最近の活動は当人以外の第三者の活動も含めて初めて成立するようですよ。


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いい時代になったのう。


その後の人生でつまずくことがあったらどうなるでしょ

子:「もとはと言えば、おれは本当はイヤだったのにおまえらがオレをこの道に押し込んだんだろ!!」

親:「私たちはおまえのためを思って・・・」

子:「オレの人生はあんたらのおかげで台無しだよ!!」

親:「・・・」


ってことで、自分で決めて失敗した時と違って言い訳の対象ができました~


●親御さんたちにアドバイス

子:「あんたらのおかげでオレは失敗したんだから責任とってもらうぞ!!」

と言ってきたら

親:「おまえは何も自分で決めてこなかったみたいなことを言っているが、実は、すべてを私たちにまかせる ということを自分で決めてきたのだから責任をとるのはおまえ自身だ!!」

といえば、一見、正しいことを言っているようで、責任を問われることはなくなるかもです。


ということで、子供の立場の人は、自分で決めずに第三者の意見をそのまま採用する ということを決めるのは、自分で道を選ぶのと一緒で結局は自分で後始末することになるので気をつけましょう 

というお話。

いつも読んでいるブログに中原中也のなまえがでてきたんですよ と。


んで、前から読んでみようかと思っていた 「汚れちまった悲しみに」 についてちょっと調べてみましたよぃ

よごれちまつたかなしみに


生きることの虚無感。

雪の降る冬の夜に窓の外を見ながら静かにたたずんでいる。

自分はそんな感じがしましたよ と。


あと、自分が汚れてしまったことを悲しんで、人生について考える みたいなカンジかと思ってたんですが、

自分が汚れちまった悲しみ ではなく

悲しみが汚れてしまった   という理解が多いようです。


悲しみが汚れちまった・・・ どないやん!! と

中原中也の詩は理解が難しいというか、解釈が難しいものだとされているようなんですねぇ。


世の中、ひとつの意味とか用途にしかとらえられないことのほうが少なくて、人によってとらえ方、使い方は違ってきますねぇと。

そういう意味では、作り手は一見、意味のわからない作品を作って、作品の意味付けを見る人に丸投げしてしまうのも面白いのかもしれません。



PS.悲しみさえ汚れてしまうこんな世の中なので、人間が汚れてしまうことくらい笑って許しちゃいましょう

なんて思っている人って ちょくちょくいますよねぇ。


「自分はそんなことはない」っていう人もどこかでは思ってたりするんじゃないか と。


そんなわけで、ジョージ・ソロス な気分でデイトレードに挑戦してみましたが、案の定、なけなしのお金をスッてしまいましたよ と。


デイトレードなどの短期の投資で成功するのは全体の一割にも満たないということは知っていながら、自分なら大丈夫だろうという根拠のない自信が出てきたりしたわけなんですねぇ。


こんなこともあって、「自尊心」は生きにくく自分を縛るだけのもののような気がする今日この頃なわけです。


周りに伝わるような自信に満ち溢れた人は、見る人によってはかっこよく映る時もありますが、自分の能力に自信がありすぎるが故にチームプレイを乱してしまったりしがちなわけで。


また、人前では出さなくても、ジョージholstのように自信から自爆してしまうこともあるわけで。


ちなみにこの場合、何かをして失敗することがいけないとかじゃなくて、根拠のない自尊心から来た行動を繰り返すと失敗だらけになってしまいそうな気がしたわけで。


自尊心がひとかけらもない人間なんていないんでしょうが、少しずつでもそぎ落としていけたらもっと生きるのが楽になるんじゃないかな~ なんて感じたわけで・・・


今回は 北の国から 風にいってみましたよ と。



お金は信頼(信用)を数値化したもので、信用を気づくことができれば、お金を稼がなくても、お金を持っている人からごちそうしてもらえたり など生活していくことができる 

だから、極端にいえばヒモとして生活している人の中にはすごく信用力のある人間もいる と。


でも、一時期はやったネカフェ難民なんかは、飯や住むところを提供してくれるような人脈を作ってないから、ネカフェしか行くところがなくなってしまう。


じゃあ、ヒモとネカフェ難民の差は何かというと、やはりコミュニケーション能力であり、多くの人は嫌われることを恐れて人と交わる機会を意識的に少なくしたりしているために、いざという時に頼れる人なんかいない

 

最近読んだ本の一部分です。



ここでいうコミュニケーション能力って、就職活動の際の「企業が学生に求めるものアンケート」とかで言われるようなコミュニケーション能力とは別のもののような気がするのですよ。


