ちわ

 

ADHD界隈?なんて言葉を使っても恥ずかしくないくらいには浸透してきたこの障害。

 

これに始まったことではないけど発達障害についてとっつきやすく、そしてより理解できやすくなったいい時代が来たなぁと感じたこの頃。

 

意外と多いということで注目度が高いのか、SNSなんかで良く笑いのネタとしても取り上げられるようになりました。

 

落ち着きがないゆえに話題に事欠かないのが特徴である障害ですが、ちょっと今の流れを続けるには少し懸念があると感じてきました。

 

それは「理解し共有できたことにより”障害である”という認識が薄れてしまっているのでは」というものです。

 

もしかしたら自分もかもしれないというかなり身近な存在である障害であり、それを目にしたという経験も多く話題に上がりやすい。そこに誹謗中傷や風評被害を回避しようとネタとしておもしろおかしくしてしまっているため、「これは障害の中でも”軽度”なもので健常者と変わらない」という短絡的なコンテンツとして見られます。

 

挙げ句当事者である彼らもその一端を担いでいるように見えてなりません。

 

沢山の人に理解され、忌避や嫌悪、過剰な同情などがなくなることは彼らが健常者同様に生きやすい世の中にするためには「親しみやすさ」は一番有力なきっかけではありますが、理解されすぎると軽く見られるのは必然です。

 

ADHDが理解されるまでは怠け者や注意が欠けたダメ人間というレッテルが貼られやすいものだったと聞きました。確かに知らずに内容を聞くとそう思うかもしれません。

 

そういう私もADHDではないかと言われている一人でして、以前上司に相談したことがあるのですが衝撃的なことを言われました。

 

「ADHDなら知ってる!確かに思うフシはあるね。でも対応できるものだし大丈夫、君は普通だ。だから他の人ができて君ができないものはそれとして評価するから大丈夫。診断書もらえたら報告よろしくね。」

 

障害者と健常者は区別しないという姿勢は確かに褒めるべきところだと思う。だがフィジカルで対応できないから障害であって健常者と一緒の括りにするにはあまりにも軽率ではないか。

 

「あの失敗はそれならではだね。次から気をつけて」とほったらかされるのではないか。確かに障害の疑いや証明されたとしてもあからさまな特別扱いは嫌、だけど健常者の範囲に括られるのはそれはそれで違うはず。

 

異形や異能の作品の中でよく議論される「普通」という枠組み。まさか現実問題ここに現れているとは思いもしませんでした。障害をネタとしてコンテンツ化している彼らはこの課題解決しているのだろうか。

課題として見受けられない時点で気づいていないのかもしれない。そもそもこれを課題としている人はコンテンツの枠組みを避けるため共有行動していない可能性がある。

 

多様性という大枠より、男女という中枠より、より細分化された障害という小枠の課題から早めに認識課題を改めなくては新たな差別を生みかねない。すでに生まれ育んでいる可能性だってある。

 

改めて、ADHDは”障害”である。理解ではなく度合いに合わせた対応であり心持ちではないことを重々承知したうえで彼らを見てほしい。

 

そこには悩んだ末笑い話という形に逃れた者、受け入れそれをサポートしてくれる者、静かに目立たず自分の中で普通として生きていく者らが見えて来るはずです。

 

新たな差別が形になる前に解決することを願っています。

ちわ

 

最近首相に高市さんになってネット内で色々ざわざわとしている最中でありますなぁ。

 

石破さんまではその首相に対しての批判や誹謗中傷が就任後すぐさま取り沙汰される感じだったのが、

高市さんになると首相ではなくその周辺に矛先が向いている気がしますね。

 

要するに現段階では高市さんに刃が立たず、突っつくところがそこら辺しかないということでしょうか。

 

私は政治のことについてはことさらさっぱりで、つい最近初めて選挙に参加するくらい無知でございます。

 

ですが彼らの考え・・・?浅知恵?みたいなのはひしひしと感じていました。

 

今回は特に気持ち悪いと思ったのが、連立政権から公明党が離脱したということ。

 

私の連立政権の認識としては、議会で多数決などを行う際に有利になる議席数を同じ志の勢力と手を組むというもの。

 

そんな公明党、高市さんが就任後すぐに連立政権から離脱しました。何を考えているのでしょう。

 

何も後ろめたいことがなければ特に離れる必要もないつながりを切ったということはそういうことでしょう。

 

これから思い通りにいかなければ離れるモノ。その思い通りとは何なのか。日本を良くしたいのにそれができなくなるということだろうか。

 

ここ最近では政治家の利益利権報酬の話で持ちきりです。今回もどうせそういう旨味がないもしくはなくなる危機として離れたのでしょう。

 

しかも旧統一教会の問題を抱える立場としては余計にその旨味は大事な物。

 

そこで切り出したは「トカゲの尻尾切り」

 

はじめは自民がトカゲかとも思われた。悪いものを出そうといういい意味として。

 

だが違うらしい。 尻尾を切るトカゲとなった公明は新しい尻尾、立憲と手を組むという話が聞こえてきたではないか。

 

実のところ良くはわからない。だが新しい尻尾を見つけようとしているのは確か。もし他と連携することがあれば自民が正常化したとしても議席数で劣るため政治がうまくいかない可能性がある。

 

なんとしても保身に徹したい政治家たち。一体何のために国の上に立っているのか。単純に利益だけなのか。

 

政治家にまでなれるんだ、国を思いそれを突き詰めれば自ずとあとからいくらでも益は得られるのに、まさに目先の欲にしがみつくトカゲのごとく。

 

果たして、一瞬ではありそうだがまともなバランスに日本がなっても、不信任決議ですぐさまバランスを崩すとその振り幅で立て直せなくなりそうな危機感があるのは私だけだろうか。

 

早くスパイ防止法で国旗破壊やスパイの保護をのたまう彼らをどうにかしてほしいものだ。

ちわ

 

久しぶりの投稿になりましたが覚えてますか?

