黒百合の刺客















 エーリはバスタオルで体を拭き、新しい服に着替えた。



「何の研究をしているんだ?」



「別に大した研究じゃ無いのよ?」



それでも窺うようにマサキはするどく見つめていた。エーリは溜息をついた。



「植物の研究よ。太古の巨木を復活させたいの。植物の成長因子を探って、原種のDNAを見つけたい。・・・何その目は、私が嘘をついているとでも?」



「悪いが、その程度の研究が狙われるとは思えない」



「そうね」



 エーリは微笑んだ。



「これは、すっごく時間がかかるのよ。なぜ植物の単体の命の幅が数週間から何千年とこんなに広いのか、不思議に思った事無い?草が木に進化したのなら、その原種の草はどんなのかしら?千年を越える木を作り出した種子は、どんな構造をしているのかしら?木が長命になるのは環境に因るものが大きいけれど、それでもどんなに良い環境下でも、二千年を超える木には出会った事が無い。それはなぜ?地球の気象変動のせい?有力なのは、木自身の体がもたないって説ね。でもそれだけかしら?・・・実は、日本の巨木信仰の源となったらしき巨木の跡が神社の地下から見つかったの。見た事も無いほどの太さだった。そこに描かれた伝承には、驚くほどの成長力を神木は示したと書いてあったの。ありえない程の速さ。それが信じるに足る記述かどうか論争も起きたほどよ。けれどもあまりにも克明に残されている記録に、みんなも段々信じるしかなくなっていったの。この神木は突然変異だったのかしら?それとも、人が神がかりなパワーで成長させた?それにね、この時代にはそんな木がもっとあったと言うの。二千年前にはあった、それなのに今にはない、それはなぜ?月に住む時代にこれだけ探してもないという事は、やはりその巨木種そのものが滅んだと考えるべきなのかしら?だとしたらその原因は?全滅するだけの環境変化があれば人間の歴史に残らないわけないと思わない?一番ありきたりな意見としては、歴史に刻まれていない太古の人が全部切り倒しちゃった、ていう説」



「馬鹿々々しい。もちろん世界レベルの話でなくこの国のみの話としてもだ。まあ過去の失われた文明において今ほどの科学力が存在していたとしたらできたかもしれないが、それだけ知識レベルが発達してればいくら愚かしい人間といえども植物という種がどれほど己に利を与える種であるかぐらいは思いつく。巨木を伐採し尽くす理由が無い」



「後は、昔の木の方が今より寿命が長かったかもしれないって説」



「寿命?人の場合ならまだしも木のそれを論ずるのは乱暴じゃないか?」



「そうかもね、人と木の老化の意味の違いもあるでしょうし」



「そもそもその昔ってのはいつ頃を指すんだ。そして今とはいつだ。ひとの寿命の長さが変遷していたのは単に人間が弱かったからだろ。科学文明の発達の為に生きる環境を悪化させ、自らそれに耐えきれず寿命を短くさせたという歴史がある。が、結局はそれさえも医療技術や環境浄化技術の進歩によって克服し寿命は伸びつつある。それもたかだかここ五~六百年の事にすぎない。木という種が寿命を短くしているのではという論も、その間の人間の影響など、原始の地球から培った木の進化と比べるとあまりにも些細な出来事に感じる」



「失われた歴史も含めた過去の文明の中で悪化させた環境を克服できたのが私たちだけだったとしたら?ただ人間の記録に残ってないだけで、木は常に何千年も公害に晒され続けた事になる。それでも些細と呼べる?人間が悪化したと感じる基準値は結局その悪化する五~六百年前の時点のものに過ぎないのよ?」



「過去とはいつだ?二千年前にはまだ巨木があったと言ったのは君だ」



「もしかしたらそれが巨木の最後の息吹だったのかも」



「滅びの最後の生命か?」



「人の寿命には変化するだけの理由がある。ならば木にもありはしない?」



「生物には越えられない生命の壁がある。それが体の老化だ。人間という種が今だ生物上固定されておらず、進化し続けていたとしても、寿命の伸びなど微々たるものだろう。老化は克服できない。人間の構造自体が老化を含み設計されているのだから、その限界を超えれば誰しもがいずれは朽ちる。それに比べて木は栄養を摂取できなくなったり虫に食われたりといった外的因子がない限り成長し続けるものだと思っていたが?」



「過去何億年においてもこれほどのスピードで環境を変化させる外的原因を作り出している存在は隕石以外人間しかいないでしょう恐らく。地球の歴史において人間の歴史など一瞬の事なのだとしても、原始の猿人から数えてもすでに三千年近くの時間が経っている。弱肉強食の世界において、適応できない種は滅亡を意味する。植物という種がその間適応しようと自らを作り変えていないはずがない。木に比べ動物の寿命は短い。けれどその分、環境への適応は速い。個体の死を乗り越えるほどDNAは変化し、種は適応種へと進化する。ならば寿命の長い木の場合は?木そのものが進化する過程で単体の自分の体内でDNAを変化させ環境に適応させ生命を長くしているのか、それとも、原種に近いもの程長命因子があるのか、それを知りたいの。・・・人は寿命を伸ばしつつあるけど、植物ほど長くは生きられない」



「長命研究・・・なるほどね。植物から不老不死の技を見つけようとしていたのか、怖れいったよ」



 エーリは悲しげな顔をした。



「そう考える人がほとんど。本当に人間に応用できると思ってるのかしら?笑っちゃうと思わない?」



「君が研究しているのなら、そうは思わない」



「クローンが作れるような世の中なのよ?不老不死の秘術を見つけるのに植物はお門違いでしょ?」



「人間のDNAをいじるだけなのはもう限界がきている。それにクローンは心の継承が無い。結局、個人としての人は、死の恐怖からは逃れられてはいないのさ」



「・・・魂の継承」



 その意味ありげな言葉にマサキはぴくっと反応した。けれどエーリは別段変わった素振りも無く、やや俯き気味にコップを見ていた。しかし彼女の表情は信用におけない。無意識に彼女が表面に見えるうちでコントロールできていない部位を、つい探してしまう。微妙な瞳孔の動きすら探りたくなる。考え過ぎ?・・・エイリンがそこまで知っている訳無い。



 それは、黒百合の血脈の秘密。DNA操作された者が常に真先となる、という事。俺自身が背負うもの、全て。



「・・・聞いてもいいか?」



「何?」



「その事を探る事で君が得る見返りは、何?」



「・・・好奇心の充足、かしら?」



「それだけ?」



「ええ。私、奨学金もらってここにいるから、研究で儲かってもビタ一文懐には入ってこないのよねぇ。貧乏っていやね」



 エーリが肘をついた手に顎を乗せて溜息をついた。



「なら、うちで続きをやればいい」



 エーリはマサキを振り向いた。警戒している顔だ。



「別に他意はない。うちにくれば、僕はエイリンに毎日会えるから」



 エーリはにっこりと微笑んだが、その顔は、明らかに信用していないという顔だった。マサキは目を逸らした。他意って何だ?とマサキは自分に問いかける。エーリは黙っている。



