音楽祭の夜。ざわめきが気持ちいい。
妖精のように、突然現れ、劇をするように語り出し歌い出す飛び出してくる子供たちは、ひとりまたひとりとだんだんと声が増えハーモニーが重なっていく。
私はこの音楽祭の最大の特徴である「ハプニング」を楽しんでいた。周りもその驚きを堪能しているようだった。
黒髪黒目の人間はどうやら私一人のようだ。おや?違うらしい。インフォメーションのテントの下に同じアジア系の顔をした人がいる。試しに日本語で話しかけてみた。その女性は流暢な日本語で答えてくれた。久しぶりに敬語を話すという行為がなんだかくすぐったかった。
私は前日、風の強い渓谷をヘリコプターで飛んできていた。それをガイドに話すと、とても驚いた顔をされ、「あなたには妖精がついているようね」と言われた。ふふ、と笑みが漏れた。それは最高の誉め言葉である。「でもどうやらその妖精はまだ半人前のようだけど」と私は返した。彼女は不思議そうな顔をした。
この音楽祭は毎年行われていて、大変人気のあるカーニバルの一つである。そして、立地が非常に珍しく険しいところで行われるのでも有名である。
自然のなせる技としかいいようがないが、ここは海に面した断崖絶壁の上に飛び抜けたように乗っかった盆状の大地に広がる草原と森の中で音楽祭が行われているのだ。
海風と草原を渡ってくる風で、上空は常に不思議な形の雲がひしめきあっている。広さ9ヘクタールの狭さの中で局部的な雨が降ったり、小さな渦巻が発生したりと、とても忙しい天候が繰り広げられているのだ。そんな難所であるためか、ここに来ようとすると、大変な装備が必要になる。
ところが、今の時期だけは違う。特別なのだ。空には虹色の星ぞらが広がり、緑の甘い新芽が香るこの季節になると、わずか数日の間だけまったく驚くほど素敵な天候になり、微風の中漂う、光のすずらんの誕生を見ることができるのだ。光の綿帽子が、ふあり、ふあり、と森や草原を飛び、それはそれはすばらしい光景が繰り広げられる事になる。樹に引っ掛かったり、ふわふわ飛んでいる光のおかげで、夜でもうすらぼんやりと明るいのだ。
そんな中で、人間達の音楽祭は繰り広げられる。音楽祭の初日から来ようとすると、まだおさまりかけの強風の中を、えっちらおっちら絶壁側から登るか、私のようにヘリやエアプレインを利用して、荒風に揉まれながら降りてくるしかない。
今年わたしは初めてヘリを利用してみた。しかし・・・。しかし、見事に落っこちてしまったのだ。それも着陸寸前に、だ。ところが、そんな大事故にもかかわらず、私はケガひとつせずに降りることができた。妖精さん、ありがとう。と手を擦り合わせて思わず拝んでしまった。
ガイドの人は、その話を聞いてあははと笑い、「やっぱりニホン人ねぇ」と言った。私も確かにそうだなぁと、笑ってしまった。私は地図をもらい、次のポイントに移動することにした。
突然ボンッという音がして、私は飛びあがった。すぐに音がした方をばっと振り向くと、すぐ後ろにおばあさんの驚いた顔があった。おばあさんは突然振り向いた私に、「どうしたの」と声をかけてくれた。しかし、すぐに納得したように表情を和らげ、にこりと微笑みながら少し離れた方を指さした。私はそっちの方を見た。そっちの方には、子供達が何かを囲むように集まっていた。ポンの機械だった。ほっとした私に、おばあさんはにっこりと笑いかけ、肩をぽんぽんと優しくたたいて、私の横を歩いていった。
さっきは笑っていたが、ヘリが落下した時の小さな恐怖が、まだ心の隅にひっかかっていたようだ。なんだかとても驚いていた。驚いている自分にも驚いた。もっと高いところから落ちた事があるのに・・・。そして、久しぶりに驚いているという事にも驚いていた。マイナスの感情を最後に感じたのは、遠い昔だった。私は、忘れていっているのだろうか。いや、違う。私は自分の感情をコントロールできるようになったのだ。
昔、私はとても感情的な人間だった。十代の頃は、自分の感情を制御する事だけでかなりの時間を費やした。怒りやいらだちが、常に私の体の奥に渦巻いていて、その衝動は脳を素通りして、私の身体を直接突き動かしていた。