 

私です、世間知らずですw

 

 

突然ですが、「価格高騰」すごいですねぇ。

 

価格が上がる際の理由は大体「輸送料の高騰により」や「人件費高騰により」、「原材料費の高騰」など。

 

高騰に高騰を呼ぶ事態が状態化しています。

 

 

ーーーー 余談 ーーーー

 

一体いつこの事態は解消されるのか・・・

 

私は、解消されないと考えております。

 

例で上げた3つをわかりやすく主な理由としますが、首相が代わり多少日本の情勢が良くなったとしても解消はなし、もしくは微々たるものでしょう。

ここで壁になるのが”企業の利益”。

一度積み上げた売上を下げるリスクは負うはずもなく。余裕はあるが使い続ける言い分は「人件費高騰」。

従業員の給与を上げたいという大義名分は価格を維持、もしくは上げるための魔法の言葉。

実際上がってなかったら問題になる、そう上げてしまえばいいのです。少しでもw

ここで補足ですが一部企業以外の話であって全企業じゃない。特に顕著に現れるのが中小企業と個人。

 

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余談はさておき、価値が頭打ちになっているが目に見えてきたと思いませんか?

 

例えば、余談でもありますが「人件費」、物価高騰に対抗するために必要なのが給与。

給与を上げるには人件費と堂々巡り。そこで最近では「若者は忍耐力がない」と言わしめる習慣が転職であります。非正規雇用がはびこる現在、妥当な評価でキャリアアップを目指せる手段として居ます。

 

隣の芝は実際青い。

 

私はサービス業、農林水産、建築を営む方々は非常に尊敬し、なくてはならない存在と常々感じております。

その方々、殆どがバイトか契約社員、決して高いとは言えない給与で働いています。

他人のストレスをぶつけられやすい彼らの給与は是非平均値であってほしい。

 

ですが残念なことに消費者である私達の給与がこれらサービスを贅沢であると思ってしまうほどしかないため、消費することがなくなかなか反映で機内現実があります。

 

 

 

 

 

次に技術の価値。

 

常に新しい技術が生まれ、それにより安心安全な生活が遅れるのは非常にありがたいことであります。

ですが、技術が一段、また一段と上がるごとに前の段より明らかにその技術は価値が高いわけでありますがここが問題

 

そう、技術は価値は上がり続けてしまう!

その技術に対して支払われる対価は商品として私達消費者が払うわけであります。

 

例えば薬。

今まで風邪を緩和させられる程度の薬が風邪を治す薬にアップグレードしたらその値段は上がります。ジェネリック医薬品は安くなり、新薬は高くなる。

ですが高い薬には手が出せませんよね?当然新薬は前新薬だったものと値段に下げられてしまうわけです。すでに知っているかもしれませんが、新薬を作ったすごい技術者ではありますが売上に貢献したという成果はないため、”誉”のみがつくだけという悲惨な現状があります。すでに医療技術の価値は頭打ちになっていると等しいでしょう。

例えば野菜。

こちらも新技術や新品種でよりより野菜が世の中に出回るわけでありますが、虫に食われるがやすい野菜100円と虫に食われず色艶がいい野菜300円。どっちを買うかと言われると明白です。どんなに技術が発展しようと消費されなければ意味がない。

 

 

私が思う全てにおける価値とは、すでに枠ごとにパーセントで決められており、その価格は物価に比例してしか上下しないものではないかということです。

もちろん付加価値をつける事もできますがそれはサブでありハッピーセットです。

 

あまりにも歪で継続して行くにはもの好きしか居ないだろうと思われるこの仕組み。

なぜ平気で運用しているのかと少し調べたところ、日本は資本主義によりこの枠(格差)が発生しているとのこと。

なるほどここで中学の社会の授業が役に立つか。

 

確かに格差は歪に広がっていそうとも思いましたが、前述通り頭打ちになっていると思うとそこまで格差はあるのか?とも思えてきました。まるで社会主義っぽい?

やばいやばい、思ったことこれ以上並べると陰謀論ぽくなるのでやめておきましょう。

 

 

疲れてきたので話をまとめちゃいます。

現在身を削って働くお仕事の殆どは報われていません。見出す物があればいいのですが、そこに従事していない人から見ると頑張る価値がなくなって見えてしまっています。少し前まで、給与や報酬が安かろうが日々得られる経験ややりがいという誰がみてもわかる価値がありました。

ですが現在は”お金”のみが価値となってしまっています。寝る間も惜しんで作ってくれた焼き立てのパン屋さん、笑顔を絶やさず多種多様なサービスを請け負うコンビニ、どこでも変わらない味を提供してくれるファミレス。どれも素晴らしくかけがえのないものばかり。ですが徐々にですが確実に質は落ちています。モチベーションだけでは飯は食えない。突き詰めて”お金”が価値になり始めているのです。

 

さてさて、こんな世間知らずでも疑問に思う程です、きっと氷山の一角の一欠片程度。

まだまだ私が感じきれていない問題がまさに山のようにあるに違いありません。