↑前の記事では私の意見を含めた植松聖死刑囚の優生思想についてのまとめを記述してみました。

 

 今回の記事では、

・障害者は生産性がないのか。

・生産性のある人間しか社会には必要ないのか。

の二つについて考えていきたいと思います。

 

 

 まず前提として述べておきたいことがあります。私は決して植松聖死刑囚が多くの障害者の命を奪ったことを擁護しているわけではありません。また、優生思想を肯定する文言が以下にみられるかもしれませんが、私は優生思想に則って社会が運用されていくことは正しくはないと考えています。言葉にするのがとても難しい問題なので、私の稚拙な文章では伝えきれない部分があるかと思いますが、いち意見として、皆さんの考えるきっかけにしてくだされば幸いです。それでは本題に移ります。

 

 

障害者は生産性がないのか

 

 生産性とはなんでしょうか。生産性とは「そのものもしくは人に投資した価値と、(将来的に)そのものもしくは人によって生産される価値がどの程度見合っているか、上回っているか、利益率の高さや利益量の大きさ」が一般認識ではないでしょうか。ここでは経済学等で扱われる生産性ではなく、生産性の定義をこの一般論にしたいと思います。この生産性を人間に当てはめた場合、以下の大きく四つに分類されるのではないでしょうか。

  1. 「仕事をしている人」ー仕事をしてお給料をもらっている人等。
  2. 「仕事をせずとも家庭を支えている人」ー主婦、主夫等。
  3. 研究等により社会発展に貢献している人」ー実績を出さずともあらゆる分野での研究者等。
  4. 「(経済活動の有無にかかわらず)文化活動等によりある一定数以上の人々に正の感情を与えることができる人」ー歌手、芸術家、エンターテイナー等。
 生産性のある人はこの四つの分類に当てはまる人として以下の話を進めていきたいと思います。
 
 
生産性のない人間とは
 
 次にこの四つの分類に当てはまらない人を上げていきましょう。
  • 定年退職をし仕事をしていない高齢者
  • 病気で入院している患者
  • 働くことができない精神疾患を持つ人
  • 仕事をしていない引きこもりの人
  • 死刑囚
  • 重度障害者
 とりあえず今思いつく限り例をあげてみましたが、個人により差があるのでここでは上記の四つの分類に一旦該当しないものとして、それぞれの生産性についてみていきたいと思います。
 
 
定年退職をし仕事をしていない高齢者の生産性について
 
 まず高齢者についてです。寿命を全うすれば誰もが通る可能性のある道です。平均寿命が伸び医療技術が発達したことで、いまの若者が歳を取る頃にはさらに寿命が延びているかもしれません。高齢者は介護を擁したり認知症等により意思疎通がうまく取れない場合があることや、行政による支援を受ける場合が多いことから、個人的には重度障害者と似ている側面があると思います。また、高齢者が増えることで高齢者を優遇した社会保障が優先され将来のある若者への支援が後回しにされているのではないかという意見もあるでしょう。
 ここで高齢者の活躍している場面をあげてみましょう。高齢者が社会貢献をしている例として、ボランティアが挙げられるのではないでしょうか。地域の見守り隊や奉仕作業などは想像に難くないのではないでしょうか。しかしこの場合に当てはまるのは、ある程度体の自由がきく高齢者に限るでしょうが、ボランティアというのも多岐に渡るため健康が必須条件ともいえないでしょう。また、比較的蓄えがある高齢者は地域経済を回す一端を担っているのではないでしょうか。
 また、対外的に誰かの役に立っていなくても、家族の一員としての家庭での大事な役割を担っている場合も多いのではないでしょうか。例えば、両親が共働きの子供にとって常に家にいるおじいちゃんおばあちゃんは子供達にとってとても重要な存在ではないでしょうか。認知症等で仮に意思疎通が取れないとしても、そこにいるだけの存在でも子供にとっては安心感につながる場合もあるのではないでしょうか。しかしこれは逆の場合に転じるかもしれないことは否めません。お母さんとおばあさんの間で確執がある、いわゆる嫁姑問題が起こっており家庭が不穏な空気に陥ってしまう等です。しかし人間関係の問題は人間であればどんな人にも該当すると思うので高齢者の生産性への反論の一手にはならないのではないでしょう。
 一方で高齢者の貧困というものも問題になっていると聞きますし、社会保障によって支えられている高齢者も多いと思います。行政の支援に頼りきり、体も不自由で介護を要し、仕事やボランティア等もしておらず、家庭でもじゃけんに扱われて、衰えて行く一方の高齢者は生産性がないと言わざるを得ないのでしょうか。
 
