ほねほねワルツ5 | Commentarii de AKB Ameba版

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 ええええー、「ほねほね」まだ続くの? 「4」で終わりじゃなかったの?
 うん。僕もそのつもりだったんだけど、もひとつ書いておきたくなっちゃったの。
 きっかけは「よしお」さんのコメント

 「くたくたになるまで身体を動かして、この曲を聞いたところ涙が自然とあふれてきました!」。

 うーむ、「ほねほね」で泣けちゃうこともあるんだ。あまり涙を誘う歌って感じじゃないけど。
 もっとも僕も「チャン順」聞いてていきなり涙腺崩壊したことあったからなあ、あれだって基本泣く歌じゃないもんな、などと思いつつもう一度「ほねほね」を聞き直して、いろいろ考えた。

 そうすると、この歌の歌詞って自分の身体を見つめ直す内容なんだって遅ればせながら気がついた。身体を相対化するというか客体化するというか。

 自分の身体って、誰でも自分のものだと思ってるじゃない?
 普段自分たちは、自分の身体を当然のごとく「自分」の支配下にあるものだと思っている。いや、思ってさえいない。あらためて思うまでもなく当然のことなのだ。
 でもホントにそうなのかしら。たとえば自分の骨って思い浮かべることができる?

  まさか自分の 骨なんて/想像もつかないよ

 うん。自分の骨なんて確かに想像もつかない。自分の身体を構成している要素のひとつである骨について、たいした知識もなく、どんな形をしているかもどんな働きをしているかも、何て名前なのかも知らない。
 
 さらにまずもってその「自分」って誰? ってことなんだが、これあれですよ、よくある「自分探し」とは違いますから安心して下さいね。
 
 「自分」とは、まあデカルト的に「考える主体」であるところの「自分の精神」のことだ、ってのがデフォルトだわね。「我思うゆえに我あり」ってやつ。

 そんなムツカシイこと考えなくても、嬉しかったり悲しかったり、怒ったり恋をしたり、そういうのの主体ってのは全部「精神」だし、何よりもこういうことを考えたり理屈をこねたりするのも、「精神」。
 その精神イコール「自分」だってのがまあ一般的な認識(でもその精神すら「自分」に忠実な訳ではない、というのはまた別の話。ですよね、秋元センセイ)。

 で、その精神=自分自身は、肉体の支配者であって、肉体は全て「自分のもの」。

 僕たちは普段そんな風な無意識の認識の内に生きている。

 で、身体は自分のもので、自分が自由に支配しているつもりなんだけど、それは全然事実じゃない。
 支配どころか、自分がこう動けと命じても、全然そう動いてはくれない。

 それは日常身体をよく動かしている人は知ってる。たとえばスポーツやダンス。
 他の人の動きを見て頭でイメージをして、精神が身体に「ああいう風に動いてよ」と命令しても、身体は「へいわかりましたっ」って動いてはくれないよね。
 「何言ってるンすか精神の旦那、ああいう風に動くためにはちーっとトレーニングして貰わなきゃ」って言われるのがオチ。
 
 運動に縁がない人でも、身体が精神の言うことを聞いてくれないことは幾らでもある。

 思った通りにキレイな字が書けない、
 
 笑いたいのに笑顔にならない、笑っちゃヤバイのに吹き出しちゃう。
 我慢出来ずに泣いちゃう。

 もっと起きていたいのに寝ちゃう。早く寝たいのに全然眠くならない。

 身体は自分の言うことなんか全然聞いちゃくれない。
 むしろ自分が身体の言うなりということだってある。
 
 悲しいから泣くんじゃなくて泣くから悲しくなるとか、好きでもなかった女の子に身体が引きつけられちゃって、結果好きになっちゃうとかね(つーか、恋愛の本来の目的は生殖だかんね。動物的にはこっちが正しい筋道だよな)。

 ということを頭に入れて「ほねほね」を聞きなおしてみる。

 小野のちょっと鼻にかかった可愛らしい歌声とメロディ、リズム。
 それに比して内容はわりと学術的。骨の機能の1番として「カルシウムの貯蔵」を挙げるなんざ、シロウトとは思えない。
 さらには解剖学的に正しい骨の名前の羅列。硬質で聞きなれない名前の連続は、自分の中にある未知の他者=身体の、普段は気がつきもしない知らない姿を浮き上がらせる。

 自分の知らないところに自分の知らない固有の名前がつけられた「ほねほね」たちがいて、自分のために一生懸命働いている。

  あの骨も この骨も/君の骨は一生懸命

 自分の中にある自分であって自分でないような、でも黙って自分を支え守ってくれているものたち。

 疲れてくたくたになってしまった時、まさに身体が自分の言うこと聞かなくなった瞬間、「ほねほね」のメッセージが飛び込んできた。当たり前のように存在している自分の身体が、全く奇跡のような「神様の贈り物」なんだ、と頓悟した、と。

 よしおさんが疲れた時に「ほねほね」を聞いて涙したのは、こういうわけだったんじゃないかなあ。

 涙が出て来ても不思議はないように思いました。

 まとめて表現するならば「身体の他者性の自覚とその自己親和的統合」とでも。
 もちろん秋元康がそこまで考えて詞を書いているわけではないと思う。考えずに書けるからこそ、達人。

 CinDyのことだって、なっちゃんからメールが来てはじめて「平嶋」って名前を出したんだよな、やすす。今度チェリオおごるよ、やすす。