ランボルギーニ・ディアブロ
ディアブロは世界中で大ヒットし、日本でも「サーキットの狼」などで人気を博した1970年~1980年代の名車「カウンタック」の後継車種でもある。空気抵抗を意識した低い車高とスイングアップ(跳ね上げ式)ドアといったカウンタックの特徴を踏襲した。排気量5,707ccのV12エンジンを搭載し、最大出力492ps/7,000rpmを発生。 最高速325km/h。ディアブロは悪魔という意味であり、伝説の闘牛の名から。後継車はムルシエラゴである。
元々はTWRがF1のサポートレースとして、ポルシェ車による「ポルシェカップ」に類するジャガー車によるワンメイクレースを企画し、そのレース用の車として当初50台限定の予定で開発されたという経緯を持つ。そのため公道走行が可能なスポーツカーでありながら、本来ジャガーの純レーシングカーに与えられる「XJR」の型番が付けられる車となった。オリジナルは6L V12エンジンを搭載し、450馬力を発生する。
ポルシェ959
ポルシェ959
当時のポルシェの最高傑作。1983年のフランクフルトショーに出展したグルッペB(グループBのホモロゲーション用プロトタイプカー)を市販化したモデル。外観からは911とさしたる違いを見せない959の名を呼び声高くしたのは、レースでの活躍と、時代の最先端と称しても差し支えない内容を持った技術的背景にある。200台の生産予定でスタートしたプロジェクトは、予想をはるかに超えるオーダーに少しでも応えるために増産されることになり、最終的には283台が生産された。
RUF CTR イエローバード
RUF CTR イエローバード
RUFがポルシェ911カレラをベースに製作したスーパーカー。通称「イエローバード」と呼ばれるが、これはアメリカの自動車情報誌であるロード&トラック誌が取材をした時、曇り空と黄色いボディカラーのプロトタイプがあまりに対照的だったことからそう呼んだのがきっかけ。またこの後この黄色は「ルーフ・イエロー」と呼ばれるようになった。この車、イタリアのナルドサーキットで時速342kmを記録しているモンスターマシンなのだ。
RUF CTR ライトウェイト
RUF CTR ライトウェイト
上のイエローバードのライトウェイトバージョン。各メーカー自慢の高性能車が、フォルクスワーゲンのテストコースであるエーラ・レシエンに集められテストされた。その際に、当時フェラーリ・F40が持っていた323km/hの記録を大きく塗り替える339.8km/hを記録し、RUFの名を世界に広く知らしめた。しかもこのとき他の車両がキャリアカーで搬入・搬出されたのに対し、CTRはナンバー付きのままサーキットまで自走して来て、最高速テスト終了後に自走して帰ったという。
メルセデスベンツ6010SEL
メルセデスベンツ6010SEL
車体はセダンにショートボディー(W140)とロングボディー(V140)、そしてクーペボディ(C140)の3種類が設定されたが、そのうちC140は途中からCLクラスとしてSクラスから独立した車種となった。 その巨大さゆえに本国では「環境破壊車」などと批判を浴びたが、日本では逆に押し出しの強さで販売が好調であり、次期型登場後もしばらくは人気が高かった。しかし、さすがにデカすぎるので大きい車の売れるはずであるアメリカでもまさかの販売不振であり、そのことが世界的不人気車だった事実を端的に表している。
メルセデスベンツ600
メルセデスベンツ600
シリーズ名はメルセデス・ベンツ600。ショートホイールベース3,200mmのセダン「リムジーネ」(Limousine 、ドイツ語ではセダンの意)、ロングホイールベース3,900mmのリムジン「プルマン」(Pullman )、プルマンベースのオープンパレード仕様「ランドーレッド」(Landaulet )がある。生産台数はリムジーネが2,190台、プルマンが428台。
メルセデスC140AMG
メルセデスC140AMG
1992年1月のデトロイドモーターショーでSEC(S-Klasse-Einspritzmotor-Coupé )として発表されたC140をベースにAMGがチューニングしたスーパーカー。1993年6月に名称が変更されC140からS600クーペとなったが、名称以外の変更はトランクリッドのエンブレムが変更されただけである。同時に V8(235kW)のS500クーペ(RHDのみの設定)が追加された。日本では1993年5月にV12(290kW)の600SECが発売された。