「・・・・都合が良すぎるね」



「まーくんはあいかわらずバカねぇ」



 エーリは笑った。



「バカはないだろ・・・」



「でも昔はそんなところも好きだった」



 マサキはエーリの顔を見た。そこには冷たく凍った顔をした、知らない女が居た。



「あの頃は、いつも、まーくんのように先の事とかも考え無しに、気持ちを声に出す事ができず苦しかった」



 そう言ってから、ふっと表情を緩め、再びもとの余裕のあるエーリの顔に戻った。



「まーくん、私ね、死にたくないの。好奇心なんてものは、自分の生命が安全で、生活が平和な時にしか生まれない物なの。私の言ってる事分かる?」



 その言葉にマサキの心が冷えていくのを感じた。彼女はすでにエイリンではなく、白百合の一本へと変わってしまっていた。自分の不用意な言葉が、彼女の気持ちを、再び自分から遠ざけてしまった。



 エーリが椅子から立ち上がった。マサキは反射的に顔をあげ、構えた。その気配にエーリは、くすりと笑った。



「別に何もしない。それにどこにも行かない。ここが私の家よ。それに気を使うのもやめて、こっちが疲れる。私たちが離れていた時はとても長いもの。以前とまったく同じように接しようとする方が無理があるわ」



「・・・」



「私はあなたが羨ましい。今も、昔も。昔は昔でまーくんのことすごいと思っていたけど、今、これだけ普通に昔のように振る舞えるのは、すごい事だと思う。私にはできない。私の人生がそれを許さない。」



「・・・ごめん」



「なぜ謝るの?何に謝るの?」



「謝罪の言葉を口にするのも、許してはもらえない?」



「私は別に謝罪を受けるような人間でもないし、資格もない。謝罪すべきは私」



「なぜ?それこそおかしいよ。僕らは君達を刈った。そして今も花を刈り続けている」



「私はそれに手を貸してないけど、阻害してもいない。なぜなら、どちらも自分の命を危険に晒す行為だからよ」



 マサキはなんと言って良いのか分からなかった。

















黒百合の刺客




真先=マサキ=まーくん(小さい頃、鋭燐から呼ばれていた名称)

組織の先頭を切り開くものが持つ名称であり、代々引き継がれる。人名ではない。









 ある晴れた日、穏やかな森林公園。十二~三歳のマサキが外の公園道路を家族や縁者達の集団の先をいって、エイリン(鋭燐という字をマサキは知らない)の待つアパートから張り出したフラットへと駆け出す。入り口まで後もう少しというところで背後から悲鳴が聞こえた。振り返ると、50メートルほど離れた所で『おじいさま』が胸を赤く染めて倒れていた。







 エーリ(=鋭燐・黒百合に狙われてからエーリと名乗る)の仕事。素人フォトジャーナリスト。アマカメラマン。女版北斗の拳に主演する女性を一日一枚というペースで写真をとり、私生活をマークするという企画。







 エーリはマサキと同じ顔をしたロボットに出会う。それは黒百合から放たれた情報収集型ロボットだったが、論理回路は稚拙で、所有したもののみを守るという倫理機構はエーリにとって脅威だった。エーリはロボットをロボットと呼んだ。恐怖感を退け、理性を総動員して生き残れるかを考える。そしてエーリは自分の身を守るため、ロボットに収集される。







 エーリは第5地区の研修生用フラットに戻ってきた。学生として登録しており、およそ八畳の窓の無い部屋を確保している。室内には自分で開発した浄水精製シャワーシステムを設置し、できるだけ外で無防備にならないように工夫していた。



 エーリはロボットにこの部屋を見つけられてしまう。戦慄と、また抱かれるのかという嫌悪と諦感がエーリを包み込む。



 エーリはロボットにベッドに横たえられた時、「なぜお前は38回ものレイプ行為に何も抵抗しないのか?」と問われた。エーリは青ざめ、その質問の内容そのものより先に、収集物を放棄する場合はどう対処するのだろうかと考えた。恐怖のカーテンが落ちてくる。



 しかしそれを表情に出さないようにし、エーリはにっこり笑って言った。



「その答えは私の質問の答えと交換しましょう。収集した情報や物はどうなるの?もし消去する必要が出てきた場合のあなたの対処法は?」



「情報はマスターに100パーセント伝えられるまで保持する。消去するかどうかの判断を私は下さない。」



 エーリはほっとした。そして今ロボットが言った言葉を考え直した。



「100パーセント?」



「そう、お前との接触も、映像と触覚データで全てマサキに伝えられた」



 エーリは言葉を失った。完全に私の存在がばれた。それも映像付きで・・・。



「今度は私の質問に答えろ」



 エーリは震える手で上半身を起こした。



「いつ、あなたはマサキに会ったの?」



「昨日だ」



 エーリはロボットをゆっくりと押しのけベッドを降りた。すでにこの場所は知られた、エーリは覚悟した。外には何人黒百合の人間がいるのか。



「今度は私の質問に答えろ」



「・・・死にたくなかった。それに、あなたを壊したくなかった」



 それは本音でもあったが、あえてそれを彼の瞳を見ながら言ったのは、ロボットにあるかもしれない隠れた回路の情緒性に訴えようとしたものだった。しかし反応は冷たい。



 —やはり感情は持ってない、か。



「なぜだ」



「でも、もうお終いだ・・・」



 エーリの体を絶望という名の泥の服が包み込み始めた。



「なぜだ。私の質問に答えろ」



 なぜ、と問いかけ続けるロボットにエーリは言った。



「死は全ての終わりだからよ。もういいでしょ?でも死ぬ前にひとつだけ聞きたかった事があるの、この抗争のきっかけは何だったの?」



 その質問にロボットは戸惑ったようだった。きっかけは、マサキの祖父が暗殺された事による、とロボットは説明した。エーリは不可解だというように眉間に皺を寄せた。あれは何年も前の事だ。もう一度質問の仕方を変えて問い正したが答えは同じだった。エーリは納得がいかない。



「お前達の組織が我々に先に攻撃を始めた。黒百合は我慢できなくなった」



「それで、一掃ってわけ?・・・私たちは、単なる個人にすぎないのに」



 積もり積もった恨みが決壊したとでも言いたいのか、そんな事信じられない。黒百合はそんなに感情的な組織ではないはずだ。それとも自分の認識が間違っていたのだろうか。しかしそれにしても事件が起こったのは15年も前の事だ。他に考えられる事は、ロボットに真実は教えられておらずに情報操作を受けている可能性があるということ。でも彼は組織の下っ端ではなく情報を収集するのが任務のはず。そのロボットに間違った情報を流し込んで判断基準を鈍らせるような事をするだろうか。



