岡山県美作市の
ヒーリングサロンDesertRoseです。


2021年8月16日に、
岡山県岡山市にある、
最上稲荷、最上稲荷奥の院、龍泉寺に
ライトワーク兼ねてのご挨拶に伺った際、
国指定史跡高松城跡へのライトワークも含まれていました。

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最上稲荷の奥之院である「龍王山一乗寺」は、吉備の国を一望に見下ろす龍王山の山頂にあり、日本の三大稲荷の一つ最上稲荷の奥之院です。


八大龍王さま


龍王山一乗寺




日蓮大聖人

日蓮宗 最上稲荷奥之院 龍王山 一乗寺ホームページ


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岡山市北区足守にある

最上本山御滝龍泉寺


吉備路の北部、龍王山の西中腹に位置しています。岡山県立自然公園に指定され、自然豊かな環境が保存されています。

古来、磐座(いわくら)信仰の霊地であり、そのことを示す古代祭祀跡があります。八大龍王の御神体である龍王池の歴史は古く、その由来は「鬼城縁起(きのじょうえんぎ)」に登場しています。


最上経王大菩薩、鬼子母神、三面大黒をお祀りされています。



八大龍王は龍王池が御神体


八大龍王は、生命の源泉である"水を司る神様″です。お釈迦様がお生まれになった時、天より甘露(かんろ)を降らせ祝福したともいわれる高い神格をもつ龍神です。

八大龍王は、人々の願いにあわせて、奇瑞(きずい)を現し、八つの異なる姿に変化(へんげ)し、お救いになります。

農耕民にとって、雨は大切で、"雨乞いの神様″として、信仰されています。


龍泉寺では、龍王山に降りそそいだ天水を貯える龍王池を"八大龍王の御神体″としてお祭りしています。


龍泉寺にある太閤腰掛岩

天正10年5月、高松城跡水攻めの際、足守川をせきとめ注水する為、馬をかりて、この山城一帯を剣分せし時馬を止めて一休せし処と伝う。


最上本山 御滝 龍泉寺 ホームページより転載。



日本三大稲荷 最上稲荷 最上稲荷山妙教寺


最上稲荷は、1200年以上の歴史を有する日蓮宗の寺院です。

正式名称を「最上稲荷山妙教寺」といい、最上尊信仰発祥の地であることから最上稲荷総本山と称されています。


いつの世も人々の想いを支えてきた、合掌の心。

 最上稲荷の歴史は、今から1200余年前にさかのぼります。 天平勝宝4年(752)、報恩大師に孝謙天皇の病気平癒の勅命が下り、龍王山中腹の八畳岩で祈願を行いました。すると白狐に乗った最上位経王大菩薩が八畳岩に降臨。大師はその尊影を刻み祈願を続け、無事天皇は快癒されたといいます。その後延暦4年(785)、桓武天皇ご病気の際にも、大師の祈願により快癒。これを喜ばれた天皇の命により、現在の地に「龍王山神宮寺」が建立されました。

 以来、「龍王山神宮寺」として繁栄を極めたものの、備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇を焼失し、本尊の「最上位経王大菩薩」のお像のみが八畳岩の下に移され難を免れました。このお像をもとに慶長6年(1601)、新たに領主となった花房公が関東より日円聖人を招き、霊跡を復興。寺名も「稲荷山妙教寺」と改めて、今日の興隆の礎を築きました。

 伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷として、1200余年の歴史を紡いできた最上稲荷。本尊の「最上位経王大菩薩」は五穀豊穣、商売繁盛、開運など多くの福徳をそなえています。また脇神として、水の神さま「八大龍王尊」、開運を招く「三面大黒尊天」が最上尊とともに本殿に祀られ、最上三神と呼ばれています。その教えの基調となる合掌の心(お互いに拝み合い、いつくしみ合う心)は広く信仰を集め、「不思議なご利益をお授けくださる最上さま」として、今なお多くの人々に親しまれています。


日本三大稻荷 最上稲荷 ホームページより転載。








入り口




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最上稲荷にご挨拶に行く前に、

ライトワークの要請があった場所が、

備中高松城跡で、こちらから、

このときのライトワークが始まっていました。



清水宗治公の後に残された者たちへの想いと、ライトワークの要請もありましたので、そこもライトワーク。


「浮世をば 今こそ渡れ 武士〈もののふ〉の 名を高松の 苔に残して」は、高松城主清水宗治公が詠んだものです。


岡山市北区高松に所在する備中高松城跡(国史跡)は、足守川左岸に広がる平野部に立地します。現在、城跡の中心部は高松城址公園として整備され、周辺には住宅や田畑が広がるなど、閑静なたたずまいとなっていますが、ここはかつて備前・備中の国境に近く、天正10(1582)年に織田信長から中国計略の命を受けた羽柴秀吉と毛利氏が激しく攻防を繰り広げた最前線となったところでした。また、この城跡は、足守川下流域の両岸に築かれた宮路山城〈みやじやまじょう〉、冠山城〈かんむりやまじょう〉、加茂城〈かもじょう〉、日幡城〈ひばたじょう〉、松島城〈まつしまじょう〉、庭瀬城〈にわせじょう〉とともに毛利氏の防衛ラインとなった「境目七城」の一つとして、備前の宇喜多氏、ひいては上方の織田勢に対する重要な城でもありました。

 備中高松城跡は北西から南東にかけて細長く延びる微高地(安定した小高い場所)上に築かれています。その縄張りは、「伝高松古城之図」によると、微高地の北西側に土壇〈どだん〉をもつ本丸、中央部分に二の丸、南東側に三の丸があり、これらを取り囲むように微高地の北東側には堀または低湿地を挟んで家中屋敷があったと推定されています。現在、本丸と二の丸は高松城址公園、三の丸や家中屋敷の辺りは宅地や田畑などに利用されており、標高は本丸跡で7.7m、二の丸跡5~6m、三の丸跡5m前後となっています。


天正10年3月、高松城攻めに先立って、羽柴秀吉は蜂須賀正勝と黒田孝高を使者として送り、高松城主清水宗治に備中・備後二か国を与えることを条件として味方になるよう交渉しました。ところが、宗治はこの誘いを断り、毛利氏に忠義を尽くしました。



高松城水攻めは、天正10年6月2日、本能寺の変を契機に急展開を迎えます。織田信長の横死〈おうし〉を知った秀吉は、ただちに講和を結ぶべく、領地の譲歩や城兵の助命などを条件に毛利氏と交渉しました。6月4日に宗治が自刃することで和睦が成立し、開城となりました。そして、その2日後、秀吉は明智光秀を討伐するため、後に「中国大返し」と呼ばれる軍勢の大移動を行い、天下統一への道を切り開くこととなったのです。


岡山県古代古備文化財センターホームページ










愛と感謝を込めて



三保子