叔母さんたちがお見舞いに来た次の日、先生の話を聞きにがんセンターに行きました。
母の顔を見てから別の部屋に案内されました。
そして、静かに先生から「年を越すことはちょっと」と言われたような気がします。
先生の言葉が遠くから聞こえてくるようでした。涙が自然にあふれてきて看護師さんがティッシュペーパーを持ってきてくれたのを覚えています。「合わせる人がいたら」との言葉でした。
覚悟していたことが現実になってしまいました。
埼玉の叔母さんに連絡し、今度の日曜日に来てもらうことになりました。
その週は母の満80歳の誕生日で、父を連れて行く予定でした。その前にちょっと顔を見に行っても何も言わずお茶を飲もうとしているだけでした。
「また来るね」と言って帰りました。
母の誕生日の朝、がんセンターから連絡があり、容体が危ないことを告げられました。病院に泊まる覚悟をして父を迎えに行き、それから母の所に行きました。母はただ目をつぶったり開けたりしていました。口にかぶせてある酸素を外そうとしているので私は外さないように「ダメ」と言ったりしたのを覚えています。そして、弱々しい手で私と父の手を握った感触が今も残っています。さよならを言っていたのかと今となって思います。
その後、父を送りながら帰りました。
その日の夜、お風呂から出てパジャマを着ようとしているとがんセンターから電話がかかってきて「息がしていなく・・・こっちに来られますか」とのこと。時計を見たら22時40分過ぎでした。支度をしてがんセンターへと行きました。病室に行くと酸素を外された母が眠っているかのようでした。
母の体はまだ暖かったです。
叔母さんとも最後の言葉も交わすこともなく母は自分の80歳の誕生日、22年12月16日に旅立ってしまいました。