災害は、忘れたころにやってくる、といいます。
私自身、今回は、その時の記憶をたどりたいと思います。
昨年記したことですが、加筆・修正を加えつつ、
災害への心構えを新たにします。
その瞬間は、机に座って仕事をしていた。
今振り返ると、揺れている時のことはあまり覚えていない。
長く強い揺れが続いたのだけ、覚えている。
すぐに、非常階段の扉を開けて避難する。
外にいる間、もう2回大きな揺れがあった。
その日の業務はすべて終了。帰る社員もいた。
自分は、まだ同僚が帰社していないことや、
大混雑に巻き込まれるかもしれないことを考慮し、
その日は寝泊りすることを決めた。
震源が東北で、津波で福島第一原発がやられた、とのニュース。
チェルノブイリを思い出し、一瞬背筋が凍った。
同僚と、「これは大変なことになるね。」と会話を交わしたが、
その時の想像をはるかに超える事態は、2年経った今も進行している。
それどころか、収拾すら見せていない。
同じ部署の同僚が外出から戻ってこられず、
ちょうど外出した方向で、建物の天井が崩れたとの一報。
同僚は歩いて無事に帰ってきたが、不安から解放された表情が、
都内でも大混乱になっていることの何よりの証左。
ユーストリームで地上波テレビのサイマル(同時放送)を始めていたので、
ずっとそれを見つめている。もう、仕事にならない。
日も落ちて、食料の確保が問題になったが、
ちょうどその日、夜に会議が予定されて、軽食を注文していた。
届かない、と思っていたら、全部届いた。
泊まり込む社員とともに、空腹を満たす。
机では、私も含めて、皆家族に電話をかける。しかしつながらない。
100回かけてようやくつながり、今日は泊ることを告げる。
家族も、その方がいい、と言ってくれた。
時々、外の様子を見るが、片側3車線の大きな道路に
日付が変わるころになっても、人であふれかえっている。
予想通りの状況。この中で帰宅するなど、かえって危険だと感じる。
コンビニからありとあらゆる食料が消えていた。
近くの酒屋に、冷凍焼きそばが1つだけあった。
それを買って、再び空腹を満たす。
椅子をつなげて寝ようとするが、まったくねつけない。
横になっている同僚もいるが、眠れているのだろうか。
刻々と進行する被害状況を、ずっとテレビで見ていた。
空が白み始めて、6:30ごろだろうか。
電車も動いている、というので、皆順次帰宅。
自分も地下鉄のホームに入るが、壁にひびが入り、
水漏れをしているのを見て、改めて、
震災が現実のものとして、感じた。
電車が来たのは良いが、自宅の駅の5つ手前で運転打ち切り。
徒歩での帰宅を覚悟したが、すぐ近くで、
自宅駅の隣駅の駅名を叫んで、タクシーを止める声がしたので、
相乗りをお願いする。助かった思いがした。
自宅近くで下してもらい、歩くと、歩道のタイルが、ところどころ歪んでいる。
自宅の手前も、明らかに地盤がへこんでいる。
ともかく、無事に帰宅できた。
家が津波で浸水した親戚も、先に避難していて無事だと聞いた。
その日から2日間、テレビから、次々と飛び込んでくる、
信じられない映像の数々。
今になって思い返すと、ひと眼だけで背筋が凍る。
しかし、当時は、ただただ見入っていた。
とりあえず無事とはいえ、情報が欲しかったのだろう。
開けて月曜日。電車は、最寄駅の1つ先からしか運行していない。
駅に行こうとして玄関を出ると、玄関に長い行列。
それが、駅の改札から続いていると理解するまで、しばらく時間がかかる。
タクシーにも乗れない。歩いて行くわけにもいかない。
ひたすら、電車に乗れるまで待った。
電車の行先も、動いている途中で変わる。
この先、どうなるんだろう。
会社につくと、半分しか出社していない。
仕事も、この先想像がつかない状況。そんな思いを抱えていた。
まだ2年、もう2年。
行方不明者も3000人いるとのこと。
大きな被害を受けていない私たちも、
あらゆる意味で、絶対に後世に語り継いでいかねばならない。
そういう思いで、今回は記しました。