マセラティシャマル
マセラティシャマル
ビトゥルポのチューンアップモデルのカリフをさらにスポーツカーに仕上げたモデル。スーパーカーにこだわってきたマセラティにとっては初めての量産車で、当初は2ドア4人乗りクーペとして登場したが、後に2座席オープンや4ドアセダンも追加投入された。 ビトゥルボという名前はそのV6SOHCエンジンに2つのターボチャージャーが備え付けられていたことに由来する。
アルファロメオ・S.Z.3.0
アルファロメオ・S.Z.3.0
75をベースにしたアルファロメオとザガート、フィアットのコラボレートモデル。由来はスプリントザガートから。しかしザガートによる1989年のプロトタイプカー「ES-30」のデザインが採用されることはなく、デザインはフィアット・デザインセンターの主導で行われたが、「zagato milano」と刻印されたZ印のエンブレムだけは残されることとなった。当初デザインは同センターのロバート・オプロンが担当していたが、ボディワークの詳細とインテリアはアントニオ・カステッラーナが担当した。
フェラーリF40
フェラーリF40
F40は、フェラーリの創始者であるエンツォ・フェラーリがその生涯の最後に、同社の「そのままレースに出られる市販車」という車作りの基本理念を具現化した、歴代フェラーリ生産車の中でも根強い人気を誇る車種である。ボディデザインはピニンファリーナによるもの。車体の基本構成こそ1960年代のフェラーリ製レーシングカー、あるいは従来の市販フェラーリと同様の楕円鋼管チューブラフレームによるスペースフレーム方式ではあったが、当時開発されたばかりの複合素材や構造部接着剤といった最新のマテリアルを組み合わせた半モノコック構造とし、高い剛性を得ている。時速324kmを記録している。
フェラーリ512BB
フェラーリ512BB
365GT4BBの時代からランボルギーニ・カウンタックと「公道世界最速」の称号を競いあっていたが、排気ガス規制が訪れて特にこの種の車両には深刻な問題となった。その対策としてフェラーリ・365GT4BBの排気量を約600ccアップし4,942ccとしたマイナーチェンジ版である。また多用されていたFRPやマグネシウムのパーツをコストダウンのためスチールやアルミニウムに置換し120kg近く重くなった。日本ではカウンタックと同時期にスーパーカーの代名詞として上陸、子供たちの憧れとなった。
フェラーリ250GTO
フェラーリ250GTO
スポーツカー選手権GTクラス制覇のために開発。生産数はホモロゲーションの100台にはほど遠かったが、当時のGTレギュレーションでは、ホモロゲーションを受けるにはボディ形状は決まっておらず自由とされており、たとえ1台ずつ形状が違っていてもルール違反にはならなかった。SWBにはオールアルミボディ、6連キャブレター、5速ミッションなどのオプションが巧みに設定されていたため、フェラーリ側からの申し入れが認められ、GTOはホモロゲーションを取ることに成功した。
シボレーコルベットスティングレー
シボレーコルベットスティングレー
これまでのコルベットは、ダイナミックで力強いスタイルを特徴としたアメリカニズムを押し出したデザインが特徴だった。しかし国内、世界的情勢を意識して大きく路線変更することとなり、ロングノーズは踏襲されているものの、大きく盛り上がったフェンダーなどはなだらかに整形され、全体的に洗練されたスタイルを纏った。構造的にも、特徴の多くを先代から受け継いでいたC3型とは違い、エンジン以外のほぼ全てを新規設計した。足回りは前不等長ダブルウィッシュボーン式、後5リンク式へと進化、アームには市販車初の軽合金を採用し、バネ下重量の低減を狙っている。
フォルクスワーゲン・ビートル1938年の生産開始以来、2003年まで半世紀以上も生産が続き、国際的な自動車市場で多大な成功を収めた。四輪自動車としては世界最多の累計生産台数「2152万9464台」の記録を打ち立てた伝説的大衆車である。ナチス・ドイツのヒトラーの時代から大衆車としてポルシェの元開発され、戦後ドイツの復興の象徴と言える存在になっていった。とにかく頑丈で悪路や厳しい気候でも酷使に耐え、材質・工作が優秀で整備性も良く、大人4人を乗せて経済的に高速巡航できるこの車の性能・品質は、1950年代に至ってもなお世界各国の新型小型乗用車に引けを取らないものであった。アウトバーンでの走行を念頭に置いた、100km/h以上で高速道路を連続巡航できる車、というポルシェとヒトラーの進歩的コンセプトは、戦後の先進各国におけるハイウェイ時代到来に、見事に適応したのである。アウトバーン整備推進とフォルクスワーゲン開発は、常に独裁者としての悪名が先行するヒトラーの施策の中では、戦後これを実効的に継承発展できたことで、後年まで成功と見なされる例外的事績の代表例となった。
