会当局(思想警察。モラル警察)から責め立てられ、「わ、私は、神がいるかどうかわからないと言っただけだ」とごまかしたのだろう。それでも「神がいるかどうかは知らない」では相当やばい。そこで理神論が出てきた。
理神論は「神はいるが、イエスは神ではないし、三位一体は知らない。神は世界を創造したが、人間生活には関わらない」という思想。不可知論の一歩手前の思想である。
ところが「人間生活にはかかわらない」という、ここが実にヤバイ。相当やばい。実に親切な気がするが、余計なおせっかいすぎるというのがその真相。
神=ゴッドとは、実際にはそのまま教会権力のことをいう。人間生活や国全体、外国へ積極的に「関わる」、「コミット」( commit あるいはエンゲージ engage )する「責任」があると自らを見なす。
だから教会は国内外に関わらず紛争を止めるため、戦争だって積極的に行うし、超苦節はまずいので「支援」する。今は世俗権力である「政府」がそれを行う。安倍晋三が積極的にかかわって役割を果たしている、積極的平和政策はそれと全く同じことである。2015年1月19日に、安倍晋三はイスラエルのリクード党(テロと大虐殺でイスラエルを建国したイルグン団やグーシュ・エムニームの直系)党首ネタニヤフに約束した。
神学の話に戻るが、ブリタニカの宗教思想の目次の並びを見て、私はうわっと思った。副島隆彦氏が電話で私に行ったことが、世界普遍価値(ワールド・ヴァリューズという)として、そこに「見出し」という形ではっきりと提示されていた。
ブリタニカは、私の住んでいる東京都下、つまり東京の田舎の、子供やジジババ、ホームレス(昔は障碍者がいたが、今はいない。安全を理由に締め出されているのだろう)が利用する、どこにでもある「地元の」図書館である。
私、鴨川の役割は、副島理論が本当であるかどうかの検証と裏付けとりである。サイエンスの手法であるテスティフィケイションをする、追試するということである。「副島思想商店」の「番頭」のごとく副島理論をそのまま鵜呑みにする「思想オカマ」「思想ホモ」「思想オタ」ではない。こういう人間はたくさんいる。反対に、揚げ足取りと単純な批判に趣旨する「思想DQN(ドキュン、脳を撃ち抜かれたバカ)」「思想中二病(いい年こいたひねくれ者)」をやっている場合ではない。こういう粘着質キチガイはネットの風物詩だ。
この私の文章は、本質的に神学論というより、「理神論とは何か」である。現代の神学論争は理神論から出てきた。理神論と有神論の神学論争の世界で共有されている普遍価値を提示しましょう。
まず神学(シオロジー)、「神の学問」とは何か
神学とは一体何か。私は長い間、深く考えてきました。この原稿は、2011年から書き始めていたものです。しかし、昨年2013年に、副島隆彦から理神論を訳せと言われ、それをきっかけとして、その反対の神学、「有神論」(シーイズム、セイズム theism )を仕分けし終わり、宗教と神学の結論と神の存在論の真実が、はっきりと認識出来ました。
結論から言いましょう。神学、キリスト教神学とは「カトリック、ローマ教会、ヴァチカントップの枢機卿集団(すうききょうしゅうだん、コンクラーヴェ、英語でコンクレイヴ、ローマ法王=ポープを決定する最高会議)による人民に対する、思想だけではなく、モラル=道徳、心の在り方までをも支配管理する学問」なのです。
では神学というのはいったい何だろうか。宗教ではない。いわゆる「宗教」(リリジオン religion )とか「信仰」(ビリーフ belief ビリーヴィング believing フェイス faith )とは違う。祖先崇拝とか自然崇拝に使う「崇拝」(ワーシップ worship )とも違う。神のことを考える、思う、祈るということが神学ではない。
「神学」とはシオロジー( theology セオロジー、テオロジー)という。これは中世から始まり、今でも存在する。カトリック、ローマ教会のエリート養成教育学問である。
カトリック教会のエリートとは、ローマ法王(教皇、ポープ pope )が頂点にいる、圧倒的に上位階級の僧侶、聖職者( clergymanクラージーマンという)のこと。上から、法王、枢機卿(カーディナル cardinal )、大司教(アーチビショップ archbishop )、司教(ビショップ bishop )、司祭(プリースト priest )となる。
