本当の幸せとは何だろうかと考えた時に、

 

利他的に生きることだとか、

 

大きな共同体の中の一部と感じられること、

 

みたいなことが本なんかには書いてあったりする。

 

確かにそれが感じられたら幸せなんだとは思う。

 

 

でもそこに至るまでの過程で必ずやらなければならないことがある。

 

それは、『とにかく自分が幸せになることだけを考え、実際に幸せになる』ということだ。

 

 

 

 

 

自分が幸せでもないのに他人の幸せなんて願えない

 

 

 利己的な幸せの追求

 

他人を押しのけてでも、誰かを傷つけてでも、自分の幸せを第一に考えて行動し、突っ走る。

 

人生のどこかのフェーズで、そんな時期があってしかるべきだと思う。

 

はたからみれば社会不適合者だが、はたから見ている他人などはどうでもいい。

 

まず自分。

 

自分を優先にして、自分が何を望んでいるのか、何をすると気持ちいいかを考えて、選択する。

 

 

今の俺で言うと、それは女。

 

対女のスキルをここで完璧にする。

 

そうしないと俺は一生女に対するコンプレックスに苛まれて生きることになるし、その呪縛から解放されない。

 

この先何十年も、女におびえて生きていくことには耐えられない。

 

だから、マチアプでもストナンでも何でもして、二股といわれようと彼女やらセフレやらをつくりまくって、このコンプレックスを克服する。

 

それで関わった女を悲しませることになるかもしれないが関係ない。

 

多少仕事のパフォーマンスが落ちて、それで誰かに迷惑をかけるかもしれないがどうでもいい。

 

今は自分の幸せのことだけを考えて突っ走る。

 

他人のことを考えるのはそのあとでいい。

 

 

 

 

 コップからあふれた水しか分け与えられない

 

俺の「幸せのコップ」にはまだ半分の水も入っていない。

 

だから、他人に対して幸せを分けてあげることはできない。

 

親にも、兄弟にも、友達にもできないし、セフレにも彼女にも分けてあげられない。

 

これから少しずつ理想を現実にしていき、コップを水で満たしていく。

 

そしていつか水があふれた時、初めて水を他人に与えることができる。

 

自分が満たされていないと、純粋に他人の幸せを願うことなどできない。

 

 

 

見返りを求めずに他者に与えられるか?

自分が本当に満たされていないのに他人の幸福を願うのは形式的には可能である。

 

だが、それは「メサイアコンプレックス」という状態であって、健全な形ではない。

 

本質的に不幸な自分が、他者を救うことで一時的に存在が認められ、それをもって幸福を感じるというこじれた心理状態だ。

 

やっていることは人助けだったりするので実際的な価値はあるかもしれないが、メサイアコンプレックスの厄介なところは見返りを求めているところだ。

 

助けてあげた、だから私を認めて、褒めて・・・となる。

 

しかし、自分が期待した見返りを得られなかったらどうなるか?

 

「あんなにしてやったのに」

 

「なんて薄情なやつ」

 

となって、単なるめんどくさいやつに成り下がり、ひどい場合は憎まれたりする。

 

ちなみに昔の俺がまさにそんな感じの、見返りを求めてばかりのだった。

 

 

 

 

何が言いたいのかというと、自分が幸せになるために突っ走るのは悪いことではない。

 

むしろそれが健全。

 

やりきった、もう十分、と思えた時に始めて、他人に貢献できればいい。

 

だからみんな悪いけど俺の踏み台になってくれ。

 

あとで返すから。