ちわちわ~

 

先日のことです。友人と歩いていると突然おばさんに話しかけられました。

 

「ここでよく見かけるネコーズいるでしょ?餌ももらえず可哀想よね!?これだから世界の戦争はなくならないのよ!!」

 

え?? は、はぁ…?

 

めちゃくちゃ怖い。なんだろう、あの界隈の人たちはほぼっていいほど目バキバキキョロキョロのおばさんがやっているが、何がそうさせるのだろう。

 

ちょっと怖い話でしたが、本題に入ります。

 

皆さんは野良猫を可哀想に見えているのでしょうか?

 

ちなみに私は思いません。

 

境遇次第というところでしょうか。

 

・元飼猫

・虐待の末捨てられた

・狩りの仕方もわからない

・猫社会を知らない

 

これ全て揃えば確かに可愛そうです。

 

ですが野良として生まれて病気になろうが飢餓であろうが、それはただの野生動物です。

 

野生生物はほぼ次の食にありつけるかわからない生を過ごしています。

 

ですがそれは当たり前。それなのになぜ猫だけは違うのだろうか。

 

・なぜ飢餓に苦しむ人間をまず助けようとしないのか。

・なぜ猫なのか、鳥、犬、ねずみ、虫、etcは可哀想ではないのか。

・なぜ餌を与える前提なのか。

※鳥、犬は少数ですがいますね、しかも男性がよく固執している。

 

まぁ大体は予想はつきます。

 

・都合が合わない人間は嫌い。

・かわいいから。 他単純に嫌いか興味がない。

・人が施して初めて幸せと感じると思っている。

 

これも周知の事実ですが、この界隈の人らはまともじゃない。

 

おそらくこれらを突き詰めても支離滅裂なことを並べてヒステリックになるのが落ちなのです。

 

なんだろう、これも含めてどう見ても社会不適合者的人増えました気がします。

コロナ禍以降、他人とのコミュニケーションが希薄になったせいで認識が偏りやすくなり、これまで正常だと思われてた人も隠れ持ってた症状が見える化してきた感じでしょうか。

今後発展していく社会でありますが絶対に立ちはだかる壁の一つであるこの問題。

「排除すべき」「生むべきでない」とまでは流石に暴論で稚拙な答えだとまだ私は思います。ですが選択肢として必ず出てくるものです。

 

もし、野良猫おばさんは排除すべき対象となった場合、その時その人はどのような行動を取るのでしょうか。案外我が身可愛さで手放したりしたら滑稽で面白そうですね。

 

今回はちょっと悪口が過ぎたでしょうか。まぁこのような考えもあるということを承知していただけると幸いです。

ちわ

 

ADHD界隈?なんて言葉を使っても恥ずかしくないくらいには浸透してきたこの障害。

 

これに始まったことではないけど発達障害についてとっつきやすく、そしてより理解できやすくなったいい時代が来たなぁと感じたこの頃。

 

意外と多いということで注目度が高いのか、SNSなんかで良く笑いのネタとしても取り上げられるようになりました。

 

落ち着きがないゆえに話題に事欠かないのが特徴である障害ですが、ちょっと今の流れを続けるには少し懸念があると感じてきました。

 

それは「理解し共有できたことにより”障害である”という認識が薄れてしまっているのでは」というものです。

 

もしかしたら自分もかもしれないというかなり身近な存在である障害であり、それを目にしたという経験も多く話題に上がりやすい。そこに誹謗中傷や風評被害を回避しようとネタとしておもしろおかしくしてしまっているため、「これは障害の中でも”軽度”なもので健常者と変わらない」という短絡的なコンテンツとして見られます。

 

挙げ句当事者である彼らもその一端を担いでいるように見えてなりません。

 

沢山の人に理解され、忌避や嫌悪、過剰な同情などがなくなることは彼らが健常者同様に生きやすい世の中にするためには「親しみやすさ」は一番有力なきっかけではありますが、理解されすぎると軽く見られるのは必然です。

 

ADHDが理解されるまでは怠け者や注意が欠けたダメ人間というレッテルが貼られやすいものだったと聞きました。確かに知らずに内容を聞くとそう思うかもしれません。

 

そういう私もADHDではないかと言われている一人でして、以前上司に相談したことがあるのですが衝撃的なことを言われました。

 

