北一輝論 ⑪ ~「大きな政府」「小さな政府」の二分論に死を~ | 真正保守のための学術的考察

真正保守のための学術的考察

今日にあっては、保守主義という言葉は、古い考え方に惑溺し、それを頑迷に保守する、といった、ブーワード(批難語)的な使われ方をしますが、そうした過てる認識を一掃するため、真の保守思想とは何かについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

「国民の総代表が投票当選者たる制度の国家が、或る特異なる一人たる制度の国より優越なりと考ふるデモクラシーは、全く科学的根拠なし」(日本改造法案大綱)

 

ここで北は、議会制民主主義(間接民主制)を否定し、「或る特異なる一人たる制度の国」つまり「独裁国家」を擁護しているわけではない。

 

その内実とは無関係に、「民意が選んだ議員による政治は、独裁制に優越する」といった、模型化した観念に対し、「全く科学的根拠なし」と冷水を浴びせているに過ぎない。

 

「民主主義を疑う者による民主主義、それだけが健全な民主主義である」(E・バーク)

 

「全く科学的根拠なし」と、民主主義を疑うにあたって「科学」を持ち出すのは、いかにも合理主義者北一輝らしいが、北の言葉にはその表層において保守主義者バークの言葉と通じるものがある。

 

北は「民主制」を望んでいたが、「民主主義(デモクラティズム)」には否定的だった。冒頭の「日本改造法案大綱」からの引用は、そう観ておくに十分な証拠と言えるのではないか。

 

三島由紀夫は、近代国家概念の三要素、「主権」「人民」「領土」のうちの「主権」つまり「開戦の権利」を奪われたことを除けば、北の「日本改造法案大綱」のおよそ七割は新憲法で実現されたと言ったが、私の見る限り、北思想のもっとも重要な部分、すなわち、「アンチ・デモクラティズム」あるいは、民主主義に対する「スケプティシズム(懐疑主義)」は、新憲法から完全に閑却されたというほかない。

 

「民主か独裁か」の二者択一論は過てるものであり、先にも言ったように、人民であろうと、政治家であろうと、さてまた天皇であろうと、総攬の仕方に伝統が反映されてさえいれば、誰が統治権の総覧者たるかはさしたる問題じゃない。

 

北一輝の言う「純正社会主義・・・私の理解では国家社会主義」が、幸徳秋水らの民意を絶対とした社会主義、つまり、社会民主主義と決定的に異なる論拠として、北の次の言葉を挙げておきたい。

 

「婦人の労働は男子と共に自由にして平等であるが、国家改造後は婦人に労働を負荷させぬやうにすべきである。婦人は妻として母としての労働に携わるべきであり、そのことに対し、『人格的尊敬』を与へられるべきである。」(日本改造法案大綱)

 

更に、

 

「日本改造後は、有婦(妻帯)の男子で、蓄妾や他の婦人と姦したる者は姦通罪に処すべきであり、売淫婦を買ふならば罰金刑に処すべし」(同)

 

とまで言う。

 

幸徳らの社会主義は、人民の福祉にのみ政府は積極的に介入すべきであるという意味での「大きな政府=福祉国家」だが、北一輝の社会主義とは、個人の自由が放縦・放埓に転落しないよう、国家権力によってそれらの「勝手気まま」に掣肘を加えるという意味での「大きな政府」だ。

 

ここで私は北一輝思想の是非や適否を問うてるわけではなく、「大きな政府か小さな政府か」「自由か平等か」「戦争か平和か」といった単純な二分論に苦言を呈している。

 

自由が放縦を経て抑圧に、平等が画一を経て差別に、博愛が偽善を経て酷薄に転じないための、国家による予めの規制(バークが言う「プレスクリプション」)の重要性を言っている。

 

むろん、私は北一輝を保守主義者と観ているわけではないが、そのラジカルな思想の一片に(もちろん北にはそういう自覚はなかっただろうが)、保守思想の匂いを嗅ぎ取ることもまんざら不可能ではないようにも思う。

 

知らず知らずのうちに、私は北一輝に接近していたのかも知れないな(笑)。

 

つづく