病気で入院している患者さんの生産性について
 
 次に病気で入院している患者さんについて考えて見たいと思います。これは病気の重さによりけりだと思いますが、大まかに、完治の見込みがある患者さんと、完治の見込みのない入院を要する、もしくは余命いくばくもない患者さんの二つに分けて考えます。
 まず、前者の完治の見込みのある患者さんは、退院すれば社会復帰でき、働くことができるので生産性があると言えるでしょう。一方後者の患者さんは社会復帰の見込みはありませんが、役に立っている場合は多々あるのではないでしょうか。まず前述した高齢者と同様に、家族の一員としての役割。また長期的に見たら彼らの病例のビッグデータを検証して行くことで将来の医療発展に繋がります。しかし入院を要するため、他者の介助や医療費が必要となることは否めません。
 
 
働くことができない精神疾患を持つ人の生産性について
 
 次に働くことのできない精神疾患を持つ人について考えて見たいと思います。わたしも詳しくはないのでわかりませんが、上記の病気で入院している患者さんと異なる点としては大きく二つあげられると思います。一つは多くの場合完治は難しく生涯付き合って行くことになる場合が多いことです。なかなか精神的な病は薬で治すことは難しいので長年付き合っている人も多いのではないでしょうか。もう一つは社会からの偏見です。精神疾患が病気と認められているにも関わらず社会には精神疾患は甘えだという認識を持っている人も多くいるのではないでしょうか。書いていて思いましたが、状態としては上の病気で入院している患者さん(自宅療養でも)となんら変わりはないのに、社会の目は厳しいと思います。ストレス社会と言われる現代社会でいまは健康な人でも精神疾患を患う可能性は大いにあります。精神疾患患者を否定することは将来の自分を否定することになるかもしれないということを忘れてはいけません。  
 話が逸れたので生産性の話について戻します。これらの患者さんが自宅療養している際に引きこもってしまい何もできなくなってしまう場合においての生産性ですが、この状態が一生続くとは必ずしも言えません。精神疾患を抱えながらも社会復帰をした人は多くいると思うので、生産性を一概に否定することはできませんが、少し方向性を変えて考えてみると、彼らの働きやすい職場を作る取り組みを社会でして行くことで彼らの生産性を生み出すことができるかもしれません。前述しましたが、これから精神疾患を大なり小なり患う人は増えてきます。精神疾患を患う人を生産性がないと決めつけて排除しようとするのではなく、逆に彼らの働きやすい環境を作り出すことで、生産性を生み出すという方向転換も必要なのではないでしょうか。
 
 ここまで精神疾患患者が生産性がない前提として話を進めてきてしましましたが、彼らにだって家族の一員としての役割があります。また生活保護等を受けている場合であっても、家事等何もできない状態が続くケースは少ないと思います。起伏の激しい場合もありますが、状態がいいときには家の家事等できることはあります。しかし一方で、認知症や重度知的障害のように(ここでは一般的に正常な意識が欠けていたり意思疎通が困難というイメージがしやすい認知症や重度知的所外を例にあげていますが、実際に私は彼らと接したことはないので偏見であるかもしれません)うまくコミュニケーションを取れない場合もあるでしょう。その場合に私の知識不足であることは承知の上で述べますが、生産性がないという言葉を否定することが私にはできないかもしれません。
 
【例】統合失調症の私の姉
 
 例として私の姉の話をしたいと思います。彼女はおそらく統合失調症です。診断は受けていませんが彼女の状態を軽く述べると、感情の起伏が激しく意思疎通が正常には行きません。(彼女に問題があり)定職に就くことができず現在は風俗店で働いていると聞いています。自分の客観視ができず被害妄想が激しいです。原因は思春期の過度なストレスでしょう。私を含め私の家族は彼女をもう家族の一員である大切な存在として認識していると明言できません。彼女が苦しみ、通過点ではなく終着点が風俗という仕事でかろうじて自分で生活をしているように思います。自分が健康な状態ではないことを認識できておらず、医療の助けを受ける気はないようです。今の所一人で生活はできているようですが、私たち家族とはほぼ絶縁です。そんな彼女が何に幸福を感じ、何を目標に生きているのかはわかりませんが、私は彼女のそばにいてあげることはできません。正直彼女のことを考えたくありません。彼女の苦しみを思うといたたまれなくなりますが、彼女が一人で今後生きていけるとしても、私は彼女が生き続けることを心の底から応援できません。「若い女」を商品として売り出しお金をもらっている彼女が、歳をとって仕事を続けられるとは思いません。かといってコミュニケーションを正常に取ることができない彼女には一般職につくことができるとも思いません。彼女がまだ彼女であるうちに彼女を救ってあげたいと思いますが、私はその術を持っていません。家族なのに非情だと思う方がいると思いますが、そんな現状に生きる私にとって、彼女の生産性云々より、彼女の幸せを願ってやみません。
 