どうやら、私の中にはまだまだ私の制御できない感情が潜んでいるようだった。
私は近くの樹に寄りかかり、目を閉じてヘリから見た風景を思い返してみた。
ヘリから見えたのは、たくさんの人だった。私は上空から、絶壁を登る人々や、草原と森の中でカーニバルの準備に大忙しの人たちを、のんびり堪能していた。そして着陸まであと数メートルという所で、突然の横風に煽られてしまったのだ。ヘリはしっぽが折れた。私は無事だったが、あれは、確かに驚いた。やっぱり来年は足で登ろうと、すぐに思ったもの。
たいした恐怖は感じてないつもりだったが、どこでその感情を失ってしまったのだろう。記憶の欠落というのは聞いた事があるが、こんなのに比べれば、その方がずっと良い。感情の欠落というのは、時差遅れで思い出されてもしょうがないように思う。その瞬間より後に感じては、もったいないような気がする。例えて言えば、周りの人がある話題で盛りあがっている時に自分はその話を知らないために盛りあがれずくやしい思いをし、さらにやっと話の合点がいって話題にのろうとした時にはもう誰も話題にしていなかった、というようなくやしさと、同じだと思う。それが全て自分の中で起こっているのだから、堪らない・・・・。
一人で生きている。そう思っていた。巨大シーラカンスの海。砂金の埋まる砂地。あの時は連れがいた。
透明な海の中。私のすぐそばを、口を開けてシーラカンスが通り過ぎていった。あのスリリングな爽快感は、水の中から見上げた空のきらめきすべてとともに、ひとつの恍惚だった。あれは、ひとりで生きていける、という事に対しての、自分への恍惚でもあったのだ。水の中に密閉された空気が暴れる音が、耳の渦の中にこだまする。音無き声の轟きが体の中に反響し、感情の渦に私の精神は溺れていた。恍惚とは、制御する自分への、感情という名をもつもう一人の制御できない自分による、最高の偽りであり、最高の裏切りであった。その矛盾に気付く事はない。それが恍惚という、水面から指し込む金色の光の本質なのだ。喜びを超えたもの。
その後、情勢不安の土地に移動した。そこは自爆テロの多い不穏な空気漂う、まったく見た事の無い異国だった。
ある日、町中で自爆テロがあった。私は爆音とともに道路に伏せ、爆風であおられて飛んでくる砂塵をとっさに手で遮った。再び爆音。店から爆風でふっとばされて人間の体が飛びだしてきた。男の体は激しく道路に打ちつけられ、私の目の前にある街灯まで転がり、柱にぶつかって止まった。助け起こそうと私はその男に駆けより、そして男の左手を見た。男は、アラビアンナイトに出てきそうな剣を持っていた。その男はうめきながら顔を歪め、右手で顔にかかったターバンの布をまくりあげた。布の裂け目から獰猛な目が現れ、私と目が合った。私はとっさに、さっきの爆風でやられてない人間は、今度はこいつにやられる、と思った。
私はこいつから安全な距離を得ようとすばやく立ちあがり、飛びすさった。そして周囲を確認した。右斜め前の男が私と同時に立ちあがり、私の方を向いて構えていた。恐怖。あいつもか?しかし、その男も剣の男を注視している。敵ではないらしい。だがどうすればいい?あの剣に立ちうちできるはずがない。逃げるしかない。こいつに近いのは私と右斜め前の男だけだ。道は決めた。この男を逃がす時間を作り、自分も逃げる。あとはこの男が剣の男に馬鹿なまねをしようとしなければいいが、あれはあきらかに立ち向かおうとしている目だ。まずい。助けられるか。ふと足もとの砂を見た。あいつが飛び出した瞬間に投げつけて時間を稼ぐしかない。
剣の男がしびれを切らしたように、剣を上段にかまえてつっこんできた。私は足もとの砂を掴もうとして、同時にしゃがみこんだ隣の男と目があった。そして、二人同時に砂を剣の男に投げつけていた。私は隣の男の逃がそうと腕をひっぱろうとした瞬間、逆に私は腕を掴まれ走り出していた。驚いた。まったく驚きの反射・判断・スピード。男は周囲に「逃げろ!」とわめいた。