「個人?・・・百合ではブランカが首謀者と見ている」



「首謀者?」



「違うのか?」



 ロボットは厳しく切り返してきた。エーリは当惑した。ロボットの黒百合の情報は信じていいのだろうか。でも、何か自分達の情報と相違があるのは確かのようだった。話せない言葉を心の中で呟く。ブランカは人じゃない。でも、組織でもない。ブランカは孤児院だった。でもそこでは身を守るには超え過ぎた技能を教え込まれた。施設を出て自立していく者は大抵みんな自分の能力を隠して生活する。けれど、今回の黒百合の襲撃でみんな思い出してしまった。自分の能力を。自分が普通ではない事を・・・。



「・・・ロボット、もういいよ。あなたはマスターからもらったデータが正義なんでしょ。それを信じてた方がいい」



「どういう意味だ?」



「事実は変わらない、けど真実は人によって変わるんだ。あなたの真実はマサキ。それは私の真実や正義じゃない。あなたの稚拙な倫理回路では頭がショートするからそれ以上悩むのはやめた方がいいわね。壊れたら、プログラム廃棄されちゃうかもよ」



「ありえない、俺はマサキの役に立っている。それに稚拙でもない、馬鹿にするな。さあ話すんだ」



「もう私は死ぬんだから、真実はひとつでいいよ」



 エーリはいつここに人が飛び込んでくるのかとドアを窺った。それともこのロボットに殺されるのだろうか。どう考えても生き延びられる可能性は限りなく低い。



「・・・死なせない、お前は俺の所有物だ」



 エーリは振り向いた。死なせない?それはどういう意味だ。突然彼が情緒的感情を発露させたとは到底思えなかった。所詮これはロボットだ。黒百合は情報より確実性を優先する。その為、敵は即殺すのが常だ。外に百合の刺客がいるとしたら死は免れ得ない。そしてロボット自体は黒百合の情報収集装置で、私を逃がすとは思えない。一瞬違和感を感じた。途端、それはするりと手の平から逃げていった。座りが悪い、今気付いたものは一体なんだった?『所有物扱い』の文句は散々聞かされた。嫌悪以外感じるものは何も無かったが、それ自体はいつもの台詞だ。



 エーリはロボットを見た。人間そのものに作られている。成長したマサキを見ていないが、小さい頃の面影があった。何か違和感を感じるとすれば、子供の頃あんなにも感情豊かだった彼の顔が、このロボットに表れてこないという事だった。しかしそれもロボットが私の前に初めて現れた時、すでにそうだった。



 エーリは思考の袋交路をリセットする事にした。無駄な思考時間は自らに死を引き寄せるだけだ。とりあえず意図を無視し事実だけを見るとすれば、ロボットが言う私が今日死なない可能性、それは・・・。エーリの理性はひとつの結論を導き出した。



「・・・あなた、一人で来たの?」



 ロボットは肯いた。エーリは彼の目から何かを読み取ろうとしたが、無理だった。いつもの無表情をロボットは貫いている。



「どうやってここへ?」



「芝工科大学の実験室爆発のテレビ中継を見た時、後ろの遠くの方でお前が映っていた」



 エーリは小さく舌打ちした。そんなに早く取材が来ていると思わなかった。野次馬に入り込んでいた自分の脳天気さに頭を抱えたい気分だった。



「じゃあ、死なせないってどういう意味?」



「情報をまだ渡していないのでマサキはまだここを知らない。消去の決定は下っていない。お前の全データを生体のまま保持する」



 エーリはまた違和感を感じた。それがなんなのか分からない。分からないという事に焦りが生まれる。自分の直感が危険信号を出しているのは確かだった。そして、今の彼の言葉から自分が導いた結論が裏付けられた。彼は単にいつものように情報を収集しに来たのだ。エーリはしかし、とまた思う。そんな単純な理由を自分は信じるのか?



「マサキとの次の接触はいつなの?」



「・・・・一月後だ」



 一ヶ月、その言葉にエーリは素速く頭の回路を回転させた。まだここを知られていない。けれどマサキは私の存在を知ったはず、なぜ動かない?泳がすつもりか、それとも情報スキャンに時間がかかるのか。いや、その前にロボットが本当の事を言っているとは限らない。しかし逃げるチャンスがいくらかできた事にエーリは興奮した。けれどまずは目の前の『これ』から逃げなければ。



 ロボットはエーリを観察していた。エーリが逃げる算段をしようと思案を巡らせているのが分かるのは、ぼーっとしているような気の抜けた動かない表情の中で僅ながら微動している瞳だった。表情のみだけで判断していたら裏をかかれる。次の行動が読めないエーリに彼は揺さぶりをかけた。



「抱かせろ」



 その一言にエーリの表情が戻ってきた。エーリはロボットの視線を捕らえる。彼から有無を言わせないようなプレッシャーを感じる。今までなかった事だ。殺気のような迫力を感じ、エーリは椅子から腰をやや浮かせた。初めて出会ったときとは違う恐怖感を肌が感じ取る。



 やはりマサキに何か指令を与えられているのだろうか。ロボットと話している間に感じていた違和感を改めて感じた。なぜ?何かが違う。五日前に会ったロボットを思い起こす。そしてここ数分で起こった会話を思い起こす。エーリはぴんときた。しかしそれは違和感を証明しただけでそれ以上のものではない。



 もしかして、彼はプログラムし直されたのではないのだろうか。けれどそんな簡単なものなのか?これだけ複雑な三次元多重層処理を行う高性能なマシンのプログラムを一日で修正できるとは到底思えない。彼の何が変わったのか、それは窺い知れない事だった。



 ロボットは椅子から立ち上がった。エーリは再び恐怖で鳥肌が立った。動向の読めない怪力を持つロボット相手に自分は狭い部屋に閉じ込められている。ロボットはゆっくりと机を回り込んでくる。エーリもそれに合わせてゆっくりと逃げるように回る。外への出口はロボットの後ろにある扉だけ。とにかく時間を稼がなければとエーリは思った。



「いつもと誘い方が違うのね、それに、いつから自分の事を『俺』と?プログラムしてもらった?」



 ロボットが一瞬動揺したようだった。予測通りだ。今までの経験だと、このロボットは自分の論理回路や常道から外れるものに敏感だった。その拙いといえる思考回路は、まるで質問ばかりして納得したがる子供そのものだった。その為にしばしば行動を停止させるのだ。しかし、この子供は答えの為に自分の腕力をふるって手に入れる癖があった。