 だいぶ身内の話をしてしまいましたが、このような姉の現状を知っているので、私はたとえ生産性があっても、本人やあわよくば周りの幸せにつながらなければ生産性なんて糞食らえだと思ってしまいます。ある意味、自己犠牲をすればいくらでも生産性なんて生み出すことができるのではないでしょうか。
 いつだかの政治家が、「LGBTの人には生産性がない」という趣旨の発言をしていました。意図としては少子化が進む中で、主に同性間でのカップルであることは生物学的に子供を作ることが不可能であるため、社会を支えて行くのに必要な若者を生み出すことができないという意図であると予想できますが、彼らだって自己犠牲をすれば生産性なんていくらでも生み出すことができます。自分を押し込めて異性と結ばれて子供を作ることなんて理論上では簡単です。しかし、生産性を優先しても本人ないし周りが幸せでないとその生産性はなんのための生産性なのかわかりません。社会の幸福のために生産性が必要であるならば、本人の幸せを犠牲にした生産性はなんの意味を持つのでしょうか。
 
 
仕事をしていない引きこもりの人の生産性について
 
次に、いわゆるニートと呼ばれる、職についていない引きこもりの人について考えます。ニートだからといって引きこもりであるとは言えないと思いますが、今回は引きこもりである場合で話を進めます。彼らの多くは働かなくても親からの支援や第三者からの支援で金銭的に働かないでも生きていける状態なため、働く意欲がなく職についていない場合が多いのではないでしょうか。これに関しては、別に生活保護を受けている場合でもなければ誰に迷惑をかけているわけでもないのだから、世間はほっとけばいいのではないでしょうか。親のすねをかじっているからといって家庭内でうまくいっているのであればなおさらです。定職についていない引きこもりの人が犯罪者になるというニュースも聞きますがこれについては後日調べてみて記事にしたいと思います。とにかく犯罪者でもない限り、ニートでいられるならニートでいればと思います。それが一生続かなかったとしても、現状彼らにとってそれがいちばんの生きる術なのです。社会貢献なんて二の次で第一は自分の人生なのですから、他人に大きな損害を与えない限りそれでいいのではないでしょうか。しかし、家庭内暴力や家庭内での問題がることで、家族に迷惑をかけているという声もあるかもしれませんが、毒親(俗に、子供に悪い影響のある親。児童虐待に該当する行為で子供を傷つけたり、過干渉・束縛・抑圧・依存などによって子供の自立をさまたげたりする親。(デジタル大辞泉より))を持つ私としてはそうなったのもある意味家庭での影響が大きいと思います。だから家族は自業自得というか、その状態に向き合っていかなければいけないと思います。当人は家庭は家庭と割り切って、自分の力で這い上がっていくこともできなくはないですがかなり労力がいることですし、第三者の助けが必要だと思います。そのような側面を鑑みると、私はニートを否定することはできないと思います。
 
 
死刑囚の生産性について
 
 次に死刑囚について考えます。多くの場合死刑判決が出ても、死刑は即執行される場合は極めて少ないです。執行は何年も何十年もかかる場合もあります。受刑者であれば社会復帰に向けた更正のためのプログラムや奉仕活動、刑務作業が与えられますが、死刑が確定された死刑囚はそれらは行われず、ただ税金でご飯を食べて生活しています。また家族とも一緒に生活できない上に、世間からは凶悪犯の家族として死刑囚の家族はざんざんな人生を送ることになるでしょう。死刑囚に将来性はなく税金で生活し家族に対しても増悪の元凶となります。身内としての愛情がないこともないと思いますが、それよりも贖罪の念や社会からの強い風当たりの方がよっぽど大きいでしょう。そして忘れてはいけないのが死刑囚の場合では他者の命を奪い、彼らの将来を奪い、彼らが将来生産するはずであったものを奪うという、まさに生産性を奪うような行為をしているという点です。(ここでは生産性に関してのみ述べたいと思います)今までの理論で生産性を考えたら、生産性皆無の極みとも言えるでしょう。
 