道を曲がり、瓦礫になった壁を越え、走り続けた。被害は裏のほうが酷いことが分かった。なんてことだ。サッカーをして遊んでいただろう子供たちの上に、瓦礫がのっていた。まだ助けられるかもしれない。私は男の腕を振り払い、駆け寄ろうとした。しかし突然体が宙に浮き、後ろから男に抱えあげられた。振り払おうともがいた途端、爆音が響いた。物が巨大な力で破壊される音。
一瞬だった。さっきとまったく同じ。だんだんと耳に音が戻ってきた。体が痛い。いや、それほど痛くない・・・。なぜ。体の感覚が戻ってきた。自分がさっきの男の腕の中にいることに気付いた。びっくりした。男の顔を見る。本当に、なんたる反射スピード。そう改めて思った。爆発がもう一度あるのを、本当は知っていたのではないかと疑いたくなる。しかし目の前の男の顔は痛みからか、苦しそうにゆがんでいた。
その男は中田と言った。昔サッカーで有名だった男だ。なぜこんな所にいるのだろうか。
彼は仲間に信頼されていた。彼の強さ、柔軟さ、そして人に対する接し方、すべてが魅力的だった。こんな風に生きられたなら、私も一人ではなかったかもしれない。彼にもっと早く会っていたら。そんな言葉が常に頭に浮かんできてしまうほど、尊敬できる人物だった。
MTVショップ裏の体育館が、いつもの会合場所だった。いつも数グループのリーダー?が集まり、情報を交換している。私はこの場に来ることで、すでに中田のグループの一員として扱われていた。それを、私にとっても中田のグループにとっても、危険ととるか、得ととるか、グループ内でも議論があった。が、どうやら中田は、何者ともつかない私を取り込むことを、よしとしたようだった。
常に中田の行動や意見を気にするというのは、自分がまるで支配されているかのようで気持ちが悪かった。しかし私の心は、その従順という甘やかな気持ちの心地好さから、どうしても離れられないでいる。私を見る目の強さ。私は何者なのか。それさえも答えてくれそうな錯覚に陥る。ところがそれは、自分の自信や経験を削っていくものだと分かっていたのか、その時の私には分からなかった。
中田から離れるという誘惑と恐怖は、だんだんと大きくなっていく。止めてくれるかも。いや、もしくは捨てられるかも。・・・くだらない妄想へと人は転がり落ちていくのはたやすいと、初めて知った。
メンバーの飲み会の席で、セキに聞かれた。
「なんで自分の事をあんましゃべらないんだ。信用落ちるぜ?」
その質問は、あまりされたくないものだった。その時、嫌な視線を感じた。ゆっくりと辺りに目をやると、私と目が一瞬合った男が目をそらしてあわてて席を立ちあがった。人をかきわけて左の部屋の奥の方から店を出ていこうとしている。
「その方がミステリアスで、魅力ボルテージが上がるでしょ?」
私は笑いながらセキの質問に答え、立ちあがろうとした。そこで中田に肩に手を置かれ引きとめられた。私は振り向いて中田の目を見た。中田は私を見ずに私の視線の先を見ていた。私は彼を行かせたくなかった。立ちあがろうとした彼の膝を強引にぐいっと押し下げ、自分が立ちあがった。中田は驚いたように私を見上げた。
「ちょっとトイレ」
私はそう言って、中田の非難めいた視線を無視してその場を離れた。
私は、入り口のガラス越しに男が道路向かいの土手の階段を降りていくのを確認した。私はそこから外に出るのを止め、カウンターのウツギさんに頼んで裏から出してもらった。
裏口からすぐ壁のように土地がせりあがっている。そこに這うように生えるツタ科の植物をつかみ、登る。地上から4メートルも登る頃には、店の屋根向こうに流れる運河沿いの石の土手道に、影が2つ、店の方を伺っているのを見つけた。ふと近い所で物音がして緊張した。下を見ると中田が立っていた。まいった、今日はスカートをはいているのに・・・。ツタにしがみついている私の姿勢からいって、下からだとパンツが丸見えだ。あんまりだ。私は中田を無視した。中田は何かを小声で言った。私はそれを殊更に無視して偵察を続ける。すると、下からがさごそという音が聞こえ、中田はあっという間に近くまで登ってきた。
「なんで俺の言う事が聞けないんだ」
「・・・パンツ見たでしょ」
中田は無言になった。私は土手の方を指さした。すると中田が言った。
「見てない」
「見えない?ちょうど店の右斜め前の所だけど」