さらに、ヴァチカンの中にはコンクラーヴェ(コンクレイヴ conclave カトリック中央協議会)という枢機卿の集まりがあり、この枢機卿は司教枢機卿、司祭枢機卿、助祭枢機卿などと言って、一般の司教らとは違うらしい。
この枢機卿の集まりがローマ法王を決める。カトリックの出世とは、この特別な司教や司祭である枢機卿になることが最終目的である。
元外交官の佐藤優氏は、同志社大学神学部卒である。佐藤氏の神学関係の著作には、シオロジー、つまり日本の神学部で学ぶことや、本人が学んだことが事細かく書いてある。佐藤勝氏の学んでいたものは、組織神学というらしいが、まさしくシオロジーである。ただしプロテスタント側の。
私を含めた一般の人間が、ローマ教会幹部を目指す神学を学んでも、一体何のことだかわからない。神学は人間の思想統制、思想コントロールの学問であり、思想警察=ソート・ポリス thought police につながります。
思想ではなく、人間の「行動」の方を束縛するのは、権力であり、統治する政治と行政(警察、検察、国税当局)の世界である。しかし、シオロジーは人間の「脳」をコントロールする学問。神学は、人への支配を行動や思想にとどまらず、人としてのモラル、道徳、倫理までもコントロールする学問だという側面がある。教会は「モラル警察」と言っていい。
この意味で、神学とは、大半の人々には本質的理解が難しく、庶民の実生活に不必要である。その本質を暴いていく必要があるが、歴史上の哲学者や科学者、政治思想(ロック、ホッブズ、ガリレオ、コペルニクス、スピノザ、デカルトといった無数の人々)のほとんど、特に近代思想は、神学の欺瞞を暴くためにあったともいえる。いまさら私がいうことでもないほどに、多くの言論が行われ、多くの解説書が存在する。
シオロジーの解説は、本筋を外し、結局キリスト教組織の在り方を学ぶことになってしまう。私たち、普通の人が知りたい、知るべきことはすかされてしまう。
ではキリスト教の神について何を学ぶべきか、知るべきか
シオロジーがダメなら、何から神に入ればいいのか。私たちが知らなければならない「神学」とは、「シーイズム」theism の方である。
シーイズム(セイズムともいう)は「有神論」(ゆうしんろん)とか「人格神論」(じんかくしんろん)という。キリストの神性を認める思想である。イエス・キリストは神であるという思想。イエスの人性論ともいう。カトリック教義、アタナシウス派の「三位一体」(トリニティ trinity )のことだと言っていいでしょう。
それを外側(キリストが神であることを否定した理神論の側)から観察したものが「シーイズム」という。これは、中世神学哲学(フィロソフィコ・シオロジー)と言って、「スコラ哲学」である。カトリックの教義、ドグマそのものではない。
副島隆彦の学問道場の「フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を作った」(成甲書房 2014年7月)に理神論のブリタニカからの説明を載せたが、じつは理神論だけを見てもあまり意味はないのです。ここに16世紀に出現し、17世紀に隆盛を極めた理神論者(ディーイスト、デイスト)が「ローマ教会の教えはシーイズムだ」と言って批判した。彼らが批判したカトリックの教義の基本知識と問題点を提示しよう。
「シオ」「テオ」の意味から
シオロジー theologyもシーイズム theismも、その両者の頭の3文字「テ、シー」the、または「シオ、テオ」theo は「ゼウス」「デウス」deusのことを表す。時代の変化と、地域の違いで、発声や綴(つづ)りが変わっただけ。天主、天、いわゆる神のこと。
ラテン語のデウス deus が変わってデュオdeuo, duo となって、シオとか、シー theo, the という発声、綴(つづ)りとなった。「テオ」と言ってもいいし、テオロジーでもテイズムと表現してもよい。ギリシャ語がラテン語化して、ドイツ語や英語になったものである。
オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー(OEDといい、分厚い数十冊の辞書集)によれば、シーイズムの接頭辞 theは、ギリシャの「テオス」θέ-ός = goodから来ているとある。