ローバーミニ
ローバーミニ
一回は完全にブームが去り、消えかけたローバーミニだが、1991年に待望の「クーパー」モデルが復活する。新しいクーパーは1960年代のクーパーよりも性能的には若干劣るスペックで一時的に再発売された。この車種は非常に人気を博し、新しいクーパーマークを付けたミニは、1991年終わりにはフル生産体勢に入った。 さらに1992年、全車インジェクション化される。これはメインマーケットである日本市場の要望(クーラー装着が必須のため)からといわれている。ただし、インジェクションと言ってもシングルポイントインジェクション(SPI)であり、日本車で主流となっている各シリンダーの吸気ポートに噴射する方式ではない。同年6月、インジェクションモデルを日本導入。
ロールスロイス・シルバースパー2
ロールスロイス・シルバースパー2
ホイールベースが100mm長く、これにより後席を広くしてある他はシルヴァースピリットIIに準じる。シルヴァースパーIからの改良点は、ロールス・ロイス初のアルミニウムホイールを標準採用したこと、ホイールベースが100mm長く、これにより後席を広くしてある他はシルヴァースピリットIIに準じる。シルヴァースパーIからの改良点は、ロールス・ロイス初のアルミニウムホイールを標準採用したこと、運転者の目の前に警告表示板が搭載され必要なデータをまとめて表示するようになったこと、エアコンディショナーが改良されフェシアに吹き出し口が2つ増設され角度調整が可能になったこと、最高級のオーディオシステムを採用したこと、ボッシュ製モトロニックデジタルインジェクションを採用したこと、マニホールドを再設計し出力向上を図ったことなどである。
チェロキー
チェロキー
パリダカ出走の三菱パジェロが火付け役となり、1980年代後半から始まったクロカン四駆ブームの中にあって、1990年代中盤から4リットル・直6のハイパワーエンジンを得たXJは、価格も300万円を切り大ヒット。日本では若者でも手の届く価格帯にあるアメリカン四駆というミーハー的位置付けとなった。日本でチェロキーと名の付くジープは大きく分けて4つのモデルがあり、それらを区別する意味でもXJを付するが、これは形式名ではなく開発コード、またはその後も一般的に使用されるシリーズ名で、コードが同じものは車名が異なっていても共通のハードウエアを持つ。
レンジローバー
レンジローバー
ランドローバーのフルタイム4WDのオールパーパスヴィークルとして発表された。ランドローバー以上のオフロード性能を持ち、普段は高級自動車と変わらぬ快適性を持つことを目標に開発されたまったく新しい概念の革新的車であった。はじめから海外でのノックダウン生産も考慮して設計が進められ、耐久性、メンテナンス性も考慮されていた。
第2期F1参戦中の1990年、世界に通用するホンダのスポーツカーを作りたいという思いから生まれた車こそ、日本を代表するミッドシップスポーツ、NSXなのである。エンジンはこれまでのようなレース用ではなく、市販車NAエンジンで“リッター当たり100馬力”の実現と、それに対する市場の好評を受け、急遽VTEC化およびDOHC化の指示が出された。DOHC化によりシリンダーヘッドが大きくなることから、ホイールベースの延長を余儀なくされたが、エンジンを傾斜させることにより30mmの延長で対処した。外見の特徴であるリアオーバーハングの長さの理由は二つあり、ひとつはマフラーをエンジンルームから遠ざけ、ルーム内の温度上昇を防ぎエンジン補機類の寿命を延長することで、もうひとつは空力性能の向上による高速走行時の姿勢安定性の向上のためである。さらに、当時のスーパースポーツの多くは車中心の考え方で設計されており、運転姿勢や快適装備などでドライバーに負担を強いる部分が多数あった。対してNSXではそれを考慮してドライバー中心のスポーツカーとすることを目標とした。NSXはレースでも活躍し、ルマン24時間レースでチート国光がクラス優勝、JGTCでも1998年全戦ポールポジション、2000年TAKATA童夢NSX脇阪寿一の4回のポールポジションとカストロール無限NSX道上龍のタイトル獲得、2007年のARTAの最終戦待たずにチャンピオンとTAKATA童夢の5回のポールポジションなどの記録が残っている。
