言葉の解釈学 ~社交とは何か~ | 真正保守のための学術的考察

真正保守のための学術的考察

今日にあっては、保守主義という言葉は、古い考え方に惑溺し、それを頑迷に保守する、といった、ブーワード(批難語)的な使われ方をしますが、そうした過てる認識を一掃するため、真の保守思想とは何かについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

~承前~

 

「川崎自爆テロ」を受けて、菅官房長官が、犯人を指して、「引きこもりと断定することは控えるべきだ」と前置きしつつ、「社会との繋がりを回復していくことが重要である」とのコメントを出した。

 

西部邁に倣い、言葉の解釈学(hermeneutik)に無頓着でいられない私としては、この「引きこもり」という言葉や「社会」という言葉への解釈学的考察をせずして先には進めない。

 

「引きこもり」とは何か。

 

まあ、いろいろな定義があるでしょうが、外出を嫌い、人との接触を疎んじ、日がなデイトレードだかFXだかバイナリーオプションだかエロサイトだか良く知らないが、そういうフォルト・ソーシャリティー(非社交的)な世界に埋没する者を指して言うのか、あるいは、外出はするが、人間活動の最も基礎的次元にあるものとしての「社交」つまり、言葉による会話を一切遮断する者を指して言うのかということになると、前者にも様々な問題があることを認めつつ、ここではひとまず後者を「引きこもり」と定義してみたい。

 

「ソーシャル」という言葉は、今日では「社会」と訳され、その理解でおおよその日本人に共有されているが、福沢諭吉が最初に訳語を宛がったときは、「ソーシャル」は「人間交際」というふうに訳された。

 

正に名訳であり、「ソーシャルダンス」を「社交ダンス」というように、ソーシャルという言葉の持つ本来の意味とは社交、つまり、人間交際である。

 

福祉に関わる専門家を「ソーシャルワーカー」というが、まあこれには大して深い意味はなく、特定の業界だけに流通する単なる業界用語といったぐらいのものだろうが、私なら社会福祉士や介護福祉士を、「交際士」あるいは「社交士」とでもそれぞれ呼んでみたい。

 

否、言語的動物としての人間のもっとも基礎となる活動が「社交」にあるなら、およそすべての人間は「社交士」でなければならない。

 

これまでの繰り返しとなるが、この「人間交際」」のための社交術を鍛えるための良き訓練場が、戦前戦中まであった「イエ」である。

 

菅官房長官が、「社会との繋がりを回復していくことが肝要である」というなら、政府はいの一番にこの「イエ制度」の復活に着手しなければならないはずだろう。

 

「ゲゼルシャフト」「ゲマインシャフト」という二つの社会類型を提示したのは社会学者のテンニースだが、今回の川崎無差別テロを始めとする、「動機なき殺人」が頻発する社会とは、まさに、この二つの社会類型のうちの「ゲゼルシャフト(わが国では「利益社会」と訳されるが、それは誤訳とまではいわずとも、他愛無い訳の域を出るものではなく、確かな価値が喪失した社会という意味で、私なら、「ニヒリズム」と「シャフト」を合わせて、「ニヒルシャフト」つまり「虚無社会」と呼んでみたい)の所産であるように思う。

 

つづく

 

写真は、折枝に止まり、盛んに囀るコゲラくん。

 

「囀る」といっても、「地鳴き」の「ギィ~」という声とほとんど変わりません(笑)。

 

まあしかし動きがユーモラスで可愛い、憎めないヤツです。