↑前回の記事では相模原障害者殺傷事件の概要を日経新聞の情報をもとにまとめました。事件の流れはご理解いただけたと思います。

 

私がこの事件で考えたいことは、植松死刑囚の犯行動機である優生学的な思想である。

 

 まず、優生思想という言葉をご存知ない方に簡単に説明したいと思います。

 優生思想とは、人類を遺伝子的によりよくすることを目指す優生学の思想で、身体的、精神的に秀でた能力を有する者の遺伝子を保護し、逆にこれらの能力に劣っている者の遺伝子を排除して、優秀な人類を後世に遺そうという思想です。

 第二次世界大戦期のナチスドイツのホロコーストをイメージしていただければ理解しやすいと思います。ナチスドイツはユダヤ人や障害者を劣勢の人間とみなし、根絶やしにしようと大量虐殺を行いました。

 

※優生思想と一口に言っても植松死刑囚とナチスドイツのものが同一であるかどうかは今回は置いといて、ここでは優生思想を、「人間に優劣を付け社会的に必要であるか否かを振り分け人類には優生である人間しか必要でないとする考え」で話を進めたいともいます。

 

 優生思想がどういったものかご理解いただけたところで、次に、植松死刑囚が2016年2月15日に衆議院議長公邸を訪れて手渡した手紙から、植松死刑囚が本事件を起こすに至った優生思想的な文言をあげてみたいと思います。(ニュース速報ジャパンより)

 

「私は障害者総勢470名を抹殺することができます。」

「常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。」

「障害者は人間としてではなく、動物として生活を過ごしております。」

「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。」

「障害者は不幸を作ることしかできません。・・・(中略)・・・障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。」

 

 上記から見られる植松死刑囚の思想として注目したいことは以下の二点です。

・重度障害者(植松死刑囚の定義は意思疎通が困難な人)は人間的な自立した生活を送ることができないため、周りを不幸にする元凶とみなしたこと。

・植松死刑囚は最大多数の最大幸福(より多くの人がより多くの幸せを手に入れることこそが社会のぜんでとし、これにより結果的にマイノリティはないがしろにされる)の理念に則った場合、重度障害者は安楽死させるべきであるとしたこと。

 

※以下からは私の意見です。(倫理学や哲学の授業を少しかじっただけなので、未熟な部分は多々あると思いまがそれでもよかったら読んでいってください。)

 

 

人間的な生活ができない重度障害者は周りを不幸にするのか

 

 まず、人間的な生活を送ることができない人は、周りの人々を不幸にするのか。ということについて考えてみたいと思います。

 

 ここでまず問題になるのが、人間的な生活の最低ラインはどこなのかということです。何ができたら人間的であるのか。植松死刑囚は人間的な生活を意思疎通ができるかどうかという点に絞り、殺害するか否かを決めていました。確かに、人間の能力として言語を介してコミュニケーションをとる文化を獲得したことは偉大なことかもしれません。

 しかし話すことができないからといって、彼らに感情も意思もないとは言い切れません。ここで簡単な例を挙げてみましょう。人間とペットの関係です。犬や猫、ハムスターやウサギなどを長年飼っている人にしたら、彼らの感情を読み取ることはそこまで難しいことではないのではないでしょうか。ご飯が欲しいとか、暑いとか寂しいとか、いろいろな感情を飼い主が読み取ることができているからこそ私たち人間と動物たちの間で信頼関係が生まれ、そこから幸福を感じるということは容易に想像できるのではないでしょうか。

 逆に言葉を話せる動物である、インコ等を考えてみましょう。彼らは飼い主の言葉を覚え、ただの鸚鵡返しではなく、場面によってその言葉を使い分けることができます。インコ等のおしゃべりは人間的と言えるのでしょうか。

 察するに、植松死刑囚の言葉を介してのコミュニケーションという言葉には、空気を読めるかということも含まれている気がします。午前中、誰かに会ったら「おはようございます」と挨拶をする。誰かが泣いていたら心配する。もしくは声をかける。また、何もしなくても、泣いているという認識を持てるかどうか。このように、他者と生きていく上で必要なスキルを持っているか否かを広義的に含んでいる気がします。

 

 もう一つ、人間的な生活を送っているか否かで重要な点があると思います。それは自立しているかという点です。自らご飯を用意し食べることができるかどうか。自分の部屋を管理し掃除ができるかどうか。排泄やお風呂に入ることが自分でできるかどうか。これらができないと、他者によって自分の生存を管理される状態になります。生存に必要な活動を自らの手で行えない状態に人間が陥った時に、それは人間的な生活を送っているといえるのでしょうか。

 人間特有の営みの一つとして、芸術活動も挙げられると思います。自らの生存には一切関係なく、喜びや苦しみを享受し、感情を表現し共有するものが芸術活動です。

 

 人間的な生活と一口に言っても、言語文化を持ち活用できるかどうか、共同生活を送るためのコミュニケーションをとることができるか、自らの生存のための活動を一人で遂行することができるか、芸術活動にあげられるような生死に関係しない精神の充足のための営みをしているかどうか、いろいろな要素が挙げられると思います。

 植松死刑囚は人間的な生活を送る重要性は、社会の役にたつかどうかに帰結するとしています。だから他者の力を借りないと生きていけなかったり、直接的なコミュニケーション(主に言語能力)をとることができかったりする障害者は(短略的に見て)生産性がなく、(助けを受けることは周りの人への迷惑と捉え)周りの人は彼らに関わると害悪しかないと決めつけ、植松死刑囚は彼らを社会から抹消すべきだと考えたと推測できます。

 

 これについては相模原障害者殺傷事件から優生思想を考える(3)で人間の生産性について述べているのでそちらをご覧ください。

 

 

重度障害者を安楽死させることは社会にとっての幸福につながるのか

 

 植松死刑囚は重度障害者を生産性がなくまた周りを不幸にする元凶だと決めつけ、その解決策として、彼らの安楽死を提案しました。現在日本の法律では安楽死が認められる

https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=3882

 

 

 

 

 

 

 

次の記事に続きます。

※あくまで私はこの記事を中立的な立場で書いたつもりですが、偏っていたら申し訳ありません。それが正しいか否かに関わらず、私も最大多数の最大幸福という考えは社会にとって有用な概念であると考えているため、読んでくださった方には、彼の優生学的な考えを肯定しているように捉えられるかもしれません。しかしあえてここで言いたいのは、植松死刑囚の人間的な生活を送ることができない人間は社会には必要ないという考えに則ったのなら、私のような精神疾患を持つ人も例外ではないと考えます。

 

 

参考文献

・ニュース速報Japan、2016年7月26日15:52 最終更新、「植松容疑者の衆議院議長公邸宛て手紙の全文 障害者抹殺作戦を犯行予告」

https://breaking-news.jp/2016/07/26/026100