ホンダ・CR-Xデルソル
ペットネームとして「デルソル(delSol)」の名称が付与され、それまでのハッチバックスタイルから、スイッチ操作のみで屋根をトランクルームの専用ホルダーに収納できる『トランストップ』と名付けられた電動オープンルーフを最大の特徴とした。なお、ルーフは手動で取り外す仕様もあり、こちらは取り扱いの負担軽減のため軽量なアルミ製となっている(トランストップはスチール製)。エンジンは「SiR」にB16A型エンジンが設定され、最高出力は170PSに向上している。その他、前期型にはD15B型エンジンの「VXi」、後期型にはD16A型エンジンの「VGi」が用意された。第2期F1参戦中の1990年、世界に通用するホンダのスポーツカーを作りたいという思いから生まれた車こそ、日本を代表するミッドシップスポーツ、NSXなのである。エンジンはこれまでのようなレース用ではなく、市販車NAエンジンで“リッター当たり100馬力”の実現と、それに対する市場の好評を受け、急遽VTEC化およびDOHC化の指示が出された。DOHC化によりシリンダーヘッドが大きくなることから、ホイールベースの延長を余儀なくされたが、エンジンを傾斜させることにより30mmの延長で対処した。外見の特徴であるリアオーバーハングの長さの理由は二つあり、ひとつはマフラーをエンジンルームから遠ざけ、ルーム内の温度上昇を防ぎエンジン補機類の寿命を延長することで、もうひとつは空力性能の向上による高速走行時の姿勢安定性の向上のためである。さらに、当時のスーパースポーツの多くは車中心の考え方で設計されており、運転姿勢や快適装備などでドライバーに負担を強いる部分が多数あった。対してNSXではそれを考慮してドライバー中心のスポーツカーとすることを目標とした。NSXはレースでも活躍し、ルマン24時間レースでチート国光がクラス優勝、JGTCでも1998年全戦ポールポジション、2000年TAKATA童夢NSX脇阪寿一の4回のポールポジションとカストロール無限NSX道上龍のタイトル獲得、2007年のARTAの最終戦待たずにチャンピオンとTAKATA童夢の5回のポールポジションなどの記録が残っている。
2度目のフルモデルチェンジによりFD3S型 RX-7が発表され、同年12月より販売開始。このフルモデルチェンジを機に、1971年から20年続いた「サバンナ」の呼称がはずされ、当時の販売店系列「アンフィニ」の名を冠して「アンフィニ・RX-7」として発売された。後に販売店のアンフィニ店がユーノス店と統合したことにより、車名が「マツダ・RX-7」となる。開発コードはX105。マツダ販売網で扱われるようになってからは、車体先端のエンブレムが、マツダのロゴマークとなった。エンジン出力は、シーケンシャルツインターボが搭載された13B型ロータリーエンジンで255psだったが、初期型255ps車のパワーウェイトレシオ(重量/出力比)は5kg/psを切っていた。後にエンジンの出力向上が行われ、96年1月のマイナーチェンジで265ps(MT車)、1991年1月のマイナーチェンジでは280psに達し、一部のモデルでパワーウェイトレシオは6.11kg/kw(4.50kg/ps)に達した。生産終了した今でも根強い人気を持ち、RE雨宮などでは今だRX-7のチューニングメーカーの有力株である。
三菱・GTO
三菱・GTO
キャッチコピーは『スポーツは、ライバルがいるから、面白い。』、『あなたのスポーツは、面白いですか。』1989年に第28回東京モーターショーで三菱HSXという名で参考出品され、その後 1990年10月から市販された。日本国内の全グレードにおいては、駆動方式は4WDとなっている。北来米向けは、FFもラインナップされる。北米市場を意識したGTカーとして企画されており、直線道路を余裕を持って走れるトルクを備えた性格付けがなされている。エンジンとの基本シャーシのベースはディアマンテと同一の物が使われており、それをGTO用にアレンジして搭載している。スタイリングは、三菱らしい個性の強いもので、コークボトルラインのボディに絞り込まれたサイドへ描かれる美しいZラインの綾線はデザイン上のハイライトとなっている。全幅は1,840mmと当時のライバル達の中で随一の全幅を持つ。 デザイン上の特徴として良く取り上げられるサイドエアダムのエアインテークは、モーターショー出展時のHSXではブレーキ冷却ダクトだったが、HSXは2シーターであったため、市販化にあたり後部座席を設置しなければならなくなり、後部座席周りの設計上の都合により市販車ではダミーとなってしまったという経緯がある。