「見える」
「ひとつ言っておくけど、そろそろやばいわよ」
「いや、俺にはすぐ行動するようには思えないがね」
「そう、私はすぐ行動するとするわ、じゃね」
「おい?」
私はなるべく音を立てないように手早くツタから這い降り、地上についた。その直後、バササーという音とともに私の上に草が覆い被さり、背中をどかっと突き飛ばされた。私は前のめりになり、地面に顔をこすりつけた。その横を中田は優雅に着地した。
「・・・すまん」
中田はそう言って、私を助けるわけでなく、ただ顔の横にひざまづいた。私はむかついた。
「・・・ぶっとばす」
「一言ほしかったな」
自分一人の身の安全を確保しようとしていたのは、ばれていた。しかし、あんなに近くに登ってきたら、当然ツタが人間二人の体重を支え切れなくなるぐらいの発想は、思い付かないのだろうか。
私は、怒りといらだちと羞恥で、冷たい地面から顔を離せなかった。
「それと、俺は見てない。この暗闇で見える程、目は良くない」
「じゃあ何のために登ってきたのよ!?」
私は叫びながら両手をつっぱってがばっと頭を起した。中田がそれに対してしゃべろうとした瞬間、更に嫌みに切り捨ててやる。
「夜目がきかない偵察なんて聞いた事ない」
「いや、パンツの方だ」
「は!?何?やっぱり見たの?」
「だから・・・なぜお前と話すと微妙に食い違うんだ」
「考えてる事を、半歩私に譲らないからよ。大体見てないって言う?倒れてる女の前で!子供ね」
「聞いただろ?」
「見たがなんだぐらい言ってよ、フェミニスト!扱いづらいわね。さっさと助け起しなさいよ~!!」
私はダンと両手の拳を地面に叩きつけた。
中田は溜息をついたのちに、私の脇を両手で掴み、スッと持ち上げた。私の目の前に、中田の顔が、店からの僅かな光でも確認できるほど近くにあった。これは、キスする距離。私の心臓は跳ねあがった。
「あ・・・・・・お、降ろしてよ」
私の足は浮いていた。
「あぁごめん」
気付かれただろうか。私の体温上昇に。暗闇で良かった。
どうして何も話さないんだ、と中田に聞かれた。どうして?それは、このチームの人間達に、繰り返し何度も私に投げ掛けられた台詞だった。その度に私は答えを窮した。いつもその場を取り繕ってから、一人で自分に問い掛けた。なぜ話さない?さびしいから。キスしたいから。決断を放棄したいから。次々とよぎる自分を弱くする言葉・・・。
周囲の視線が痛かった。みつめるだけしか私にはできない。これは、やはりまずいのではないだろうか・・・。何かを言わなければならなかった。私は自分の中に言葉を探した。
ここにいる彼らは、一人一人なにかしらの過去と事情を持ってここにいた。けれども、私には何も語るものはなかった。特別な過去も、暖かい記憶も、つらい経験も、私の中にはなかった。私の中にあるのは、緩んだ幸せと、挑戦への喜びと、何にも縛られず何も背負わない自由と孤独だけだった。彼らが求めているようなものを話す事は、できそうになかった。
私は中田を見た。全てを話したとき、果たしてまだこの男は私を見ていてくれるだろうか。・・・とてもそうは思えなかった。縛られていない私を、羨ましがると思う?いや、それはあまりにも自分の事しか考えていない。恐らく、軽蔑の思いのほうが強いだろう。私は軽蔑されるのがとても恐かった。結局、それにつきるのだと、こんな風につるしあげのような状況になるまで、私は気付かなかった。
私は、ゆっくりと私を囲む中田の仲間たちを見た。みんな思い思いの格好でこっちを見ている。私を中田がどうするつもりなのか、決定を待っているのだ。彼はこいつらの頂点なのだと、改めて思った。そして、その一部に私もなろうとしていたのだ。私の理性が、一瞬、拒絶反応を示した。組み込まれることの嫌悪感と、恐怖。
私は自分の手の平を見た。私には肉体がある。肉体の欲望は目の前の人間を求めていた。感情も叫んでいた。やめて、何も言うな、本当に言いたい事はそんな言葉ではないはず!心の痛みが悲鳴に変わる。ここから出ようと、私はつぶやいていた。
「私は、おそらく・・・いや、確かにここには不必要な人間だから、私は歩みを止めず、先に進もうと思う」