ローマン・カトリック教会はシーイズムなど認めているはずがない。これは教会外から見た神学論、神学=シオロジー批判であり、理神論者が、ローマ教会の教義を指して言い出したものだ。理神論者とは何か。ディーイスト(デイスト)はキリストの神性と三位一体というアタナシウス派の教義を否定していた人々のこと。反カトリックであり、無神論者(エイシーイスト atheist )に近い。
理神論者、デイストたちが批判し、名指ししたシーイズム自体、結局何なのだろうか。それは、中世の哲学の事である。アンセルムスから始まり、トマス・アクィナスに終るあれのこと。つまり、スコラ哲学に他ならない。
スコラ哲学は、そもそもローマ・カトリック教会の正統教義ではない。むしろ異端である。スコラ哲学というが、それは「哲学的神学(フィロソフィコ・シオロジー)」という。神学と哲学はそもそも一緒になれるわけがない。なぜなら、この二つは「信じること」と「疑うこと」という、相反する思考だからである。「信仰」と「疑問」だ。だからそもそも、哲学、つまり問いかけ、疑問に思うことは、キリスト教にとどまらず、ユダヤ教やイスラム教の教会当局から嫌われ続けた態度である。
「疑問」や「問いかける」ことこそが「理性」「合理」ということだ。英語ではラショナル。ラショナルな態度は、現在世界で通用する普遍的価値観で、欧米近代社会のみならず、イスラムの世界でも通じる。通じないのは日本人で、特に老人。しかし、ラショナルな態度は、教会から忌み嫌われた。
(鴨川光 注記:日本ではラショナルに「合理」「理性」「理由」という訳語が与えられているが、すべて元はラショナルである。「冷静な態度」ではなく、「他人のモラルや価値観、思想や宗教に関わることなく、お金で割り切ってあとくされ無く縁を切る態度。これこそがラショナルという意味。」
有神論、汎神論、理神論、不可知論、無神論の流れを覚えよう
ブリタニカの宗教思想の項目には、世界の宗教思想(ヒンズー、イスラム、キリストとかそういった宗教教団という外面的な仕分けではない)が細かく仕分けされている。その半分は、自然崇拝、アニミズム、祖先崇拝といった、文化人類学的知識に過ぎない。ここのところを宗教思想の「本流」と勘違いしてはいけない。
残り半分が反カトリック、反キリスト教会的知識であり、いわゆる「宗教思想」であり、私たち一般庶民が心得ておくべき「神学」の部分。
まずは一神教(モノシーイズム)、多神教(ポリシーイズム)、宗教的二元論(リリジャス・デュアリズム、ゾロアスター教のことで、実はこれが一番重要)から始まって、さらにそれ以降の最後の4つの順序が重要である。
有神論(シーイズム)、理神論(ディーイズム)、不可知論(アグノスティシズム)、無神論(エイシーズム)の順で書かれている。もう一つ汎神論(パンシーズム、パンテイズム)があるが、汎神論だけこれら4つの思想の前に出ている。おそらく汎神論は、キリスト教神学以前からあり、少なくとも近代以前から唱えられてきた思想であろう。
汎神論は非常に気になる思想で、日本では一般的に、日本の「八百万(やおろず)の神」とか「祖先崇拝」と同一視されている。しかし、どうもそれとは違う。
スピノザやデカルトは「自分は汎神論者だ」と言って、ローマ・教会から迫害されたというが、実はそう言い逃れてきたのだと思う。自分は汎神論を信じると言えば、16世紀や17世紀でもお咎(とが)めなしだったのだろう。
汎神論は独特の立場があり、これも掘り起こす必要がある。おそらくは言い逃れの道具、昔からある少し迷信めいた思想だろう。
キリスト教思想の根幹の一つである三位一体(トリニティー)の要素である「精霊(ホーリー・スピリット)」はこれから来ていると思う。また、イギリス人やアイリッシュが元々信じていたドルイド教は汎神論である。ジョン・レノンの歌にも出てくる。
そんな原始的で未開的色合いを残している汎神論は、「そんなもの信じているこいつは少し教化してやる必要がある」とローマ教会当局に思わせるに便利な言い逃れの役割を果たしたのだと思う。あるいは「落としどころ」であっただろう。そうでないとなぜデカルトやスピノザのような当時最先端の明晰な人間がそんなものを信じていたのか説明がつかない。