就職活動のときに求められているのって、用はいかに使いやすい人物であるか だと思うわけです。


上司:「飲み会いくぞ~」

部下:「自分、飲みニケーションとかはちょっと・・・(汗)」


とかって言う人ってその部署の雰囲気を悪くしたりしてしまうので、使いづらい人間ってことになっちゃうんですよ。


だから、就職活動の時に求められてるコミュニケーションって「やれと言われたらやります」

「飲むぞと言われたら飲みます」 って感じだと思うのですねぇ。


これって言われてみれば受身のコミュニケーション能力であっていざという時に頼れるほど太い人間関係を作るようなコミュニケーション能力ではないと思うのですよ。


職場を退職した後も、元同僚と交流を続けている人ってどのくらいいるんだろうと考えてみると、職場のコミュニケーションって ”うわっつらの極み” みたいなカンジするんですよねぇ

※あくまでも個人的な意見ですが


それに比べて、能動的なコミュニケーションってどんなもんなんでしょ


それって、やっぱり本にも書いてあったように人に嫌われることを恐れたり、人からどう思われるかといったことを越えた先にあるもんだと思うんですよねぇ。


前の例でいえば、会社以外での場面(友人同士)では


A:「飲みにでも行く?」

B:「オレ、酒あんまり飲めないんだよね~」

A:「まじか!! 実はおれもそこまで好きなわけじゃないんだよ、じゃあふつうに飯でも食いますか~」


ってことになるのって普通のことだと思うんですよ。

友人だからこんな会話ができるんでしょうか?

こんな会話ができるから、今でも友人と呼べる関係なんじゃないんでしょうか?


でも年を重ねれば重ねるほど(サラリーマンとしてなのか?関係ないのか?)、素直に自分の感情に従って断ったりすることって難しくなってくると思ったりもしています。


自分の感情をストレートに出すことって 「こいつとはあわねぇナ」 と思われて人が離れていくリスクもありますけど、 「こいつとはなんか気が合うんだよな」 っていう出会いもたまにはあるわけですよ。


なんてウダウダ考えてみたんですが、結局、コミュニケーションに正解なんてないんだな~

なんてどうでもいい結論に着地しましたよ と。


あと、

親友と呼べる人って小学生くらいの頃からの付き合いだ ってことって結構多いと思うんです。

そう考えると、大人になるに従ってコミュニケーションって下手になるのかもしれないな~なんて。


信用を金に換えることで生きていける子供から

稼いだ金を信用力として生きていく大人に


進化したんでしょうかねぇ

退化したんでしょうかねぇ




世の中に無駄な努力ってあると思うんです。

努力は報われるべきだという考えが根底にあるのでなかなか認めたくはないですが、確かにあるんです。はい。


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ゼークトの組織論


○有能な怠け者。これは前線指揮官に向いている。

理由は主に二通りあり、1つは、怠け者であるために部下の力を遺憾なく発揮させるため。そして、どうすれば自分が、さらには部隊が楽に勝利できるかを考えるためである。


○有能な働き者。これは参謀に向いている。

理由は勤勉であるために自ら考え、また実行しようとするので、部下を率いるよりは参謀として司令官を補佐する方が良いからである。また、あらゆる下準備を施すためでもある。


○無能な怠け者。これは総司令官または連絡将校に向いている、もしくは下級兵士。

理由は自ら考え動こうとしないので、参謀や上官の命令どおりに動くためである。


○無能な働き者。これは処刑するしかない。

理由は働き者ではあるが、無能であるために間違いに気づかず進んで実行していこうとし、更なる間違いを引き起こすため。

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つまりは働き者である時点で、もっとも危険な 無能な働き者 となる確率が生じるわけですねぇ。

彼の、努力は報われるどころか、周りの人まで不幸な状況にしてしまう可能性がありますよぃ


じゃあ、有能な人は働くか怠けるかを選択し、無能な人は怠けるという選択を取ればいいじゃあないですか(笑)

と考えたんですが、どうもそれも無理そうだな と。


だって、無能な人が必ずしも自分が無能だと気づけるわけではないからです。

ある無能な人は、自分の無能さに気付かないままに有能だと勘違いをして間違った努力の結果、周りもろとも自爆する可能性があるわけです。


しかも無能な人は無能なりに周りから見ても頑張っているわけで、周りの人も「おまえの頑張りが迷惑なんだよ」とはいえないわけですねぇ。


そう考えると、怠けていることで少なくとも周りに迷惑をかけるという最悪の選択を回避する最善の手を打っているということになるわけですねぇ。


なんか、怠けることを正当化するカンジになってきてしまいましたが、「自分は無能だから努力することでせめて人並みには近づくようにはしよう」っていう高尚な考えが周りを巻き込むことがあるってことを知っておくことで、自爆した後の「こんなはずじゃなかったのに(泣)」って気持ちなんかも少しはちがってくるのかな~


なんて考えたりした冬の朝