「・・・私も俺も同義語であり、使用方法は間違っていない」



 ロボットは答えながらもなお姿勢正しい歩みで回り込んでくる。エーリは心の中で舌打ちした。これはすでに解決済みの問題らしい。では、とまたロボットに問いかけた。



「じゃあもうひとつ聞くけど、あなたは『マスター』を、『マサキ』と呼んだけど、なぜ?」



 案の定ロボットは歩みを止めた。ロボットは見つめてくる。エーリはドアを背にする所まで歩みを進めた。心臓が早打ちする。それを悟られないようにロボットに笑いかける。



「マサキはあなたの支配者からいったい何に格下げされたの?」



「・・・」



 ロボットはこちらに冷たい顔を向けたまま、完璧に動きを止めた。思考モードに入った証拠だった。今だ、とエーリはロボットにテーブルをひっくり返し振り返ってドアに跳びついた。鍵を外しノブを回す。そして外に転がり出ようとドアを開けた、と同時に肩を捕まれ後ろに薙ぎ倒された。エーリはとっさに両腕で頭を抱えた。床に打ちつけられ激しい痛みが体を打つ。それを我慢して体をばく転させ、立ち上がった。



 ロボットは、エーリを目で捕獲しながら、キィッという音とともに鉄の重い扉をばたんと閉めた。そしてがちゃり、と再び鍵は掛けられた。



 エーリは信じられなかった。こんなに早く動ける訳無い。ロボットはあの時点で思考を停止させていたはず。自分は表情や声帯、行動、言動、全てのセルフコントロールのテクニックを仕込まれていた。見破られるとは思ってもいなかった。それもロボットに。それともあの質問はタブーだったのだろうか?とりあえず、最悪の状況になったという事実だけが残った。



「どうやら、本気でプログラムし直されてたみたいね」



 嫌みにもならなかった。ロボットに感情があるはずがない。ロボットに感情を見るのは、基本的に人間側なのだ。



「抵抗は無駄だ」



 エーリはぎゅっと目をつぶり、ぱっと目を開けた。震えそうな体に気合を入れる。しかしそのせりあがってくる震えは止まりそうになかった。ロボットがゆっくりと近づいてくる。エーリは距離を保とうと後ずさる。ロボットの目はこちらの行動を見逃さないように睨んでいる。



 死なせないという言葉は、恐らく殺さないという程度のものでしかないだろう。何が目的かと問うまでもなく、自分が持つ仲間の情報が欲しいに決まっている。拷問、か。今思うと、自ら防音にしたこの部屋の作りを呪いたくなる。外部の者が誰でもいいから気付いてくれれば、いくらかでも逃げるチャンスができるというのに・・・。



 拷問で死ぬのは嫌だ。絶対に嫌だ。でも彼に勝てる要素が見い出せなかった。力では絶対に勝てない。エーリは後ずさる。キッチンにある包丁はどこだったか。痛覚の無いロボットにとって大した意味はないかもしれないし、もしかしたら固くて刺せないかもしれないが、目ならどうだろうか。少しは認識力を低下させる事になるかもしれない。それとも感電で死なないだろうか。精製水のシャワーをぶちまけてそれから電気コードを投げる。いや、そんな時間無いかもしれない。この部屋にほとんど有線コードのものはない・・・。



「全部無駄だ、諦めろ」



 まるで自分の考えを見透かすようなロボットの言葉に、エーリは体を硬直すさせた。近すぎる、この部屋は狭すぎる。ワンアクションをとる前に向こうはそれを阻めてしまう。けれど何か行動を起こさねば。



 エーリは、起死回生のチャンスに掛ける事にした。エーリは足を前に踏み込みロボットに一歩近づいた。ロボットはぱっと後ずさる。エーリはさらに踏み込みすばやく彼の懐に跳び込んで頭を両手で抱き込み自分の唇を彼の唇に押し当てた。自分には彼の論理回路を攻撃するしかもう方法がない、そう思ってした結果だった。これでいくらかでも行動が止まれば・・・。しかしそれは失敗だった。ロボットはエーリをすぐに抱き込みそのままベッドに押し倒した。



 完璧に捕まった・・・。エーリはロボットに体を乗り上げられ身動きがとれず、顔を青ざめさせた。ロボットが口内を犯す、初めてのそのロボットの行動に生理的拒否反応が起こった。嫌だ!エーリは無駄としりつつロボットの舌を噛んだ。ロボットはうっと呻き体を離した。痛覚が、ある!?エーリは驚き、口を押さえるロボットを見上げた。彼の口を押さえた左手から何かが滲み出ている。真上にあるロボットの顔は苦痛から顔を歪ませている。信じられない。彼が痛覚を持たない事は早い時期に確認した事だった。だからこそエーリは恐怖していたのだ。口だけ例外なんて有り得るんだろうか?



 ロボットの手からポトリと何かが垂れた。エーリは頬に落ちたそれを右手で掬い、見た。『赤』・・・い。ロボットの体内合成物質をわざわざ赤くしている?何のために。またポトリと落ちた。それはエーリの唇に落ちた。そして舌先にその液体が触れた。エーリはびくっと体を震わせ、自分の真上にある彼の顔をまじまじと見つめた。エーリの頭の中の疑問が一気に一つの答えに収束しようとしていた。しかしエーリの感情は自分のその考えを拒絶する。しかし、ひとつだけ揺るぎ無い事実、それは認めるしかなかった。エーリは震える声で呟いた。



「にん・・げん・・・」



 またポトリと『血』が落ちてきた。それは鉄の味がした。それは戦いの中で何度も自分が舐めたもので、間違えようがなかった。それは、人間の血の味だった。



 ロボットは左手をはずし、エーリの顔の横に置いた。口元は血で汚れていた。彼は苦笑し言った。



「まさか、こんな反撃をされるとは思っても見なかったよ」



 ロボットとは思えないその抑揚のある感情の入った男の声は、明らかに先程とは別人だった。男はロボットが一度も見せた事がない表情で優しく微笑んでいた。



 エーリは自分の予測不可能なこの事態にパニックを起こしかけていた。動悸が激しくなり、感情が思考を邪魔して理性的な答えを引き出せない。乱れる呼吸から必死に言葉を吐く。



