今日も、なんだかんだでお酒を飲んでしまったおいらです。

(肝臓の関係で医者には控えるように言われていたりするわけです。えぇ。えぇ。)


フラッと自宅に戻ると LAST SAMURAI をやっていましたよ と。


そこで、印象的な台詞を聞いてしまい、酔いがさめてまたまた不眠症気味になってしまったのでブログを書いてみたりしているわけです。


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「見届けたのか?

死にざまを?」


「お話しましょう。

生きざまを」


                                LAST SAMURAI 天皇が侍たちの最期を尋ねる場面 より

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生きざま。


この言葉を使えるような人生を歩める人間はどれだけいるのでしょうか?

すべての人にその人なりの人生があり、それぞれの生きざまがあると言われれば、そうかもしれませんが、少なくとも LAST SAMURAI を見た後の自分には生きざまを語る資格はないと思ったりしたんですねぇ。


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人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。
                                           by中島敦

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なんて言葉もありますが、今の自分は、何かをなそうとして、生きざまを一筆一筆描いている

というよりは、ただ何もなさぬままに死期を待ち続け、死にざまをさらしている

といった気がしたりしたんですねぇ。


おいら得意の言い訳を始めますと、

侍や宗教の信者などは、極めて閉鎖的なコミュにぃで生きており、多様な情報を得ることができなかったために、現状の生き方こそが正義である と盲信するしかなかったのであろう と考えたりしています。

現在の日本は、インターネットなどの豊富な情報源により、ある一つの事柄に対して、評価できる部分、評価できない部分、といった多くの視点からの情報を手に入れることができるようになっており、生まれたときの身の回りの環境こそが正義である といった盲信は生まれにくくなっていたりするわけです。


このように、経済的にある程度豊かになり、思想など様々な分野での自由が与えられると人々は惑います。


しなければいけないことは特になく、やってもいいし、やらなくてもいいことのみが存在する世界。


何が正しいのか、何が間違っているのか。

それはすべて自分で判断しなくてはいけないんですねぇ。(もちろん自分が決めたことに対して、それは間違った決断だ!!と批判してくる人もいるでしょう。)


こんな状況の中でさらに厄介なのが、

誰の中にもあるものなのかもしれませんが、

1、毎日楽しければ、使命感とかそんなんどうでもいいじゃ~ん!!というお気楽な自分と

2、描いて見せよう!! 生きざまを!!                 というどこかを目指したい自分

がいたりするわけです。


先日、上原美優さんが、亡くなってしまいましたが、自殺したり、鬱になってしまったりするのは2のほうの自分が強い人におこりやすいことなのかと思ったりしています。

逆に、1のほうが強い人は、ふと目にする2のような使命感を持って生きている人に触発され、自分はこのままでいいのだろうか・・・。と思い悩み、おいらのように眠れない日があったりするのかもしれない

(おいらだけか(笑))

とか思ったりしています。


というわけで、どっちを選んでも人生はなかなかに険しそうなわけで、

正解なんてないわけですが、

人生について考えてしまった時の安眠法を募集しております(笑)。



「さらし続けるのか?死にざまを?」

「描こうと努力するのか?生きざまを?」


※さらす というと悪いニュアンスなカンジですが、上記の1のほうに対応するものだと考えてください。

  文才もまたもちあわせていないわけです。えぇ。


PS,上原美優さんのご冥福をお祈りいたします。

マジメな人は自分を追い込んでしまったりしがちですが、おいらはそういうところもすごく人間が人間らしいところだと思ったりしているわけで。人間として大切な部分なんじゃないかと思っていたりするんです。

ということで、けっこうファンでした。と。




(間違っているかもしれない)つたない英語で失礼します。


今日はわけもなく突然さびしくなったりしたわけです。

ごく一握りのさびしがり屋だけが味わうものなのかと思いきや、ネットを徘徊すると、意外とみんなそんな時ってあるみたいですねぇ。


さびしさの定義ってよくわかんないんですが、一番しっくりきたのは

ふと、胸がぐーっと痛くなって、重たいような、息苦しいような、わけの分からない気持ちや、切なくなって、何をしていても気が紛れなくなる

ってやつです。


定義の通り何をしても気が紛れなくなってとにかく人のいるところにいってみたりとかわけの分かんないことをせざるを得ない状態になっちゃうんですよねぇ。


この種の寂しさって、今まで誰かと一緒にいたのに、一人暮らしの家に帰ってきたりすること急にこみあげてきたりするんですねぇ。


おいらは、結婚とかには全く興味がないんですが、もしかして、この寂しさを極力、味合わなくてすむようにするためにするもんだったりもするのかな~ なんて考えたりしました。


