わたしの自己分析をここに記してみます。
今までも書いてきたようなことだけど、改めて。

わたしは昔から、他人に評価されることはよくありました。
正直成績もずっとそれなりによかったし、部活もそれなりに頑張ってリーダーやったこともあるし、
いい評価を受けること、たくさんありました。
でもそうなればなるほど、そうではない人の気持ちをわからなければいけないと思うようになりました。
頭でっかちの人間になってはいけない、
みーーーんなの気持ちが分かる人でいたい。
でもなんだろう、その時点で、軸はずっと人の評価にあったのかもしれません。

みんなが、評価されて生きていくものだと思っていた。
評価なんて気にしない人もいただろうし、
評価されていることに気付いていない人だっている。
あたしはいつも、全員が評価されることを前提に、
10点をもらえる人と、5点や4点しかもらえない人を想像して、
自分は何点だ?自分の立ち振舞いはそれに伴っていたか?
4点の人はなんて声をかけてもらったら嬉しいか?
そんなことばっかり、考えていました。


でも大人になると、評価なんて、
もちろん評価は存在するのだけれど、
それに固執されていいことなんてなくて。
過程も大切だし、数字には表せられないことばかりだし、
いってみれば、「ちゃんと見てくれている」「ちゃんと評価してくれる」人の方が、
どんどん少なくなっていきますよね。


あたしはいったい何に縛られているんだろう、思ったんです。
あたしは、本当に一生懸命に生きてきました。
生きている、と思います。
毎日の仕事も、身の回りの家事も、
家族、友人、恋人への気遣いも、我ながら、大事な人に対しての愛情はとても深いと思います。

そんなあたしを、
なんであたしは認めてあげられないんでしょうか。
あたしの価値はあたししかちゃんと分かってはあげられない。
評価に頼る必要はないわけです。

これも、自己否定の言葉をやめたから、少しずつ、本当の意味であたしを認められたからなのかもしれない。

自傷行為は依存症みたいなものなので、
いまだにしたくなります。
抱き締めてもらうための、傷を自分でつけようとする。


あたしはあたしのことを誉めていこう。
これからは毎日自分を誉める言葉を書いていこうかな、
また毎日更新をしていきたいな。



「あー、誰にもないものを
 持っていたいのになぁ
 無理矢理に抱き締めてた
 心を今解いて
 優しい心を持ちたいのだけれど
 時にはがむしゃらに怒って
 涙は真に受け止める
 愛を知るまでは死ねない私なのだ!
 導かれた運命辿って
 今日も明日も生きていこう」
(あいみょん 愛を知るまでは)