「っあなた、誰?いったい、何者?」



「もう気付いてると思ったけど?」



 ロボットと同じ顔をしたその男は手の甲でエーリの頬を撫でた。



「・・・君が、キスをしてくれた時にね」



 男は白い歯を見せて明るく笑ってみせた。エーリは彼を見つめたまま首を小さく横に振った。



「どうやら、分かっていても君は認めたくないらしい。賢い君が、自分の結論を信じられないとはね・・・」



 彼はエーリにくちづけし、彼女の胸を撫で上げた。エーリは体をびくっとさせ驚愕に目を見開き叫んだ。



「止めてマサキ!」



「やっと、その名で呼んでくれたね」



 目の前の男は無邪気に笑った。



「・・・嘘だ、そんな、なんでここに」



「そんな簡単な事を俺に説明されたい?もっと別な事を聞いてくれると思ったけどな」



 確かにそうだった。マサキがここを知ったのは当然ロボットの情報を知ったからだ。実験の爆発も昨夜未明に起こったもので、速報ならば深夜に放送されているはずだった。昨日の早朝のうちにマサキがそれを知っていたとすれば、この近くまで来て張っていればすむことで、そして私は不用意にも普段と同じ行動をとっていた。言動の不自然さもこれで説明が付く。私の問いに騙されなかったのも、彼がロボットを演じていたからだ。人間にとって、嘘をつく事ほど簡単な事はない。今更気付いても遅い。彼が生身の体だと知っていたら、他にも逃げる方法はいくらでもあった。この態勢では逃げようが無い、首でも絞められればお終いだ。死にたくない。逃げるチャンスが欲しい!エーリは苦し紛れににっこりと微笑みながら虚勢をはる。



「演技賞ものね、まんまと騙された」



「ありがとう、と言っておくよ。で、君は何も聞かないのかい?」



 聞きたい事は山程あった。何から聞いていいのか分からないほどだ。とりあえず無難でありきたりな質問をエーリは選んだ。



「なぜここへ?」



「君を抱きに、ね」



 すぐそこにあるマサキの顔は本気だと言わんばかりだ。エーリはその答えをどう解すればいいのか分からなかった。『殺しに来た』というのが予想していた答えだった。



「そお・・・この態勢ではそれもあながち本気かもねって思ってしまう所だけど、前もって言っておく、私は何もしゃべらない」



「・・・別にいいよ、下の口にきくから」



とマサキは言って、エーリの太股を撫で上げた。



「やめろ!」



 エーリはマサキの背中を叩いた。その声にマサキはすぐに手の動きを止めた。マサキの行動が読めない。どうすればいい、どうすれば自分に運を引き寄せられる?エーリは考え続ける。



「君が下らない事ばかり言うもんだからさ。ついいじめたくなる」



「・・・私に、取り引きの余地が無いって言いたいんでしょ。でも私はしゃべらない」



「じゃあ、死ぬ?」



 マサキはまるでコーヒーでも飲むかと聞くような気軽さでそう言った。しかしその言葉で一瞬にしてエーリの頭は冷え、リセットされた。



「いいえ、私があなたを殺す」



 エーリはそう冷たく言い放つやいなやマサキの目に唾を吐きかけ、左足を振り上げ体を横転させて自分の体ごとマサキをベッドから転がり落とした。すばやく体を離してドアに向かって走った。しかしシュッという風の音を一瞬聞き、とっさに身を鉄のドアから引き離した。瞬間、そこに椅子が叩きつけられた。椅子はバウンドして跳ねかえり、飛んできたそれをエーリは両腕で防御した。ガランと椅子は床に転がる。腕の痛みに耐えて、エーリはすばやく振り返った。マサキはベッドの傍に目を拭いながら立っていた。



「ほんっとに対応が早いんだから、嫌になるよ」



 マサキは怒ったように眉間に皺を寄せ、苦笑した。



「よく分かったよ。今の君には逃げる事しか頭にないらしい。思考、言動、行動、全てがそれに制限されている」



「生存本能を否定される謂れはない」



「今は心配する必要がないって、口で言ってもどうせ分かんないんだろ?」



「今、というのはドアを出るまでを言ってるのか」



「・・・その条件の場合、君は俺を人質にでも?」



 読まれている。エーリは焦った。彼を盾にして出ていくのも難しいようだ。外は見えない、彼からも情報は何も引き出せない、やはり彼を殺すしか道が無いように思える。エーリは泣きたくなってきた。彼は幼い頃の唯一の友達だった。彼はある事件を境にして姿を消したが、消える直前まで彼はエーリの心の支えだったのだ。



「エイリン、いい加減にもう止めてくれ。正直に言うけど、俺は君と話しをしに来たんだ、・・・でも君は信じないだろ?」



 マサキはエーリを刺激しない様にゆっくりと下がり、椅子に座るから、と一言断り、流しの傍で倒れていた椅子を起こして座った。エーリは自分と彼の距離を顔も動かさずに目で測った。



 そんなエーリをマサキはじっと観察していた。彼女にとってこれはまだ安全圏ではないらしい。マサキはひっくり返っていたテーブルの足を掴んだ。エーリの警戒が強まる。マサキはそちらに目を向けないようにしながらできるだけ自然にテーブルを表に返し自分とエーリの間に置いて、再び椅子に座った。これで、彼女に有利な要因は更に増えた。エーリの表情が複雑に変わる。大して変化があるわけではないが、考えている事が波のように揺らいでいるのが手に取るように分かり、おかしかった。マサキはテーブルに片頬を付き、くすくすっと笑った。



「座れば?」



 マサキはエーリの足もとに転がっている椅子を指さした。エーリは一瞬それをちらっと見たがすぐに視線をマサキに戻した。そして微動だにしない。思ったより用心深い。マサキは溜息をついて、言った。



「外、心配なら見てくれば?俺はここで待ってるからさ」



 これは賭けだった。彼女があのドアから出て、再びこの部屋に戻る可能性は限りなく低かった。けれど彼女に信頼される方法は他に見当たらなかった。一瞬エーリは驚いたような顔をしてこっちを見た。けれど彼女は口をすぐにきゅっと引き結び、何も言わずにドアに飛びつき急いで出ていった。



「一言も、無しか・・・」



 当然か、とマサキはひとりごちた。そんな不用意に、敵にタイミングを図らせるような事を彼女がするはずない。チャンスがあれば利用する、当然だ。外の敵を想定していた彼女にとってとりあえず目の前の敵が一匹減るなら罠でもそうする、といったところか・・・。



 マサキは左の袖をまくり時計を見た。深い青の時計盤にシルバーに輝く針が動いていた。側面のボタンを押して針を消し、探査マップに切り替えた。青地に薄い水色の緯度経度のラインが交差して浮かび上がり、中心に白色のランプが点灯していた。そしてもう一つ、点滅しながら刻々と中心から離れていく黄色いランプがあった。マサキはその光の動きを見つめる。それはスピードを落とすことなく、まっすぐに遠ざかっていた。辺りを伺うような動きすらしていない。



