「人権」この意味不明なるもの ~戦後日本の混乱、狂乱、紊乱を招くのは誰だ~ | 真正保守のための学術的考察

真正保守のための学術的考察

今日にあっては、保守主義という言葉は、古い考え方に惑溺し、それを頑迷に保守する、といった、ブーワード(批難語)的な使われ方をしますが、そうした過てる認識を一掃するため、真の保守思想とは何かについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

~承前~

 

本ブログは憲法論や憲法解釈論に主眼を置いたものではないので、縷々述べることは控えるが、これまで見てきたように、川崎無差別殺傷事件や、高齢者の運転免許証返納忌避、司法の弱者優位に基づく諸判例、家庭崩壊、学校崩壊、イジメ、SNSやスマホ等の爆発的な普及による人間交際の紊乱、偽善欺瞞の平和主義、人権主義、民主主義等、この国の文明を根幹から腐敗せしめたすべて、すべてが言いすぎなら、およそ9割が、「市民社会とその統治機構(つまり国家)は、「個人の人権」を守るために設置・運営されるのだ」、といったジョン・ロックの「社会契約論」を地で行くような、誤謬に満ちた憲法解釈に起因するのなら、それに対する攻撃なり反駁なり批判なりの手を休めるわけにはいかない。

 

日本国憲法制定後しばらくは、13条で規定する「個人の尊重=個人主義」の解釈として、「こんなものは帝国憲法に対する反省原理が産んだものに過ぎない」といった、ごく真っ当な意見が、すべての社会層に浸透したとは言えずとも、概ねその含意で共有されていた時期もあることはあった。

 

ところが、何時ごろからかは知らないが、13条規定の「個人の尊重」も、11条及び12条と同じく、人権保障に関する基本原理を定めた、総括的規定である、といった憲法解釈が、これまでも散々私が叩いてきた宮沢俊義らの学説によって人口に膾炙していった。

 

つまり、13条で規定する「個人の尊重」や「生命・自由及び幸福追求の権利」も、11条、12条でいう「基本的人権」や「権利及び自由」と同義語であるから、総括的に「人権」として認めよ、というのである。

 

そこから、戦後日本人は、封建的な共同体及び天皇制の呪縛から解放され、近代的に自立した「個人」として、生命を全うし、自由に幸福追求を図らねばならない、すべて日本人は、国家から自由となり、世界中のすべての人民がお手本とすべきワイマール憲法の理念であるところの、「人間の尊厳」を他の何よりも大事とせよ、といった理解が出てきて、それが世論の趨勢となってくる。

 

唯一、人権に掣肘を加えられるものであるはずだった、「公共の福祉」・・・まあこれも曖昧な概念でしかないのだが・・・による制限も、「人権相互の衝突を調整するための原理に過ぎず、人権を抑制できるのは他人の人権だけであり、公共の福祉のためだろうと社会の利益のためだろうと、それらによって人権を制限することは許されない」といった理解に接収され、(植木等風に言えば)「ハイ、それま~でよ」という仕儀となる。

 

もし私が独裁者なら、こういう学説を垂れ流し、世論を操作するアジテーターなどは、「打ち首獄門とせよ」のひと言で社会から葬り去ってやるところだが、どうやらこの国は民主国家であり主権在民であるらしいから、こうしてたらたらと愚痴をこぼすほかない。

 

つづく