話を元に戻す。汎神論以外の、ブリタニカにある宗教思想項目の最後のこの4つの宗教思想だが、この順番が重要である。有神論、理神論、不可知論、無神論。この順番で書かれている。
2009年の10月に私は、副島隆彦氏に電話で興味深いことを言われた。
「不可知論っていうのがあるだろ。あれはアグノスティシズム agnosticism というよな。「グノ」gno、「ノウ」noの部分がある。あれが「ノウ」know 「ナレッジ」 knowledge という意味で、哲学のグノーシス gnosis も「グノ」で同じだろ。結局、真実はわからないってことで、不可知論と同じことを言っていて、最終的に無神論、エイシーズムに行くんだよ」と言われた。
実際にはグノーシスというのは、逆の意味で、「知る」という意味らしいのだが、いずれにしろ異端的な思想で、哲学の範疇に入る。実に有名で重要思想だが、今のところよくわからない。私は、グノーシスは不可知論(アグノスティシズム)の哲学版だと思っている。プラトンの思想や、仏教の唯識と同一のもので、そのような大きな運動のうねりがあったと思う。
副島先生が言いたかったことは、「哲学も合わせて種々雑多な思想が出てきた理由は、結局、神はいない、または分からない。だから神がいることを前提としたローマ・カトリック教会、ヴァチカンと法王の生活や、態度、考えやモラル、脳の中まで支配するお仕着せの教えはウソ欺瞞だ」ということである。
その流れが「神がいるかどうかわからない=不可知論、アグノスティシズム」から「いや、神なんかいない=無神論、エイシーズム」という。ニュートンやデカルトなども「お前は神がいないとか、神がやったとかいうが本当はどうなのだ」と教会当局(思想警察。モラル警察)から責め立てられ、「わ、私は、神がいるかどうかわからないと言っただけだ」とごまかしたのだろう。それでも「神がいるかどうかは知らない」では相当やばい。そこで理神論が出てきた。
理神論は「神はいるが、イエスは神ではないし、三位一体は知らない。神は世界を創造したが、人間生活には関わらない」という思想。不可知論の一歩手前の思想である。
ところが「人間生活にはかかわらない」という、ここが実にヤバイ。相当やばい。実に親切な気がするが、余計なおせっかいすぎるというのがその真相。
神=ゴッドとは、実際にはそのまま教会権力のことをいう。人間生活や国全体、外国へ積極的に「関わる」、「コミット」( commit あるいはエンゲージ engage )する「責任」があると自らを見なす。
だから教会は国内外に関わらず紛争を止めるため、戦争だって積極的に行うし、超苦節はまずいので「支援」する。今は世俗権力である「政府」がそれを行う。安倍晋三が積極的にかかわって役割を果たしている、積極的平和政策はそれと全く同じことである。2015年1月19日に、安倍晋三はイスラエルのリクード党(テロと大虐殺でイスラエルを建国したイルグン団やグーシュ・エムニームの直系)党首ネタニヤフに約束した。
神学の話に戻るが、ブリタニカの宗教思想の目次の並びを見て、私はうわっと思った。副島隆彦氏が電話で私に行ったことが、世界普遍価値(ワールド・ヴァリューズという)として、そこに「見出し」という形ではっきりと提示されていた。
ブリタニカは、私の住んでいる東京都下、つまり東京の田舎の、子供やジジババ、ホームレス(昔は障碍者がいたが、今はいない。安全を理由に締め出されているのだろう)が利用する、どこにでもある「地元の」図書館である。
私、鴨川の役割は、副島理論が本当であるかどうかの検証と裏付けとりである。サイエンスの手法であるテスティフィケイションをする、追試するということである。「副島思想商店」の「番頭」のごとく副島理論をそのまま鵜呑みにする「思想オカマ」「思想ホモ」「思想オタ」ではない。こういう人間はたくさんいる。反対に、揚げ足取りと単純な批判に趣旨する「思想DQN(ドキュン、脳を撃ち抜かれたバカ)」「思想中二病(いい年こいたひねくれ者)」をやっている場合ではない。こういう粘着質キチガイはネットの風物詩だ。
この私の文章は、本質的に神学論というより、「理神論とは何か」である。現代の神学論争は理神論から出てきた。理神論と有神論の神学論争の世界で共有されている普遍価値を提示しましょう。