この寂しさは、他の人と一緒にいればたいていは紛らわすことができるんです。


でも、その場しのぎでの緊急避難なんてしないほうがいいって考え方もあるみたいです。

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【原文】孤独に歩め悪をなさず求めるところは少なく林の中の象のように

【訳】それができないならば、愚かな者を道伴れとはするな。国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め」


※原文には直前に「もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、ともに歩め」といったことが書かれているそうなのですが、見つかりませんでした(泣)


                       ブッダの言葉を集めた『ダンマパダ』の23章にある一節(330節) らしい

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と、言いますと

素敵な友達
運命のヒト

のような感じでしょうか? と。


いずれにしても、おいらはもちろんのこと、大多数の人間ってそんなに強くはないとおもうので、国を捨てた王のように暮らすのは難しいかもしれません。

林の中の象のように暮らすのが普通かもしれません

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雌を中心とした群れを単位として生活し、高度な社会を作っている。

Wikipedia 象 での検索より

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おいらの寂しさは、ここまで書いたようにひとりだと感じちゃうものなんですが、調べてる中で、人と一緒にいるときにふとさびしくなることもあるみたいです。


こっちの寂しさは一人でいるときはカンジないみたいなので、一人でいればいいんでしょうか。

両方のパターンが併発したらどうなるんでしょう・・・。


いづれにしても、人間をやるのは結構難しいことみたいですね。


おいらは「生きる」のが下手ですが、「生きる」ことが上達することってあるんでしょうかねぇ。

鈍感力をうまれもったりしないとなかなか難しいような・・・。(もちろん悪い意味ではないですよ。えぇ。えぇ。)


Can you fight against loneliness as long as you live ?

※頑張ってはみましたが、低学力なのが見え見えなので、間違ってたら教えてください。ww






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チェスは人生のようだ。


一番最初はすべての駒がそろっている。

そのままなら平穏無事だが、それは許されない。

動き、自分の陣地から出ていかねばならない。

動けば動くほど、相手を倒せるかもしれないが、自分も様々なものを失っていく。

それは人間の人生と同じだ。

将棋と違って、相手から奪ったからと言って、それを自分のものにはできない。


東野圭吾 「さまよう刃」 より

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等価交換って考え方があります。

おんなじ価値のものが交換されてなりたってますよ~ みたいなことなんですが、人生においては失ってく一方みたいです。


大人になり、毎日必死で働くことで、お金を得る。

その代わりにお金では買えないかけがえのないものを失っていく。  でしょう と。

お金をいくら手にしても、さらなる安心を求め、より多くのお金を得ようとさらに働きます。


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勝ってなお、渇くばかりだ

                                                  尾田栄一郎 ONE PIECE より

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自分が小学生くらいだった時の笑顔はどんなだったんでしょうか・・・。

思い出せませんが、たまに公園などで目にする子供の笑顔は今の自分より魅力的だと思うのです。


だからって 「どうせ死ぬなら早くたって関係ない」 とか

        「生きている意味がない」 とか 言って自殺したりするのは違うと思うんですねぇ。


どうせ失っていくからこそ、失うものをいかに少なくするか。

あるものを失っても、何かを得ることができるようにするか。 そんな風に生きていけたら・・・と。



生きるとは何なんだろうか・・・

「限界をつくるな!!」

よく言われる言葉ですねぇ。


この言葉には二つの場合があると思っていて、

1.他人から見て、あの人は限界をつくってない

って言われるってと

2.自分で自分の限界を作ってない


ってのがあると思います。

つまり、主観的に限界を作ってないのか、客観的に限界を作ってないのかってことです。


この二つ、非常においらの直観なんでわかりにくいかも知んないんですが、

人から「限界を作るな!!」って言われる場合はもちろん2のパターンで、これは多くの場合、会社や学校など多くの場所で言われることが多いです。


で、考えてみたですよ。


人に「限界を作るな!!」っていう場合、その人が限界突破することで、何らかの利益がある場合なんではないかと。(本当にその人のためを思っていってくれている場合もあるでしょうが・・・。)

たとえば、会社などでは、非常に苛酷な残業などを強いられると体調を崩したり、難しい課題があると弱音を吐いたりしてしまう人がいるとすると、

会社や上司からは「おまえは自分に限界を作っているな。もっと上を目指してやってみろ!!」

(お前が無理してでも生産性を上げることでその文会社の利益につながるんだからもっと根性見せろよ!お前の頑張りがオレの評価にもつながってくるんだから。)

ということになる。


でも、これってホントに果てしないことになってしまいそうです。

今までの能力が1でした。

今回は限界を超えて3までレベルアップしました。

次も、はたしてレベル3のあなたに周りが満足してくれるのでしょうか?