 マサキはがっかりした顔をして、あ~あ、と言った。ぱたっとテーブルに倒れ込んで両腕に顔を埋める。



 ——ねえねえウサギそんなに急いでどこ行くの~♪とマサキは小さい頃歌い慣れた童謡を歌った。



 ♪~後ろにキツネはいませんよ~鉄砲だっていやしない~後ろに咲くは百合の花~あるのは奇麗な黒いユリと赤い草原青い空~白ユリちゃんの花を奇麗に咲かせましょう♪



 マサキは小さい頃のエイリンの顔を思い浮かべた。



「まーくんそのお唄ちょっと変よ、黒いユリなんてないもの。それに赤い草原もね」



「でもお祖父様にそう習ったんだけどな」



「でも見た事ないよ。それに兎の名前が白ユリちゃんなんて、やっぱり変わってる」



「兎は白いんだよきっと」



「じゃ、白ちゃんとか白雪ちゃんとかでもいいと思わない?」



「う~ん。でもそう習ったし」



「このお唄ってちょっと怖いよ、最後は黒い穴に落ちちゃうし」



「穴は兎のおうちだもの、全然怖く無いよ」



「じゃあ白ユリちゃんはママとパパの所に帰れたのね?」



「うん、きっとそうだよ!」



 —あいつは、一体どういうつもりでこの歌を俺に教えたのだろう。どの面さげてあんな歌詞を考えたのか。それを子供に歌わせ、何を考えていた?



 三番まで歌い終わった頃、もう一度恐る恐る左腕のマップを見た。黄色のランプはすでに圏外を示していた。マサキはその圏外の文字をじっと見つめ、それからがっくりと首を落とした。



 分かっていた。全部予測できていた。エイリンは絶対にそうするだろうって、俺にはよく分かっていたんだ。それでも、無意識にもう一度、あ~あ、と言ってしまった。やっぱり、という言葉を使いたくなかった。



 マサキは自分が随分と落ち込んでいるのが分かった。でも浮上できない。しばらくここから動けそうになかった。たぶん、当分は浮上できないだろう。頭を抱える。う~と唸ってみる。自分の作戦は間違ってなかった、彼女は部屋に俺を入れた。けれど・・・・。



  マサキは右耳のひだに隠すように張ってあった細いマガ玉型の肌色の物を外してテーブルに放り投げた。それはカランという固い音をさせ転がった。それはマサキの顔をしたロボットM=㈼の言語コンピュータを搭載したイヤー型ミニコンピュータだった。



「くそったれっ・・・」



 イヤコンを睨みつける。全然役に立たなかった。ロボットが嘘をつけないのを忘れていたなんて、大馬鹿もいいとこだ。



 エイリンはM=㈼の言動パターンを読んでいた。完全に欺ける自信が無かった。マサキはロボットのトークパターンは真似するのは無理だろうと踏み、イヤコンのシミュレーター通りにしゃべっていたのだ。けれどデータが自分に渡ったことをそのまま話してしまうわ、自分の事をマスターと呼び忘れるわ、最悪だった。まあマサキと言ってしまったのは純粋に自分の言い間違いだけれども・・・。おかげで不信がられた末に、逃げられた。



 小さい頃、俺は彼女の親友であり騎士だった。感動的な再会とまではいかないまでも、例え十五年という歳月が流れていたとしても、もっと信頼されていると思っていた・・・。マサキは自分の考えを否定するように頭を横に振った。黒百合は何度も彼女を追い詰め、殺そうとした。彼女が逃げようとするのを非難する事はできない。でも、じゃあなぜ彼女はM=㈼からは逃げなかったんだ。それも、あんなロボットに抱かれていた。



 マサキは『あれ』を思い出し、不快になってダンッと右手の拳をテーブルに叩きつけた。目をぎゅっとつむり、腕に顔を強く押しつけ頭から映像を追い出そうとする。彼女の顔は拒絶を示していた・・・。



 あの映像を見た時、ショックで死ぬかと思った。それでも彼女の体に触るM=㈼の触覚データが身体に伝わり続け、耐えられなくなってセンシティブチェアから無理矢理体を引き剥がした。そのせいでしばらく身体中にびりびりとしたしびれが残り、吐くような胃の気持ち悪さが平常レベルまで戻るのに数十分かかった。その間、ずっとなぜだという言葉だけが頭の中を支配し続けた。もしかしたら俺だと思って彼女は許したのかもしれないと思いたかった。でもあれはロボットだ、彼女が気付かない訳無いんだ。ロボットが強引に彼女を抱いているとしか思えなかった。



 どこの世界に求めもしないでロボットと寝る人間がいるんだ。くそったれ、とまたマサキは呟いた。ようやく彼女を見つけたと思ったら・・・。答えが見つからなかった。だからここに来た。テレビで彼女を見つけたのは運命だと思った。



 マサキは微かな物音に、ぴくっと体を震わせゆっくりと顔を上げた。ドアの向こうに気配を感じた。体に緊張が走る。エイリンかもしれないと一瞬考えたが、それが甘い考えなのは十分分かっていた。マップを時計に戻し、時間を確かめる。彼女がこの部屋を出てすでに三十分は経っていた。再びマップにして確認したが、圏外の文字は変わらずだ。発信機をつけたのがばれたとしても、あの小さい物を自分の体のどこに貼られているかを確認するより逃げる方がこの場合は有利だ。きっとエイリンもそうするだろう。



 気配はこちらを窺っている。マサキは音を立てないようにゆっくりと立ち上がった。考えたくはなかったが、エイリンがブランカに連絡したのかもしれなかった。ここに来たことは仲間の誰にも言っていない。一転、自分の窮地か・・・。出口はあそこしかない、闘うしかないか。自分は簡単に死ぬ訳にはいかない体だった。



  マサキは自分の手を見た。人を殺すのは久しぶりだと思った。胸ポケットから強化プラスチックの指ナックルを取り出し左手にはめた。ぎゅっと握りその感触を確かめる。自分用に作られたそれは、まるでラバーのようにしっくりと手に馴染でいた。中指の溝をすっと撫でると、指の谷間からぬるりと光る針が出てきた。



 敵は何かを扉の鍵穴に仕掛けているようだ。マサキは先に動くべきか悩んだ。不器用そうな手付きが音で分かる。いきなり爆弾を投げ込むようなつもりではないらしいが、その動きはいやに素人臭い。



 罠か?マサキは部屋の調光を落とした。扉の外で舌打ちする音が聞こえた。男がぶつぶつと文句を言っているのに耳を澄ます。



「あんだよ、開いてんじゃねーか。時間取らせやがって」



 マサキは扉に針を向けた。男はゆっくりとノブを回し扉を静かに押し開き始めた。外の光が少しづつ部屋に差し込む。男が一歩足を踏み入れた瞬間、マサキは照準を絞り針を放った。男は不自然に外へと倒れ込んだ。ばたんと倒れる音がした。マサキは駆け出し、ゆっくりと閉まろうとする鉄の扉を手で急いで押さえ、男を見下ろした。



