隣の豊川市から現在の豊橋市に引っ越しして12年が経過しているが、町内とのお付き合いはほとんど無縁の私だったが、まなかが生まれたことで、町内のお祭りの主催者から手伝ってくれないかと声がかかり、まなかの将来も考えて承諾した。
会所は歩いて1分の所にあり私にとってとても都合の良い場所に設置してあった。
私の住む町内のお祭りは、山車を引きずりながら、小学生の子供たちが太鼓や笛を吹き、音頭をとりながら町内を練り歩くものだ。
私もお祭りの半被を借りて、その山車を引きずりながら回るお手伝いをさせてもらった。
昨日の朝、いよいよ町内を山車で練り歩く準備ができた時を見計らって子供たちの写真を撮影するため、山車の前に子どもたちが整列した。
私は、おもむろにまなかが小学生になり、このと子どもたちのように笛を吹いたり、太鼓が叩けるようになってくれるといいなぁ、なんて思い、「たぶんむりだろうなぁ」なんて勝手に想像したら、つい涙腺が緩んでしまった。
山車を引きずりは、山車が重く、結構足腰に負担のかかるものだった。でも小学生の笛の音や太鼓に合わせ、「そぉ~れ」「あ~お」なんて声をかけながら町内をゆっくりと回った。
子ども達は練習してきたのだろうが、リコーダーでお囃子を、また太鼓をリズムよく叩いていた。
10数人の中で女の子だったがひときわ大きな声で「そぉ~れ」「あ~お」と声を出している子がいた。その子はトランペットも吹くこともできる子で、お腹の力が強いのか、とても声がとおっていて聞いていても心地よかった。
時々先頭の者が爆竹を鳴らす。その煙の匂いが私の小学時代のお祭りを想像させた。
私が小学時代のお祭りのお祭りは、なんといっても爆竹で遊んだことだ。火をつけて放り投げて空中で爆発させたり、道端に落ちている犬のうんちに爆竹を置き、それを破裂させたり、連続で爆破させたりと、とにかく楽しかった。
休憩の時に爆竹をやろうとおもって、その爆竹を見ると、導線に白い糸が巻かれてあった。これはおそらく導線に着火させた時、すぐに導線がすぐに燃え尽き思った以上に早く爆破しない工夫がされているのだろう。
爆破させても、子供ころの爆竹の方が、より大きな音をと立てていた気がした。
練り歩きながら、近所の大人たちは家の前でのし袋を持って立っている姿を見かけた。
私たちへのご祝儀だ。そんな風景を見ているとお祭りと言うものは地域に密着しているものだとつくづく思った。
お昼頃に妻が半被姿のまなかを連れて会所にやってきた。
あらかじめ、子供にお菓子などの券が配られ、それを持ってみたらし団子やお菓子などを頂いた。
午後からまなかも山車の上に乗せてもらい、まなかに付いて妻も一緒に回った。
まなかが山車の上に乗せる否や、2人の女の子がまなかを見て「かわいい」といいながらまなかに寄ってきて、まなかの頬を触り始めた。
まなかは照れ臭そうというよりもだんだんとうっとうしそうな表情をみせ、妻もまなかが女の子に手を出させないように配慮して歩いた。
今年は場所が今一つだったためあまり拾うことはできなかったが、それでも10個ぐらいは拾った。
お祭りも終わり、山車をかたずけ、お疲れさん会に参加させてもらった。
みんなはもうお馴染みの仲間なので、ワイワイと楽しく盛り上がっていた。私もその中の一人歳て今年から加わることになった。
おそらく来年もお祭りのお手伝いをすることだろう。
「まなちゃん、町内のお祭りはどうだった?お姉ちゃん、お兄ちゃんたちのお囃子上手だったね。まなちゃんもいつかお姉ちゃんたちみたいにお囃子が吹けるといいね!」