自分の能力を高めたいという向上心が強いタイプなら有意義なことなのかもしれません。

しかし、大多数の一般people的な能力地の人は、徐々に体力、精神力をすり減らし、いずれ、本当の意味での限界を迎えてしまうでしょう。


そうすると、結局はこう言われるのです。

「あいつも結局は自分の限界を作ってしまったってことだ。」


これが、うがった見方大好きのおいらの思う世間一般的な限界を決めないってことです。


それに比べて2のほうは、自分で自分の限界を常に意識し、ちょっとずつ上を目指そうということを意識する ということなんですねぇ。

これは、自分に甘い人だと、もともと自分の考える限界ってのが本来の限界より下に設定されたりしますが、自分を律することのできる人なら少しずつ登っていくことも可能です。


こっちのやり方で能力アップを目指す人は、いずれ限界が来ることを知っています。

レベルは99までしか上がらないけど、レベルをアップさせなが冒険を楽しんでいきましょう えぇえぇ。といった感じでしょうか。


結果的にたいていの冒険ではレベル99を迎える前にエンディングを迎えることがほとんどで、それで十分に有意義な旅を送ることができました~ ということになるのです。


1と2で決定的に違うのは、週刊か客観かといったことであり、

他の多くのことにも当てはまるように、自分の以外の周りの人たちに良く思わたいってのには本能的な欲求なんでしょうが、必ずしもそううまくはいかないですよ と。


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私のことを愛してくれる人もいれば嫌う人もいる。

それが人生でありサッカーだ。

                                ジョゼ・モウリーニョ

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人から限界を作っていないと思われ続けることには限界がありますよ ということなのです。


というわけで、今日もいかに頑張らないことが得であるかみたいなことを説いてしまったわけですが、2のほうは言い方を変えれば、自分自身に集中するってことにもなるかもです。


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手本は必要ない。

自分自身に集中するほうがいい。

一つの試合に負けたからと言って簡単に信念を変えることはない。

それこそが才能だ。

                                ジョゼ・モウリーニョ
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ずっとウソだった


よくありますよねぇ。

何かがずっとウソだったってこと。


実際にはよくあることなのですが、今回は、自分の身の回りに危険が及ぶという非常に分かりやすい被害がもたらされたためにずっとウソだったことに憤っていたりするわけです。



で、だまされたり、被害にあったりしたときに原因を他人に押し付けるととても楽になりますよというお話。


東電が「原子力は安全です」っていってたから使ってたのに、実は安全じゃなかったよ~

っていうのは、実は深く調べもしないで使っていた自分にも少なからず責任があるわけです。

でも、それを棚に上げて東電側だけをたたくのはちょっと違う気がするのですよ。

(もちろんウソをついていた東電も悪いんですがね。)


最近、仕事が忙しかったのですが、上司なんかは毎日2,3時間睡眠が続いていたそうです。

若いならなんとかなるかもしれませんが、その上司はけっこういいお年なんですねぇ。

で、「車で通勤している際に意識がなくなっていた」なんて言ってたりするわけです。


この上司がもしもなくなっていたら、奥さんは過労死として会社を訴えたりするんでしょうかねぇ。

ちなみに上司は「今日は嫁に起こされなきゃ、起きれなかった」とか言ってますよ。

赤紙を発行したのは会社ですが、赤紙を徴兵される人の家に直接届けることとなったのはあなたなんじゃないんですか?と。


人は誰も、原因が自分にあること容易にはを認めません。

でも、原因が自分にあることを認める ことをしない限り、騙され続けることになるような気がするのはおいらだけでしょうか。


ということで、誰かに騙されたりしたときは、自分の愚かさを棚上げしてこう叫びましょう「オレは騙されたんだ~」

少しは楽になるかもです。

えぇ。えぇ。