 
重度障害者の生産性について
 
 最後に重度障害者についてですが、私は彼らと直接的に時間をかけて接したことがなく、また医療的な知識も障害者支援施設に関する知識も不十分なので偏見が入ってしまうことを述べておきたいと思います。上記に色々な人たちの例を出して生産性の有無を述べていますが、植松死刑囚の思想に則ると、障害者の生産性についていちばん問題点としては、彼らに投資したものと彼らからのカムバックが割に合わなく、むしろマイナスであるため生産性がなく社会に不必要でむしろマイナスな存在であると見られる点に集約できると思います。この点については家族の一員としての大切な役割を担っているという一言では反論できる自信がありません。
 しかし、誰かに利用されるという意味では生産性があると言える例として「24時間テレビ」に代表されるような、世間の同情を引きそれをお金に変えるという商法です。久しく「24時間テレビ」を見ていないので近年どのような放送内容かはわかりませんが、近年でも障害者を見世物のように扱いそれでお金を集めているという批判を受けています。また「24時間テレビ」の内容は障害者の視点から見れば脚色され綺麗に同情を引く作品として仕上げられているという点も指摘されています。このような社会的弱者を利用し、マジョリティーである一般層の人の鑑賞物の対象となっている点においては社会の役に立っていると言えるのかもしれません。もちろん彼らの存在を周知させ、マイノリティーに優しい社会づくりに少なからず貢献していると思いますが。「24時間テレビ」の話についてはこれくらいにしておきたいを思います。
 
 
生産性のない人間は社会に不必要なのか
 
 私には完全に重度障害者が生産性があるということを根拠を持って主張するには力不足が否めませんが、少し視点を変えて生産性を見てみたいと思います。対外的に、社会的に生産性がない場合において、その生産性がなく社会に不必要だという線引きは誰がどのように決めることができるのでしょうか。今回の記事で長々と書いたように、個々のケースは多岐にわたります。一つ線引きのルールを作ってもイレギュラーだらけです。なのに、一概に生産性がないと決めつけることは容易なことではありません。これは死刑判決が出てもなお死刑執行には期間が設けられるという場合に似ているのではないでしょうか。有罪で死刑判決が出てもなお、死刑を執行してしまったら取り返しがつかないので、即執行はせずに一定の期間がどうしても生まれるのではないでしょうか。ある線引きをして生産性がないと言ってもその線引きは本当に正しいのか。生産性の有無を見極めることは、死に値する行為を行ったかどうか判断することと同様に、またそれ以上に難しいことであるため、判断をする際には相当な知識と情報により熟慮が必要なのです。皮肉にも植松死刑囚が一方的にかつ短略的に重度障害者の生産性を判断したにも関わらず、植松死刑囚には死刑判決が出たものの死に値する行為を行ったかどうかの判断の猶予が与えられているのです。
 
 一方で、逆に生産性がないからなんなのでしょうか。人に迷惑をかけて生きるからなんなのでしょうか。誰かにとってそれはマイナスに受け取れても、誰かにとってはプラスかもしれません。私たちは全知全能の神ではないのです。全てを知ることはできません。何事も個人の想像を超える可能性も秘めているのです。私たちは大抵のことに対して無知であると言えます。一つの側面を知ったからといって全てを知ったような気になって判断を下すのはあまりにも早計ではないでしょうか。
 そもそも特定の人間を挙げて生産性があるないという議論が無意味なのです。生産性の有無の基準がどうしても一箇所によってしまう時点で、その判断は傲慢にすぎません。また、仮に生産性の有無で人間を判断する場合、今自分が生産性のある側の人間であっても、いつ生産性のない側の人間んあるかはわかりません。一つ言えることは、様々な人が生きやすくマイノリティーを鑑みて様々な側面の生産性を生み出せる社会を作ることを目指す方が、生産性のない人間見極め排除していくということよりもよっぽど生産性があり幸福度は大きい社会につながるのではないでしょうか。
 
 
 
ここまで長々と書きましたが、思いついたことを殴り書きのように書いてしまったので、また書き直すと思います。また、これは私の一意見で偏見を大いに含んでいると思います。なぜなら私の知識不足が否めないからです。これからも勉強を続けていきたいと思いますが、今知っている段階での意見を述べてみるのもいいかなと思い書いてみました。相模原障害者殺傷事件についての記事は一旦ここで区切りをつけたいと思います。またこの件に関して書く際には、学術記事や本で勉強してからにしたいと思います。ここまでお読みいただきありがとうございました。