「何を言ってるんだ?」
「やっぱりこいつは裏切り者らしいな、中田」
サブリーダーのその言葉に辺りがざわついた。
「セキ!お前まで何を言ってる。お前もお前だ、逃げるな!」
その言葉はとても痛かった。逃げるなという言葉は、一番言われたくない、そして、とても図星な言葉だった。涙が出そうになり、顔を背けた。
「いいかげんにしろ。居心地が悪いなら別に出ていってもいい。でも、ぶつかる事も、拒絶される事も、理解されようと自分が努力しない限り、ここ以外でもありうるんだ。それが分かっていてここを出るなら、お前はどんどん落ちていくぞ」
「いいや、私は落ちない。なぜならずっと一人だからだ。私を支える人間は誰もいない。私が支えることができる人間もいない。私の昔をどんなに話そうと、それは私を理解した事にはならない。どんなに言葉で説明をしても、私自身が一人でいることを理解できる人間はいない。それは、今までも、これからもずっとそうだ」
「今までその努力をした事があるっていうのか」
「それは努力をするものではない。中田は分かっていると思っていた。出会った時、お前は何を感じた?私はあの時、同じ時間と感覚を持つものに初めて出会った。だから何も言わず今まで一緒にいた。けれども、どうやら私の勘違いだったらしい」
「・・・いいや、勘違いじゃない。あの瞬間の・・・あのフィーリングは、誰とも共有できないものだ・・・」
言い淀む中田を私はにらみ付けた。
「あれは説明できるものじゃない。私はずっと、・・・一人であの中にいる。もし、中田もそうならば、私は言葉というものがなくても・・・・」
突然、自分の感情が制御できなくなって、頬に涙が伝った。私を見ていた中田は、動揺したように私を見ていた。私自身も動揺していた。今は泣く場面じゃない。なのに、なぜ私は泣いているんだろう。ああ、難解な私の感情が、まるで台風のように全ての私の感情を巻き込んでいく。まずい。どうすればいいのか分からない。あまりにも久しぶりの自分の感情の暴風雨に、私はどうたちうちすればいいのかすっかり忘れていて、私の目からは、とめどもなく涙がこぼれていく。
「なに、泣いてるんだ」
私は自分にそうつぶやいた。
「・・・それは俺の言葉だ」
中田の言葉に私はふっと笑った。
「まったくだ」
私はようやく気付いた。中田と一瞬でもシンクロしたと思った瞬間を、中田本人に否定されたと感じた事がすごく悲しかったとともに、セキ達に裏切り者扱いされたのも、私には大きなショックだったんだ。
私は、信用という言葉を信じていない反面、強く求めていたんだ。それを自覚した途端、さらなる涙がぼろぼろと出てきて、喉の奥で声が、おいおいと泣きたがっていた。私は必死にその声を押し殺し、歯を食いしばり、耐えた。これ以上、一言も私はしゃべれない。今、口を開いたら、きっと叫びまくって、更に自分を失ってしまうだろう。まわりのみんなが見ているのは分かっている。中田もセキも戸惑ったように私を見ている。恐らく、何も言わずただつったって泣いている私が、不気味なのだろう。私が何かアクションを起こさなくてはいけないのは分かっている。けれどもあと2~3分は動けそうになかった。私は中田を見た。彼も私を見ていた。
中田はジーンズのポケットに両手をつっこみ、ゆっくりと、私の側に近寄った。
「・・・不思議だな、なぜそんな状態でもそんなに冷静なんだ」
中田が言った。違うと言いたかった。けれどまだ私の喉の奥からおえつが出てしまいそうで、言えなかった。
「嘘だよ。泣き止むまで、待つよ」
彼は私にだけ聞こえるように、小さくつぶやいた。彼の目は優しく私を見ていた。
私は、彼の特別なものにはなれないかもしれない。けれど、やっぱり彼とはシンクロしていたのだと、改めて思った。私は嬉しくて、また泣いていた。中田はそれにも気付いたらしく、困ったように私を見ていた。
しばらくして私は大きく肺に息を吸い込み、大きなあくびをした。
「・・・疲れた」
私の身体は久々の涙で泣き疲れたらしく、ようやく涙が止まった。
「あきれたな。子供か」
「そうだったらしい。改めて、弁明する場を乞うよ」
「セキ、来いよ」