 そこには、倒れた男を窺うエーリがいた。



 エーリはすばやく振り返り、驚くマサキを一瞥し、それから左手に嵌められたナックルを見た。



 そのエーリの視線の動きに、マサキは咄嗟にナックルをエーリの眉間に狙いを定めた。互いの目に殺気が走った。しかし、一瞬にしてその殺意をエーリは消した。それからエーリはマサキを見上げ冷静に言った。



「私を殺すのは後にして。それから、顔を見られたくないなら中へ入って。彼を今から起こすから」



「・・・これは即効性だ、そいつはもう死んでいる」



 マサキの声は凍るように冷たかった。マサキは腕を下ろさないまま、エーリの動きを見ている。



「そう。じゃあ針に触らない様に気をつけて」



 エーリは扉を指さした。マサキはすばやく振り返った。そこにはアルミの番号札に刺さった針があった。男が不自然に後ろ倒しになったのを思い出した。エイリンが引き戻して避けさせたのか・・・。



「辻田さんを気絶させたのは私よ。彼、いつも私の研究を窺っていたの。まさかこんな強硬手段を取るとは思わなかったけどね」



 マサキは、辻田と呼ばれた男を見た。ふと、足元に水溜りができているのに気が付いた。男がしょんべんでも漏らしたのかと思ったが、違った。エーリの服から、ぽたぽたと水が滴り落ちているのだ。よく見ると、エーリがびしょ濡れになっていることにマサキは初めて気付いた。濡れているのがよく分からない光沢のある新繊維の布地以外の襟や袖、それから靴や髪の毛の襟足が明らかに濡れていた。



 エーリは、辻田の上半身を起こして腕を掴み、背中から気合を入れた。辻田はふっと目を覚ました。エーリは、辻田の顔をぺちぺちと叩いた。辻田はしばらくぼーっとしていたが、エーリの顔を見た途端、場所を把握したようだった。辻田はエーリの腕を振り払い飛びすさった。



「辻田さん、大丈夫ですか?こんな所で倒れてるから心配しました」



 エーリは、辻田が侵入しようとした事を見逃すつもりのようだった。辻田が、穏やかに訊いてきたエーリのその言葉に自分の行為がばれていないとすばやく算段しているのは、表情から明らかだった。算段が着いたのかそれから早口であれやこれやといい訳を始めた。



「どうやら迷惑をかけたようだね。別に君の所に来るつもりじゃなかったんだよ、そこんとこ誤解しないでもらいたいんだがね。吉田君の所に薬もらおうかと思って来たんだ。研究が、すごく、忙しくて最近あんまり食べれなくて貧血気味でねぇ。あぁ僕って教授からも信任が篤いだろ?だからできるだけ先生方の思いに応えたくてね、ついっ研究熱が熱くなりすぎちゃって」



「そうですか、じゃあ私の所にも栄養剤あるので、少し持っていきますか?」



「いやっ!いいよ!君にお情けをかけてもらわなくっても、全然大丈夫だ!」



 辻田は急いで立ち上がり、傍に立っていたマサキに気付いてぎょっとした。



「紹介しますね、彼は山田太郎くん。院の見学に来たんです。ちょうどいいから辻田さんにもお話しを・・」



 辻田は急いで「悪いけど」と断り、「僕は忙しいんだ」と言って、歩き出しながら顔をひきつらせて、「また今度ね」と言い、去っていった。エーリはにこやかに手を振りながらそれを見送った。辻田の姿が見えなくなった頃、ようやくエーリは手を下ろし、マサキを振り返って彼を見たまま腕を組んで大きな溜息をついた。



「・・・黒百合って、いつから見境なく人を殺すところになったの?」



 マサキはなんとなく気まずくて左手のナックルを右手で隠した。それからエーリの肩ごしに外の天気を窺った。窓の外は曇ってはいたが、雨は降っていなかった。



「なんで、ここにいるんだ。ブランカの所に行ったんじゃないのか。それに、なんでそんなにびしょ濡れで・・・」



「ちょっと寒中水泳しただけよ」



 エーリはくしょん、とくしゃみをした。マサキはすぐに上着を脱いでエーリの肩に掛けた。



「風邪ひく・・・」



 エーリは黒百合の人間にそんな言葉をかけられると思わなかったので、なんだかこそばゆかった。



「殺されたらそんなの関係ないでしょ」



 冷たく言うエーリだったが、その服を無理に返そうとはせずに、そのまま肩に掛けていた。マサキはナックルを左手からはずした。その時、腕にしていた探査マップに黄色のランプがついていないことを、再度視認した。それから、そうか発信機(ムシ)殺しの為か、と呟いた。黄色いランプが向かっていた方向に、正門前のでかい噴水があったのを思い出した。冬場のため噴水は止まっていたが、確か水は溜まっていた。すぐそばには守衛室があったはずだが・・・。エーリが守衛を振り切って噴水に飛び込む様を想像してマサキは噴き出した。



「噴水に飛び込んだのか?見物だったろうな」



 エーリはむっとした顔をして言った。



「用心の為にやるしかなかったのよ!」



 怒るエーリにマサキはくすくすと笑っている。



「怒られなかった?」



「当然怒られたわよ!守衛のおじさんに追っかけられたんだから!絶対に顔を覚えられた、最悪。マサキ、やっぱり私に虫を付けてたのね。だから信用できないんじゃない」



「君だって俺を信用していなかった。それにあの噴水からここまで戻るのに随分遅かったじゃないか。周囲の状況を確認してたとしても、ひどいタイムだ。とてもブランカの人間とは思えない。つまり、俺を追跡するか、もしくは待ち伏せるつもりだったか、とにかく、君はあの辻田とか言う人間がでしゃばってこなきゃ、俺の所に戻るつもりなんて全然なかったんだ」



 エーリはあまりにも正確に言い当てられていて、ぐうの音もでなかった。



「そんな君に文句を言われる筋合いはないよ」



「えらそうに言わないでよね。そのにやにや笑いをどうにかしたら?」



 マサキは満面に笑みという顔でエーリを見下ろしていた。その嬉しそうな顔に、エーリもリズムを崩される。そこにはどうしても昔見たまーくんの面影が重なってしまう。彼はいつも脳天気で、物事を常に良い方へしか考えないような子だった。それをポジティブと呼ぶと聞こえは言いが、たまに何も考えていないのではないかという気さえ起こさせた。目の前のこの男にも、それは垣間見れた。自分の前で完全に警戒心を解いて阿呆みたいに笑って立っている。



「笑うなって言われてもどうにもなんないよ。だって嬉しいんだ」



 エーリは、天使のような笑みで笑いかけてくるマサキの視線から顔を逸らした。顔が赤くなりそうになる。なんだかとにかく恥ずかしかった。無性に彼の頭を殴りたくなる。そんなエーリにマサキは不思議そうに言った。