トヨタ・MR2
トヨタ・MR2
11型のMR2はカローラベースであるのに対し、W20型はコロナ/カリーナベースとなった。エンジンもセリカと同じ直列4気筒の2000ccにターボチャージャーを追加した3S-GTE型と、そのノンターボ版となるスポーツツインカムの3S-GE型が搭載された。また当時世界初の試みとして、ステアリングの切れ角に応じて光軸が左右に可動する、ステアリング連動フォグランプ(黄色)も話題となった。しかし大幅に増加した車重やエンジンパワーに対し、足回りとブレーキの貧弱さは否めず、前輪接地圧不足からくるハンドリングレスポンスの悪さ、オプションにもLSDが設定されないなど、スポーツ走行時における数々の問題点を指摘された。GT300の年間最多勝マシンでもある。
日産・スカイラインGT-R
日産・スカイラインGT-R
あのケンメリGT-Rこと先代KPGC110の生産終了より実に16年ぶりとなるGT-R復活であり、当時日産で行われていた901運動の集大成として開発されたR32型GT-Rは、ATTESA E-TS、スーパーハイキャスといった当時の最新デバイスに加え、エンジンに専用設計されたRB26DETTを搭載し、日産・フェアレディZ(Z32型)・インフィニティ・Q45(G50型)とともに、日本初の300PS車としてトリオで発売される予定であったが、当時の諸事情により実施された自動車馬力規制により、いずれも日本向けは280PSとされた。フェアレディZとインフィニティ・Q45は、海外輸出仕様は300PSであったが、GT-Rの輸出はなかった。排気量が中途半端なのは、全日本ツーリングカー選手権のレギュレーションに対応させたことが理由。なお、GT系標準モデルとの外見上の違いは、専用16インチアルミ鍛造ホイール、前後フェンダーの拡幅化、アルミ製フロントフェンダーおよびアルミボンネット採用、フロントグリルの追加、専用フロントバンパー、専用リアウィングが挙げられる。全日本ツーリングカー選手権では、長谷見昌弘のJECSスカイラインと星野一義のカルソニックスカイラインなどにより多くの勝利を成し遂げたうえ、ライバルのフォードシエラRS500を絶滅に追いやったのである。
トヨタ・スープラ
トヨタ・スープラ
A70型よりセリカから独立、日本国内でも北米仕様と同じ「SUPRA」という車名を採用。発売当時のキャッチコピーは「TOYOTA 3000GT」であり、1960年代の名車2000GTをイメージしていた。ソアラと共通のプラットフォーム(ただし補強は少ない)を使用し、当初の主なエンジンは、2.0Lは1G-EU、1G-GEU、そのツインターボ版1G-GTEU、3.0Lターボの7M-GTEUであった。またホモロゲーション取得用モデルとして7M-GTEに専用開発のターボAタービン(CT26型ベース)を搭載した3.0Lターボ車「ターボA」が、1988年8月のマイナーチェンジと同時に500台限定で販売された。特徴はフロントバンパーセンター部の3連ダクトで、このダクトの形は「ターボAダクト」と呼ばれた。その他の特徴として、ボディカラー、ホイールも黒、内装は本革シートを採用し5速マニュアルのみの設定でメーター類はアナログのみとなる。吸入空気量測定方式を従来のLジェトロからDジェトロとした。インタークーラーも大型の物が装着され、最高出力は量産型の240PSから270PSにまでパワーアップされた。通常純正部品をディーラーで購入する場合、車検証が必要になるが、このターボAタービンは実際に車両を持参しないと購入できなかった。これは、ユーザーの間でターボAタービンを他車種(ソアラMZ20/21、スープラMA70量産型)に流用するチューニングがあまりにも広まったためといわれる。




