中田は振り向いてセキに手招きした。セキは恐る恐るといった感じで近寄ってきた。そうか、セキって女の涙に弱いんだ、と思った。大丈夫か、とセキは私に聞いてきた。私はふと笑った。セキはむっとしたような顔をした。
「セキはいい奴だ」
「なめてんのかお前。とりあえず涙をぬぐえよ」
「ああ忘れていた。涙が出ると拭っていたな、そういえば」
「お前、アホだろう」
「そんな事も知らずにいたのか?私自身もだけどな」
「それで、・・・お前が動いていたのは何のためか、話してくれるか。事実だけでいいから」
中田は、自分以外の人間にも分かるように話せ、と言った。
「その前に一言ある。誤解を招く様な行動を取った私が不注意だった。それは謝る。私はここが好きだ。そして、この地で出会った友人を裏切るつもりもない。これは、言葉で言わなければ伝わらない物事のようだから、言いたかった。この問題は私がいるから始まった。私は自分がいなくなればこの問題は解決すると思った。でも、私は、セキ達を甘く見ていた。何も行動を起こさない訳なかったんだ。・・・まず、セキが見た3人のうちの1人はたぶん私だ」
セキの顔が険しくなった。
「2人のうちの1人は私の友人だ。そして、最後の1人は、ある過激派のリーダーだ」
私の言葉に周りが騒然となった。中田が重たい声で聞いてきた。
「内部交渉しようとしたのか?」
「違う、孤児施設のビックリパーティの打ちあわせをしていた」
「は!?」
でかい声でセキが言った。
「私がボランティアに行っている所で知り合った女の子の彼氏の兄貴が、過激派だった。それだけだ」
「それだけ、で済む問題じゃないだろ!誰なんだ一体」
セキは詰め寄った。
「それは言えないし言うつもりもない」
「自分の立場が悪くなってもかよ?」
私はこれ以上答えられなかった。私が話す事で、色々な人間の立場が危うくなる。私はその不確定要素を読み切れない。だから黙秘するしかなかった。中田は私の目を見て、真偽のほどを図っていた。私を問い詰めるセキを止めもせずに、じっと考え込んでいる。そしてひとつ合点がいったようにぽつりと呟いた。
「・・・そういう事か。じゃあ、ナミから身を隠したのも、金を集めていたのも」
「そうだ」
中田は溜息とともに首を横に振った。セキは納得がいかないという顔をしている。
「問題あるだろ!?過激派のリーダーと行動していたってのは」
「あぁ。だが共謀は勘違いだったようだな、セキ」
「あいつは私が中田のチームにいる事を知らない。けれど、彼女の方は知っている」
「好都合だ。だが素性をいつ知られるとも分からない。潰すなら今だぜ、中田」
「潰すとか潰さないとかの問題じゃない、私は・・」
「それは俺の台詞だ。お前が言うから、かどが立つんだ」
「どういう意味だ中田」
「俺はそんな事まで言わなきゃいけないのか・・・」
中田のもうしゃべるなという威圧に、私は押し黙った。
「問題はお前の身の安全だ」
そんな事はどうでもよかった。にらむ中田の視線を振りきって私は言った。
「優先すべきはこのチームの安全だ。だから私は離れる。私はたぶん探られたらうまく切り返せないだろう。私自身に政治的能力が欠けているのはよく分かっている。ひっかけられたらひっかかる」
「そんなに自身満々に言う奴があるかよ」
セキがあきれたように言った。
「離れるのはダメだ。お前自身が利用されているかどうか判断しようがないなら、近くに人間を置かないのは余計にまずい」
「私は私の心配だけすればいい。単純で、かつチームに迷惑をかけない」
「それが問題なんだ。危険の為に枝葉を切り捨てるのを肯定するつもりはない」
「じゃあ、あの過激派グループと対立するのを止めるとでも?」
「・・・・それは、ありえない」
周りの数人から安堵とも取れるため息が漏れた。
「ひとつだけ心配なのは、あの孤児院が利用されないかって事だ」
「まさか!?」
驚いた私にセキが意地悪く畳み掛けた。
「可能性がないと?弟が兄と同じ道を歩むのはよくある事だ。ナミは、友情と愛情、どっちを選ぶかな」
私はとっさに何も言えなかった。ナミと遊ぶサリーやセジム達の顔が浮かんだ。
「私はナミ達を信じるだけだ」
「ナミも騙されていたら?」