「殴らないの?」



 エーリは顔を上げた。そこには昔から変わらない、人を包み込むようなまーくんの笑顔があった。そうだった、自分はなんだか納得がいかないと、いつもすぐに彼の頭をぽかりと叩いていたんだっけ。そんな昔の癖を言い当てられて、なんだかますます恥ずかしくなった。



「・・・殴らないよ、もう大人なんだから」



「そっか。・・・エイリン、久しぶり。元気だった?」



 少し首を傾げてマサキは聞いた。エーリも思い出していた。彼は人に何かを聞く時、必ず右に少し頭を傾けていた。エーリはその仕草がおかしくて噴き出した。



「まーくんは大人になっても変わってないね」



 笑ったエーリをマサキは抱き上げた。



「やった!僕の名前をいってくれた!ほんとに本物のエイリンだ!」



 いきなり抱き上げられた事にエーリは驚いていたが、そのマサキのあまりの喜び様に笑みが漏れた。



「『俺』から『僕』に戻ってるよ」



 マサキはエーリをぎゅっと抱きしめ、ぐるぐる回り出した。



「ちょっと。止めなさいよバカ!誰かに見られたらどーすんのよ!こらー!降ろせー!!!」















黒百合の刺客



黒百合の人間は、獲物を追う時、「白い百合を刈る」という言葉を使う。



 車を豪速で飛ばし、空も飛べると思い道をはずれ高架下の道へ向けてハンドルを切った。失神しそうな落下感に内臓が体から抜け落ちていくようなひやりとした冷たさを感じた。

 起きるとそれは夢だった。

 私はその夢から過信は死につながるという事を学んだ。

 しかしその教訓とともに、私には強大な力をコントロールしきれる可能性も有るのだという事を感じ取った。それは過信というよりも確信だった。なぜなら自分が恐怖というものを脳の活動を阻害しない程度に切り離して考えられる事を知ったからだ。



 エイリンは自分を狙う黒百合の猛攻を逃げながら仲間達に逃げるように指示、手助けをする。

 ひなのはハート型ユビキタスミニコンが内蔵されたゴーグルで危険を察知、自分のアパートに怪しい人影をタランチュラ・アイで見つけ、扉に尻の穴をスプレーで描き、真ん中に黒い百合を加えた。「いやぁ~んなんかひわい~な暗号ぅぅ」と言って笑いながら駆けていった。



京の下町

 眼光鋭い男が外に置かれた椅子に座っている。背を丸め膝に両肘を立てて組んだ両手に唇をあて、続々と報告されるレシーバから聞こえる声に耳を傾けていた。その姿はまるで戦国時代の武将のようだ。神経質に動いていた人差し指が、ある知らせに動きを止めた。

「可能なら、鋭燐から潰せ」

 男は細眉を片方あげ、低く響く声で言った。その指示を後ろに控えていた部下の一人が小さな発信機でどこかへ伝えた。その男は上司である男に顔を向け、お聞きしてよろしいでしょうか、と呟いた。少しの間を置いて上司が肯いたのを確認し、男は訊いた。

「なぜあんな小娘にこだわるのですか?」

「あれは、頭の回転が速い」

 部下は眉間に皺を寄せ、その意見に納得がいかない顔をした。

「我々が恐れる程のものでしょうか?」

 上司の男はにやりと笑った。

「外見だけではあれの価値は分かるまい。あれが百合の一本であったらと、何度思った事か」

 ぞくぞくとする鋭燐との数々の遣り取りを男は思い出していた。

「しかし、手に入らぬなら手折るまで」

 男は残忍な笑みを浮かべ、お前も狩りを楽しめ、と言った。部下はごくりと唾を飲み込んだ。



~眼光鋭い男の回想シーン~

「お嬢ちゃん、凡人のふりは、難しいか?」

 振り向くと口元に笑みを浮かべた30代位の細眉の男が立っていた。少女は男の顔をじっと見て、しばらくしてから警戒した声で言った。

「おじさん、誰?」

 少女の視線は男の挙動を観察していた。男はわざとらしく溜息をつき、心底残念そうに言った。

「忘れたのかい?心外だ。知っていて無視するのは最低の人間がする事だよ」

 少女は顔を曇らせ、それからうつむいてごめんなさい、と小さく言った。

「おじさんとどこで会ったか言ってご覧?」

「・・・112日前の午前8時21分に品川のDLEセンターの405号室で、怖い白衣の先生と一緒にお会いしました」

「名前、覚えてる?」

 少女は首を傾げ、男がその時付けていたネームプレートを思い出した。

「・・・読めない」

 男は噴き出した。突然表情を爆発させ、けたけたと笑い出した男に少女は驚き目を見開いて立ち尽くす。

「わーっはっは、なんてアンバランスなんだ君は。面白すぎる。あっはっはー、気にいったよ。また会おう」

 そう男は大声で言うと有無を言わさず少女の頭を右手で乱暴にがしがしと撫で、笑いながら去って行った。少女はぐちゃぐちゃになった自分の頭を両手で押さえ、何が起こったのか理解しようと努めた。

 男は胸ポケットから知能検査結果のシートを取り出した。六角形グラフ、そして絶対評価値など全てにおいてそれはオール平均値を示していた。グラフは奇麗な正六角形を描き、他の直線グラフはただの一つも角が無い一直線の折れ線グラフになり、十点満点評価値の数字はオール『5』を叩き出していた。試験は子供の集中力の限界をゆうに越える五時間ぶっ続けで行われた。認知・反射・精神力・設問対応力、全てが平均値。どんなに平均的な子でも、ここまではならない。それは明らかに意図的に作られたものとしか言い様がなかった。つまり、あの少女は問題を解いていただけでなく、設問の意図するものまで解いていたことになる。彼女にとってあの知能試験はただのゲームに過ぎなかったのだ。恐ろしい程の知能だ。しかし、俺の名前が読めないときた。どうやら知識レベルは年相応らしい、笑うしかなかった。そして子供らしい倫理感。それを無性に壊したくなった。男は微笑しながら呟いた。

「子供には、無邪気な残忍性が必要だ」



 鋭燐はダム浄水施設で仲間と待ちあわせた所を黒百合のメンバーに挟みうちにされる。黒いサングラスと黒いスーツの女が近寄ってくる。仲間の安全を確保する余裕がないまま、逃げるべく開いていた渡り廊下の窓にすべりこみ下の浄水タンクへつながるダムへと一人跳び降りた。市民見学ツアーにまぎれ狭い浄水路を伝って外へ逃亡。

 仲間を置きざりにした事を後悔。鋭燐は仲間からも身を隠す事に。