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pontaの街場放浪記

さすらいの街場詩人pontaのライフスタイル備忘録です。
2012年に広島のリージョナル情報誌『旬遊 HIROSHIMA』のWebページでコラムを連載しました。その過去ログもこちらへ転載しています。

休日の朝、ふと山陰に行きたくなった。

3時間ちょっとドライヴして、1泊して土産を買って翌日の夕方帰ってくる感じが、小旅行の雰囲気だ。


しばらくの間、山陰に行ったつもりでブログ内で空想してみようか。



まず、行きの昼飯は、道の駅の素朴なお総菜やおにぎりを食べて。


奥出雲の源泉掛け流しの秘湯に入って。

$サブカルぽんちゃんが行く!-千原温泉

奥出雲ワイナリーで買い物して。

鄙びた温泉旅館で一泊して。

早寝早起きして、朝風呂に入って(笑)

朝風呂の後は、勿論木次の瓶入りパスチャライズ牛乳を。

腰に手を当てて飲み干す!!!


旅行の〆は松江で。

松江城辺りをふらっと散歩した後、物産館で買い物。

井上醤油店の味噌などを物色。


散歩してお腹が空いた頃、松江随一の名旅館「皆美館」へ。

$サブカルぽんちゃんが行く!-皆美館

昼飯は「皆美館」名物の鯛めしを。

$サブカルぽんちゃんが行く!-鯛めし

鯛めし、といっても、鯛一尾とお米を土鍋で炊きこんだものにあらず。

鯛の身をほぐしてそぼろにしたものと、海苔、玉子、大根、山葵などの薬味をご飯の上に乗せて、出し汁をかけて食べるもの。

要するに「ねこまんま」ですな。

松江藩主・松平不昧公はお茶が好きで、茶菓子の食べ過ぎで歯が悪くなり、柔らかいものを好んでいた。

その不昧公が考案し好んで食べたのが、鯛めしだったそうだ。


高級旅館の食事処で供される昼飯とはいえ、価格はリーズナブルだし、味はさっぱりして旨いし、おすすめです。

僕は、松江に行く機会には、なるべく時間を作ってこちらの鯛めしを食べたい!と思うくらいに。



おっと、そろそろ出かける支度をする時間になった(^^;

今日は温泉な気分なんで、スーパー銭湯でも行こうかな・・・
北大路魯山人の陶芸作品を初めて鑑賞したのは、今から25年くらい前ではなかったか。

場所は、広大な日本庭園と横山大観の絵のコレクションで有名な、山陰の美術館で。

魯山人が得意とする志野・織部を中心にした、華やかな器を鑑賞することができた。

不思議なことに、この美術館は魯山人の展示室の上階に、同じく陶芸家の河井寛次郎の展示室を設けていた。

魯山人が嫌っていた河井寛次郎と魯山人を併置するというのは、僕には到底考え付かない発想だが、比較して鑑賞することはとても有益だった。

河井寛次郎の器を観てしまうと、観る前は華やかに感じられた魯山人の器が、いっきょに厚みのないものに感じられてしまったのだ。

河井寛次郎の作品は、特に晩年のものは何に使うのか分からない奇妙奇天烈なものも多いが、それでいて不思議な強い魅力を感じざるを得ない。

端的にいえば、河井寛次郎の器は芸術作品であるのに対し、魯山人の器からは芸術性をあまり感じない。

それは一体なぜだろう?


$サブカルぽんちゃんが行く!-魯山人の器

僕は備前焼が好きなので、魯山人の備前焼の作品を例にあげてみよう。備前土櫛目彫文灰被四方平鉢である。

魯山人は、旧来の備前焼とは趣が異なる技巧的な作品を多く産み出した。

叩きの技法を用いた斬新的な四方平鉢。

絶妙な縁取り、そして魯山人得意の四隅をひょいひょいと上げた立体感。

そして、魯山人の絵心があふれる見事な櫛目。

とてもたくみな器であり、お造りや焼き物をざんぐりと盛りたくなる。


一方、かつて魯山人に親炙したものの、後に決裂した金重陶陽の器を観ると、土味や焼色が魯山人のものと比べ、強い魅力を感じる。

魯山人は金重陶陽の作陶を観て、その月並みさと保守性に呆れ破門したという。

しかし、金重陶陽や藤原啓が提供した最高の陶土を用いた魯山人の作品から、彼らの器からみられる土味の良さや、窯変の見事さを感じる作品は少ない。

土をこねず、ろくろをひかず、せっかちだったためしばしば窯出しを焦ったという魯山人にとって、陶芸とはきれいでうまい器を産み出すことが眼目であり、土や焼き、釉薬に対するこだわりはあまり持っていなかったのだろう。