「そして私も、と言いたいのかセキ。人間は信じる事でしか友情は結べないんだ。私は信じる」
「信じて裏切られて死んで、何が残る」
「信じる事もできなくなったら、私は人間でいるつもりはない。太古の海に還り魚にでもなってただ自分を生かす事だけを考える生物に退化していくだけだ」
答えは出ないまま、会合は解散し、
中田とセキだけが残った。
「自分の命を犠牲にして、みんなの幸せを得るなんて、可能?」
「それは、自己欺瞞だよ。単なる自己満足。自分の命だけじゃない、たくさんの人の命も犠牲にしたんだ。自分の幸せの為に。それが否定できるか?」
「戦うのを止めたかった。これ以上の死者を出したくなかった」
「そりゃ、矛盾してるな。自爆テロは、戦いの種を更に産み落とし、そしてより多くの死者を出す。それは、何も考えない罰だ。逃げているだけだ。やり直したいなら、今やらなければ」
「戦争しか知らない。やり直す方法なんて、大人も知らない」
「子供は知っている。ただ、遊べばいいんだよ。みんなと」
「あそぶ・・・?」
「それを考えるのが、子供の仕事だ」
草原を、歩く姿も険しくザクザクと歩き続ける。
後ろから追ってくる中田。
「行くな!」
「うるさい!私は!私は!誰でもいいからキスがしたいだけなんだ!ほっといてよ!」
「そーか」
中田は受けとめた拳を放り投げ、右手で私の腰を引きよせ、キスをした。長い長い溺れるような、嵐のように野蛮なキスをされた。血が逆流し、全部の感覚野が彼と繋がっているその一点に集中し、体から力が抜けていった。ようやく唇が離れた時には、舌はしびれて、供給されない酸素の為に息があがっていた。いつのまにか、私は地面に倒れていて、中田に覆い被されていた。
「・・・何、泣いてんだ。誰でもいいって言ったじゃないか。嫌だったんなら、死ぬ気で抵抗しろ」
私の涙は止まらなかった。私は、中田が自分を好きとか嫌いとかではなく、私が誰でもいいと言ったからキスをしたのだという事が、すごくショックだった。
自分の涙ほど不可解なものはない。ただ、頭の奥と舌がしびれたままで、何も考えられなかった。そして、すぐ傍にある中田の瞳の奥の光から、私は目を離せなかった。
「泣くな・・・。シンクロというのは、他人の気持ちを読めるというものではないみたいだな」
「どいて」
私は中田の下から身体を引き出して、脚が震えているのに気付かれないよう立ち上がった。キスしたという事が恥ずかしくて、顔が赤くなってきた。私はすぐに彼に背を向けた。拳を頬にあてるとすっごく熱かった。
「あんな所に行くな」
「ほっといて」
中田は私の肩を掴んで振り向かせた。私が顔が赤いのを見て驚いた。
「離せ!」
手を振り払った。
「・・・ヒステリー起こしたり、泣いたり、赤くなったり。お前いま生理だろ」
「うるさい、このハレンチ男!」
叫んで、平手で思いきり中田の頬を張った。バチーンとすごい音がして、中田は数歩後ずさった。あまりにもジャストミートで入った事に、私も驚いた。避けると思ったからだ。自分の手がヒリヒリしている。大丈夫かと声をかけたかったが、それもしゃくに触るし、何も言えなくなって、頬に手を当て横を向いたままの中田を見ているのも気まずくなり、下を向いた。すると、突然中田が笑いだした。
「まったく手加減のできない女だな。でもようやくいつものお前に戻ったな」
私は顔をあげた。中田は優しい目で私を見ていた。しかしその顔の頬は赤く腫れあがっていた。
「ごめん」
「いいよ、悪かった。嫌だったんだろ。でも、あそこには行くな。あまりにも悲惨すぎるし、あれは買う人間がいるから成りたつ商売なんだ。だから買ってはだめだ」
「行くって約束したんだ」
「おい」
「約束したんだ。それに私は、・・・買っている事に変わりはないかもしれないが、文字を教えているんだ」
「・・・知らなかった」
「彼らはあそこから出られないんだ。あの中しかしらない子供が外で生きて行くには、知識が必要なんだ。あの子を買い出すほどお金もないし、私にできる事をするしかないんだ。買うって事は、あの最低なオーナーを肥え太らす事になるって分かってる、でもこの方法しか思いつかない。彼らを救い出しても、面倒を見切れるほど私は力を持っていないんだ・・・」
