こんにちは。
大分ご無沙汰していますが、元気です。
今回は、母方のルーツがある那珂湊について。
那珂湊の「那珂」は、那珂川が茨城と福岡にあったり、
「那賀」「中」など似たような地名が海沿い・川沿いの日本全国にあったりして、
そこには、同族が住んでいるのでは?と思い、個人的に興味を持っています。
福岡では、古代は「那珂の海人」と呼ばれているようで、海洋民族の可能性が。
また、ナーガ(蛇神)信仰があったのでは?と諸説あるようです。
先日、那珂湊出身でもある、パパ友とその妹さんに会いました。
那珂湊では同じ商店街に住んでいたこともあり、私の祖父母の店にも
よく来ていたというご縁のある方。![]()
妹さんとは初めて会ったのですが、那珂湊の八朔まつりに詳しい方で、
八朔まつりの獅子にまつわる面白い話を聞きました。

photo: みなと八朔まつりより
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御祭禮には六町目より露払いとして獅子を出すことになっています。
六町目の獅子は3匹の獅子で「ささら」と言われ底なし屋台で、あやつり人形のようなもので、屋台の上で「踊り」が披露されます。この3匹獅子は親子獅子だと言われています。
このような棒にくくりつけて振るタイプの獅子を「棒ささら」とも呼びます。
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みなと八朔まつりより
その方によると、
3匹の獅子は、父親の獅子、母親の獅子、子の獅子の3匹で、
この土地にお嫁に来たけれど、隠れてしまったお姫様を獅子が迎えにゆく話だそう。
まずは、父親の獅子、次に母親の獅子、最後に子の獅子が姫を順番に探しに行くものの、獅子を怖がり、姫は結局隠れて出てこない
という話だそうです。
ウェブで詳しく説明してくださる地元の方のブログを発見。
写真の獅子の屋台の真ん中に花の棒が立っています。↓

photo: こちらのサイト(水戸地方お囃子研究所)から
あの花の中に お姫様が隠れていて、それを探して獅子が踊るそう。
さらに、チャッピーによると、
近隣の平磯には、「棒ささら」の物語で類似した詳しい物語があるそうで、
悪霊によって姫が牡丹の花に変えられてしまう
- 父獅子・母獅子・子獅子が姫を探す
- 悪霊を追い払い姫を救い出す
というはっきりしたストーリーが伝わっている。
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もう少し茨城の姫伝説について詳しく調べたら、おもしろい話がありました![]()
・金色姫(こんじきひめ):天竺(インド)の王女・金色姫が継母にいじめられ、丸木舟に乗せられて海へ流される。舟は常陸国(現在の茨城県北部沿岸)に漂着し、姫は地元の夫婦に助けられる。しかし病で亡くなり、その後、姫の身体から蚕が生まれ、養蚕の技術が人々に伝わったという話。蚕影神社・蚕養神社・蚕霊神社に伝わる。
・照手姫(てるてひめ):常陸国の豪族・小栗氏(茨城県筑西市周辺)に関わる伝説のヒロイン。 絶世の美女で、小栗判官との恋を貫くために苦難を乗り越える物語。関東一円に伝わる。
・千代姫 :耳守神社に伝わる姫。 平安時代の末期の、平繁盛の孫娘千代姫の耳の病気の伝説。耳の病を患った千代姫が神仏の加護で救われたという伝承があり、「耳の神様」として信仰されるようになった。
・織姫塚:那珂川河口近くの涸沼川沿いに佇む大きな岩塊で、岩の下は深い淵で、機を織る姫が住んでいて、凪の日に水面に耳をあてると機を織る音が聞こえたそう。
ある日、徳川光圀公(水戸黄門)が和田平助正勝(助さん)と水底の姫を訪ねるため河に入った。水底の大きな門の扉を叩くと美しい姫が出てき。ところが、姫曰く「貴方たちの来る所ではない。長く居ると命はない。」と追い返された。
仕方なく門を出ようとすると、扉に大きなアワビが張り付いて開くことが出来ず、アワビを刀で突き刺し、門を出ることができた。今度は川底のワカメが2人を絡め包み身動きがとれなくなったのを助さんが刀で切り払い、何とか岸にたどり着いた。
特に、金色姫。![]()
詳しいサイトの内容をお借りしました。
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筑波の六所神社に行く時に手前の神郡にある「蚕影山(こかげやま)神社」という神社がある。この神社もかなり古くからある神社で名前の通り養蚕業のシンボル的な神社で、各地にある蚕影神社の中心になっているところです。ここに金色姫伝説が伝わっています。