一方、河井寛次郎や金重陶陽は、芸術家である前にまず陶工だ。

陶工は、造形意識と同様に、ある意味それ以上に、土味や焼き、釉薬に対し強いこだわりを持つのが普通だ。

魯山人の器はそのきれいさ、うまさに比して、腹にずしっと来るものがないと以前から思っていたが、その理由は土味や焼き、釉薬へのこだわりのなさによるものではないか、と最近気づいた。


とはいえ、魯山人の器に料理を盛ると、とんでもなく見事な世界を作り上げることも、また事実だ。

10年以上前、東京・銀座の割烹で魯山人の器に盛った日本料理を頂いたが、料理と器とのマリアージュがとても素晴らしかった。

見事な器に料理を盛ると、しばしば料理より器が勝ってしまうことがあるが、魯山人の器は料理を持ってこそ完成形ではないか?と思うほど料理と見事に調和していた。

魯山人の器の厚みのなさ、芸術性の乏しさは、土や焼き、釉薬に対するこだわりのなさだけではなさそうだ。

それは器と料理とのマリアージュを考えた結果であり、料理を盛って100%の美しさを引き出すように意図したものだと思う。


結論。魯山人の器は美術館で鑑賞するためのものにあらず。

日常の食生活で用いてはじめて、その美しさを十全に感じることができるのだろう。

とはいえ、魯山人の器を買うことも難しいし、魯山人の器で料理を供する割烹はお値段がかなり張るから、おいそれと行けないしなあ。。。
昨年のクリスマス・イヴに、大好きな南佳孝さんが広島に来た。

某放送局のチャリティー・イベントに出演するためだ。

名曲「スローなブギにしてくれ」を聴きたいから行ったし、もちろん感動したんだけど、面白いなあと思った演奏はビリー・ジョエルのカバー曲"Just the way you are(素顔のままで)"

予算の関係かどうか知らないけど、今回の演奏は南さんのギター弾き語り。

南さんの指が弾でるギターの響きは、親指が一定のテンポをキープし、他の指はシンコベーションのリズムを刻んでいた。

なるほど。「素顔のままで」はボサノヴァのリズムを取り入れた曲なんだなあと言うことを、いまさらながら強く感じた一夜になった。

クリスマス・イヴに讃美歌を聴くのも良いが、ボッサのリズムに身を委ねるのも、快かった。


この曲でビリーは言ってる。「きみがいつまでも 昔のままでいてくれたら それでいいのさ」(山本安見訳)って。

中学生の頃、初めてこの曲を聴いた時は「良い歌詞だなあ」って思ったものだけど、今は違う。

人も、世の中も、考え方も変わる。

ダーウィンが言ったとか言わないとか「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」。

ボブ・ディランも言ってる。「時代は変わる」って。

3.11を契機に、日本人は様々なことに気づき、うろたえたり悲しんだり怒ったりしたと思う。

もちろん、それも必要なことなんだけど。

ビリーと一緒にしばらく懐旧の情にふけった後は、僕はダーウィンやボブ・ディランと一緒に自分と外界をブレイクスルーしていきたいと思う。


$サブカルぽんちゃんが行く!-ビリージョエル


本家ビリー・ジョエル「素顔のままで」(アルバム『ストレンジャー』収録)も、南佳孝のカバーほどボサノヴァっぽくないものの、ボッサの軽快なリズムが心地よいミディアム・スローのナンバーだ。

演奏はボッサのリズムを前面に押し出したものでなく、ニューヨークの都会的な雰囲気を味わうことができるシンプルで洗練されたアレンジだ。

フュージョンバンド「スタッフ」に在籍したリチャード・ティーのメロウなフェンダーローズ(エレクトリック・ピアノ)の音色。

そして、名サックス奏者であるフィル・ウッズの情熱的なアルトサックス。

アレンジャーのフィル・ラモーンの手によって、心地良いボッサ風リズムの名曲に、メロウかつ情熱的な息吹が吹き込まれ、世界的なヒット曲と化したのだろう。

アレンジャーの仕事とは、手を触れたものを全て黄金にするミダス王のようなものなんだなあと、この曲を聴くたびしみじみ感じざるをえない。