「・・・分かった。俺も行ってもいいか?」
「え?」
「実際に見てみたいんだ」
「・・・分かった」
売春小屋。
「ま~た来たのかい?好きだね~いつもの子達だね。お、友達も一緒?やらしいね」
それに私は切れかかった。しかし、あとでやつあたりされるのはあの子達だって事は分かっているから、我慢した。
奥からミルヒが嬉しそうな顔をして出て来た。そして私の後ろにいた中田にびくっとして顔をこわばらせて立ちどまった。
「元気?部屋に行ってから話そう?」
幾枚ものカーテンをかき分けて廊下を進み、一番奥の部屋にたどり着いた。中には3人がいた。嬉しそうに私に駆け寄ろうとした途端、後ろから入って来た中田に気付いてびくっとして、ミルヒと同じような緊張した顔で壁際に下がっていった。
「私の友人だ」
私は恐がらせない様に優しく言った。しかし、ミルヒは青ざめた顔で、私に膝まずいた。私はとまどった。
「どうしたの?何かあった?」
ミルヒの傍に私もひざまずいた。ミルヒの方がやや目線が高い。彼の方が私より背が高く、ひょろりとして痩せていた。他の子供達も一様に痩せていて、ミルヒを筆頭にみんな肌が白かった。私は彼が何も言わない事に不安になり、頬に触れ、彼の目を除き込んだ。とたん、ミルヒにキスをされた。私は驚いて肩を押し返したが、まだ強引に唇を押し当てて来る。私はちくっと痛みを感じて、ミルヒを突き飛ばした。後ろにいた子供達はきゃあっと悲鳴をあげた。
「ごめん!でも、ミルヒ、なんで?」
私の口から血が流れた。中田も驚いて私のあごを掴んで口を開けさせた。中田はミルヒをにらみつけた。ミルヒは冷たい感情のない目で私を見ながら言った。
「・・・彼と寝るの?」
「え?」
「それを見てあなたは楽しむの?それとも一緒に?」
「何、言ってるの?」
「いいよ、僕は馴れてる。でもあの子達にはやらせないで、お願い」
私はショックを受けた。あまりの事に私の体は震えていた。私は目が痛くなり涙が視界を遮った。巨大な悲しみが私を覆った。
「そんな事、絶対しない!わたし、ぜったいしない!」
私の剣幕にミルヒは驚いた目をして、それから自分の勘違いだった事に気付き、ひどく戸惑いながら、小さくごめんなさいとつぶやいた。後ろにいた子供達も恐々と近寄ってきて、ミルヒの周りに集まり、ごめんなさいと言った。その中の一人のチコが言った。
「前にもあったの。ひどかったの。二人で来たから、そうだと思ったの。ごめんなさい・・・」
最後は消え入るような声になった。
「俺が君達を恐がらせてしまったんだね、ごめん。君達は悪くない」
中田が彼らを見回して言った。私はひざまずいて下を向いたままのミルヒに近づき、頭を抱いた。
「ばかもん。ばかもん!今日はいっぱい宿題を出してやる。絶対にできるまで許さないから」
「うん。ごめん」
私は自分の鞄からノートを取り出し授業を始めた。3時間程して、外から時間ですよというむかつく声があり、終わらせるしかなかった。
ノートを残していきたいのだが、取りあげられる可能性が高く、いつも一枚の紙だけ彼らの元に置いていく習慣になっていた。ミルヒがそれを受け取ったとき、ふいに私にキスをした。私は赤くなり、目の前のミルヒの顔からすぐに離れた。
「何もあげられないから」
「そんなのいいよ」
「あのさ、もしかしてファーストキスじゃないよね?」
「何言ってんの子供が!」
「だって顔真っ赤。かわいい」
「宿題として、今日のを空で言えるようにしておく事!」
「え!・・・分かったよ、けど浮気しないでよね」
「誰とよ」
ミルヒは中田をにらんだ。私は気付かぬふりをして、他の子達とも別れの抱擁をして部屋を出た。本物の玄関口ではない裏口から私たちは出た。しばらく裏道を進み、大通りに出ようと角を曲がった時、中田が私に聞いた。
「まさか、俺のがファーストキスじゃないよな」
私は怒りと恥ずかしさで耳まで赤くなった。
「あそこまで行って感想がそれかよ!」
「そうなのか?」
「ち、違う・・・」
「・・・」
「なんだよ!いい加減にしとけよ」
「悪かった。あんたはいい男に片足つっこんでるよ、ちゃんとね」