この伝説の元は、兵庫県養父郡の上垣守国という人物が、奥州(福島県)で買い求めた蚕種を研究し、養蚕を但馬、丹波、丹後地方にひろめ、享和2年(1802)に「養蚕秘録」(全3巻)を著し、養蚕法はヨーロッパにも広がりました。この本の中に、金色姫の伝説(蚕の草子)が紹介されています。
「昔、雄略天皇の時代(478年頃)に、天竺(インド)に旧仲国という国がありました。帝は霖夷(リンエ)大王といい、金色姫という娘がおりました。しかし姫の母親はなくなってしまい、リンエ大王は後添えをもらいました。後添えの皇后はきれいな金色姫を憎み、大王の留守に、金色姫を獣の多い山(獅子吼山)へ捨てたが、姫は獅子に背おわれ宮中に帰ってきた。また鷲や鷹のいる山(鷹群山)へ捨てたが鷹狩りに来た兵によってまた宮中に帰ってきました。今度は海眼山という草木のない島へ流したりしたのですが、ことごとく失敗してしまいました。そしてとうとう4度目には金色姫を庭に生き埋めにしたのです。ある日、庭から光がさして城を照らしているのに、大王が気づき、庭を掘ると、やつれた金色姫がいました。大王は継母の仕業と知り、姫の行く末を嘆き、泣く泣く桑の木で造ったうつぼ舟に乗せ、海上はるかに、舟を流し、逃がしました。
舟は荒波にもまれ、風に吹かれ、流れ流れて、茨城県の豊浦(日立市北部)に漂着しました。そこで権太夫という漁師に助けられ、その漁師夫婦により、大切に看護と世話をされていましたが、姫は病を得て亡くなってしまったのです。夫婦は不憫な姫をしのんで、清らかな唐びつを創り、姫のなきがらを納めました。それからしばらくしたある夜、夢の中に姫が現れ、「私に食物をください。後で恩返しをします。」と告げたのです。
驚いた夫婦が唐びつを開けると、姫のなきがらは無く、たくさんの小さな虫になっていました。丸木舟が桑の木であったので、桑の葉を採って虫に与えると、虫は喜んで食べ、成長しました。ある時、この虫たちは桑を食べず、皆一せいに頭を上げ、ワナワナとしていました。
権太夫夫妻が心配していると、その夜、また夢に姫が現れ、「心配しないでください。天竺にいるとき、継母に4たび苦しめられたので、いま休んでいるのです。」と告げました。4度目の「庭の休み」のあと、マユを造りました。マユが出来ると、筑波のほんどう仙人が現れ、マユから糸を取ることを教えてくれました。
ここから、日本で養蚕が始まったといわれています。権太夫は、この養蚕業を営んで栄え、豊浦の船つき河岸に、新しく御殿を建て、姫の御魂を中心に、左右に富士、筑波の神をまつって、蚕影山大権現と称号しました。これが蚕影山神社のはじめと言われています。」
さて、金色姫の話は5世紀後半の時代の話とされていますが、インド(天竺)からいろいろな文化がこの地にもたらされたことを現わしているのでしょうか。
現在日本最古の文学と言われる竹取物語(かぐや姫)のお話ができたとされるのは9世紀~10世紀などと考えられていますが、こちらの話も中国やインドなどに関係しており、月に住むお姫様と言う設定はこの金色姫の話の上を行っています。でも日本国以外の国のお姫様ということでは共通するものがあります。
大友狭手彦(おおともの さてひこ)が宣化天皇2年(537年?)10月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救い、欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したとされており、このときには財宝だけでなく、現地より多くの人々がこの国に逃れてきています、その中に女性も多く含まれており、青い目の女性もいたかもしれないです。
さて、茨城県にはこの他に豊浦と名の付く2か所の神社がともにこの金色姫伝説の地であるとしています。これらは常陸国の三蚕神社と呼ばれています。
(1)蚕影山(こかげさん)神社:つくば市神郡1998(日本一社)
(2)蚕養(こがい)神社:日立市川尻町2377-1(日本最初)
(3)蚕霊(さんれい)神社:神栖市日川720(日本養蚕事始)
の三社です。
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獅子
が見つけて姫を連れ帰ったと!
そして、インドの国の名前が、「旧仲国」
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旧仲国(きゅうちゅうこく)と読むらしいのですが、、
旧(ふる)い仲(なか)の国とも読めるよね〜〜![]()
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そして、金色姫は、もしかして、金髪だったのでは?と思ったり。
(私も色素薄いくて、赤ちゃんの頃は金髪だったらしいから、
何か関係があったりして
?!)
ということで今日はここまで。ではまた〜
先日祖母を送った帰りの彩雲
