泣きながら微笑んで5 | Commentarii de AKB Ameba版

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Tags:お別れ、冬

  よっしゃぁ~行くぞぉ~!in 西武ドーム DVD大杉。 
 まだ「見逃し」だって全部見きってないのに。

 まあ正月のお楽しみにしましょう。
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 さて。昔々のおはなし。

 5年前。「大島優子」が「泣きながら微笑んで」を歌っている時に「寝てる客がいた」。
 うわー、もったいねえええ。今から考えればあり得ないよねえ。
 でも当時は「そんなもん」だったのだろう。AKBも「そんなもん」だし大島優子も「そんなもん」。

 もちろん熱狂的なヲタはいたけどさ、世界のほとんど全てがAKBなど知らなかった。

 大島優子は毎日悩んでいた。
 秋元センセイからもらったせっかくの「プレゼント」、どうしたらいいのかしら。 

 大島優子を絶賛していたペトリ堂御堂主でさえ、当初はこの歌について、

 この曲は(御堂主の御贔屓である井上チューンでありながら)珍しく私の琴線に触れない。

と否定的だった。

 おなじみのメトロポリス@尊師も軽やかにひとこと

ちょっと荷が重いかな?

 そんな中、思い余って相談に来た大島優子に秋元康が言ったのが、
 巷間伝え聞く「Youは女優なんだから演じたらいいじゃない」という(趣旨の)アドヴァイスだったとな。

 まあこれも雑駁な助言なんだけどね。
 でもこれを聞いて大島優子は吹っ切れて自分なりの「泣きながら微笑んで」を仕上げていったという、深くて( ;∀;)イイハナシダナー。
 
 でもねえ優子ちゃん。秋元センセイに聞くまでもなく、ヲタはやっぱりよーく見てたんだよ。
 メモリストのさむ氏。K3の開幕日の「メモ」。「コリスのソロについて」

 歌が上手くなるに越したことはないが、極めるほど上手くなる必要はないと思う。

(中略:ってことはやっぱ初見の歌はやっぱうまくはなかったんですね)
 
 歌うというよりも、セリフだと思って挑んだほうがいいんじゃないかと思う。 女優になったつもりで、役柄になりきったつもりで演じてみれば、いいのではないだろうか。

 これ開幕初日だよ初日。「ヲタのゴタクと茄子の花は」ってホントだよね。

 もっとも内容として同じアドヴァイスだったとしても、それを受けるタイミングってのが重要で、悩み苦しむ時間というのも必要だったのだろう。頓悟系のエピソードってたいていそうだよね。苦悩の日々というのは準備期間なわけだ。それがしっかりしていれば、師が落とした靴を拾っただけで奥義を会得することもできる。

 そんなこんなわけで、その後大島優子は「泣きながら微笑んで」を自分のものにしていく。

 ふたたびペトリ堂御堂主。

 イントロに乗って上手から大島が出てくるだけで空気が変わる。雪の上を歩くイメージなのだろうか、一歩々々を確かめるように歩きながら歌う大島の表情から、降り積もる粉雪を感じる。初日はどうなるかと思ったが、一と月で出来の良い一幕物に仕上げて来た。これは凄い。

 
 AKBに入る前から大島優子を見続けていたJoanUBARA氏。

 サードが始まった頃は時に眉間に皺を寄せ、ファルセットでは身をよじらせて歌っていた。この曲をものにしてやろう、とギラギラしたところがあった。今はもう身構えることなく、無心に曲と寄り添っている。サードでこの曲を与えられた幸運をしっかりと糧にして、表現力を掘り下げることができている。

 
 そしてK3最後の日。

 大島優子には評価が厳しかったカギ氏も、この日のパフォーマンスについて

 この日最もすばらしかったのは、何と言っても大島優子さんだったと思う。

 と賞賛を惜しまなかった。
 
 僕が見ることの出来る唯一のK3公演が、この千秋楽だったのはとても幸せなことだ。
 このステージで大島優子は、曲の最後の最後で涙を一筋流す。
 そして微笑む。
 これが秋元康の「プレゼント」に対する、女優・大島優子が返した最後の答えだった。

 曲の最後、「♪近くにいたい」のところだけ、涙で声が出なかったが、この部分についての私の解釈は「女優だなあ」というものだった。嘘泣きをしたという意味ではなく、(中略)最少限で、しかし最も効果的なところで泣く、というのが、おそらくはほとんど無意識に分かっていて、そうしているのだろうなあ、と感じた。

 この、「ほとんど無意識に分かって」いるその心の動きこそ、「聞き分けのいい」理性が囁くところなのだろう。
 いや、これまで「理性」と表現して来たが、それでは文字通り「理」に勝ちすぎている。かと言って直感とか第6感と言うと感覚的過ぎる。これまで僕が何度か使った表現で言うならば「ゴーストの囁き」。
 「女優」を真の「女優」たらしめる欠くべからざる「女優」のイデア。
 「泣き」ながら「微笑む」という相反する二つの感情を統べる「何ものか」。

 それを「歌う」のではなく、「演じ」きった大島優子。

 こう書くとなんだか秋元康の二重三重の手練手管に乗っかってしまったようで悔しいのだが、やっぱりこの歌詞を歌うのは彼女でなければならなかったのだなあ、とつくづく思う。