「ADHDなら知ってる!確かに思うフシはあるね。でも対応できるものだし大丈夫、君は普通だ。だから他の人ができて君ができないものはそれとして評価するから大丈夫。診断書もらえたら報告よろしくね。」

 

障害者と健常者は区別しないという姿勢は確かに褒めるべきところだと思う。だがフィジカルで対応できないから障害であって健常者と一緒の括りにするにはあまりにも軽率ではないか。

 

「あの失敗はそれならではだね。次から気をつけて」とほったらかされるのではないか。確かに障害の疑いや証明されたとしてもあからさまな特別扱いは嫌、だけど健常者の範囲に括られるのはそれはそれで違うはず。

 

異形や異能の作品の中でよく議論される「普通」という枠組み。まさか現実問題ここに現れているとは思いもしませんでした。障害をネタとしてコンテンツ化している彼らはこの課題解決しているのだろうか。

課題として見受けられない時点で気づいていないのかもしれない。そもそもこれを課題としている人はコンテンツの枠組みを避けるため共有行動していない可能性がある。

 

多様性という大枠より、男女という中枠より、より細分化された障害という小枠の課題から早めに認識課題を改めなくては新たな差別を生みかねない。すでに生まれ育んでいる可能性だってある。

 

改めて、ADHDは”障害”である。理解ではなく度合いに合わせた対応であり心持ちではないことを重々承知したうえで彼らを見てほしい。

 

そこには悩んだ末笑い話という形に逃れた者、受け入れそれをサポートしてくれる者、静かに目立たず自分の中で普通として生きていく者らが見えて来るはずです。

 

新たな差別が形になる前に解決することを願っています。

ちわ

 

最近首相に高市さんになってネット内で色々ざわざわとしている最中でありますなぁ。

 

石破さんまではその首相に対しての批判や誹謗中傷が就任後すぐさま取り沙汰される感じだったのが、

高市さんになると首相ではなくその周辺に矛先が向いている気がしますね。

 

要するに現段階では高市さんに刃が立たず、突っつくところがそこら辺しかないということでしょうか。

 

私は政治のことについてはことさらさっぱりで、つい最近初めて選挙に参加するくらい無知でございます。

 

ですが彼らの考え・・・?浅知恵?みたいなのはひしひしと感じていました。

 

今回は特に気持ち悪いと思ったのが、連立政権から公明党が離脱したということ。

 

私の連立政権の認識としては、議会で多数決などを行う際に有利になる議席数を同じ志の勢力と手を組むというもの。

 

そんな公明党、高市さんが就任後すぐに連立政権から離脱しました。何を考えているのでしょう。

 

何も後ろめたいことがなければ特に離れる必要もないつながりを切ったということはそういうことでしょう。

 

これから思い通りにいかなければ離れるモノ。その思い通りとは何なのか。日本を良くしたいのにそれができなくなるということだろうか。

 

ここ最近では政治家の利益利権報酬の話で持ちきりです。今回もどうせそういう旨味がないもしくはなくなる危機として離れたのでしょう。

 

しかも旧統一教会の問題を抱える立場としては余計にその旨味は大事な物。

 

そこで切り出したは「トカゲの尻尾切り」

 

はじめは自民がトカゲかとも思われた。悪いものを出そうといういい意味として。

 

だが違うらしい。 尻尾を切るトカゲとなった公明は新しい尻尾、立憲と手を組むという話が聞こえてきたではないか。

 

実のところ良くはわからない。だが新しい尻尾を見つけようとしているのは確か。もし他と連携することがあれば自民が正常化したとしても議席数で劣るため政治がうまくいかない可能性がある。

 

なんとしても保身に徹したい政治家たち。一体何のために国の上に立っているのか。単純に利益だけなのか。

 

政治家にまでなれるんだ、国を思いそれを突き詰めれば自ずとあとからいくらでも益は得られるのに、まさに目先の欲にしがみつくトカゲのごとく。

 

果たして、一瞬ではありそうだがまともなバランスに日本がなっても、不信任決議ですぐさまバランスを崩すとその振り幅で立て直せなくなりそうな危機感があるのは私だけだろうか。

 

早くスパイ防止法で国旗破壊やスパイの保護をのたまう彼らをどうにかしてほしいものだ。