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Tags:B1、Anthem、Be ambitious
「転がる石になれ」から、ボブ・ディランの「Like a rolling stone」を思い出すのは少数派だろうか?
少なくともAKBに関心を寄せる層に限定したら、圧倒的少数派なんだろうなあ。
この歌が世に出たのは、1965年。ベビーブーマーの第1期生が成人を迎える頃だ。
この時、秋元康は生まれてはいたけれど、いくら彼が早熟の天才だったって、ディランのこの歌を熱狂的に歓迎した聴衆の一人だった、ということはないだろう。秋元より年下の僕も同様。
この曲とは、発表から10年以上経った後、「ボブ・ディランというすごいフォークシンガーのすごい曲なんだ」という知識または教養とともに、出会うことになる。
正直、ディランは苦手だった。
というか、正確に言うとディランが好きなヤツが苦手だった。うん。すごいシンガーだってのはわかるし、メッセージもすごいんだろう。
でも、何をしても、何を言っても見透かされているようなそんな気がして、居心地の悪さがつきまとった。どんな気分だい?/どんな気分だい?
ひとりっきりでいるってのは?/うちに帰る方角もわからないってのは?
誰にも知られていないってのは?/転がる石みたいに
「Like a rolling stone」を素直に聞けるようになって、お、すげえじゃんと感じられるようになるにはもっと長い年限が必要だった(桑田さんとみうらじゅん尊師のお陰だ)。
秋元康はディランについてどう感じていたのだろう?
「転がる石になれ」の中には、ディランの名曲のひとつ「Blowing in the wind(風に吹かれて)」を連想させる部分がある。
ふつうだったらタイトルが「転がる石」で途中の歌詞で「風に吹かれて」と来たら、こりゃもうディラントリビュートで決まりじゃん、って話なんだが、この曲でのディラン関係はそこまで。太陽に焼かれ/雨に晒された
いつかの夢が風に吹かれている
あえてディラン臭さを読み取るとすれば
とか、まわりの声に合わせるな/意地を張って生きるんだ
くらいだが、どちらもまあ一般論的ガンコ親父像だもんね。というか、ちょっと「やっつけ感」が無いと言っちゃ嘘になる印象。尖った石になれ/譲れぬ何かを持ち続けろよ
秋元先生、ディランにそんな思い入れはないのね。ちょっとディランっぽさが欲しかっただけなのね。
と、この曲だけ聞いてるとそう思うわね。
ところで、ディランは苦手でも、「風に吹かれて」は好きだった。
歌詞もわかりやすかったし、何よりも最初はディランの曲としてではなく、ピーター、ポール&マリーの「フォークソング」として出会ったのが大きかったのかも知れない。後に「本家」ディランが歌うのを聞いて、変な歌い方だなあ、と思った。まあ「フレンド」と「ウインド」を、無理矢理韻を踏むように歌うことが出来るんだって妙な感心はしたが。
この歌は、繰り返し繰り返し聴衆に問い続ける。
さまざまなものが、ある(べき)姿に辿り着くまでに「いったいどれくらいの」さまざまなものが必要なのかと。それらは、辿る道のりだったり、越えるべき海だったり、砲撃回数だったりなわけだ。
いったいどれくらいの回数人は目を背けることができるんだろう? 見て見ないふりをするために。Yes, how many times can a man turn his head
Pretending he just doesn't see ?
もちろん、答えは風の中に吹かれてるんだけどさ、秋元康は後になって別のところでちょろっと答えようとしていたんだね。
ずいぶん長いパスだったな、おい。僕たちは目撃者/決して 目を逸らしはしない
今 起きた出来事を/誰かにちゃんと伝えよう
そういや「Blowing in the wind」を流行らせたPP&Mには、「If I had a hammer(天使のハンマー)」って曲もあった。
ってな歌。もしもハンマーがあったら/朝から晩まで国中でハンマーを振るおう
ハンマーで危険を知らせよう/ハンマーで警告を鳴らそう
ハンマーで国中の兄弟姉妹の愛を呼び起こそう
ひょっとして長これも長い長いパスだったの?
かもね。