2.転生型の問題

仏教における転生はカルマによって生じるいわば「残念な」事態です。これに対し、異世界ものにおける転生はあくまで特定の人に対して神から恩寵として与えられるものとされているようです。

恩寵として与えられることの裏返しとして、転生者は前世においては、

A.病気で人生そのものを奪われていたり、不慮の事故で死亡したといった、不当に不幸な人である場合

B.すぐれた王であるなど、神の寵愛を受けるにふさわしい日々を送っていた人物である場合

のいずれかという設定が多いようですが、いずれの場合も転生した世界では「しあわせで穏やかな生活」をのぞむことが普通なようです。

しかし、この願いが実現されてしまうと、転生した人は「しあわせになる」かもしれませんが、ドラマが成り立たなくなってしまいますよね。

これでは困りますので、転生に際しては、

A.神様の見落としないし主人公の想定範囲を超える行動により、意図せぬ冒険がはじまってしまう

B.冒険し、かつ目立たない(少なくとも権力的地位につかない)というふたつの矛盾の可能性をはらむ設定で転生する

このいずれかが選ばれるようです。

こうした(考えようによっては必然的な)設定によってドラマが展開していくわけですが、

転生に際して忘却の草原を通ることで記憶を失うオデュッセウスらの場合と異なり、多くの転生ものでは主人公が前世の記憶や知識、経験をもったまま転生しています(「異世界のんびり農家」は前世の記憶がほぼ消してある珍しい話でした)。

恩寵として与えられるだけあって、前世の記憶や経験に加えて、転生の際に魔法などのチートも併せて与えられることも多いです。そのため転生型の物語においては主人公にアドバンテージが多くなりすぎ、主人公に感情移入しにくいという欠点がどうしても生じてしまうようです。

 


召喚ものとは異なり、典型的な転生譚では独特な子供時代の描写が重要になりますので、どうしても長い物語になります。四半期単位の1シーズンではせいぜい修行時代の前半ぐらいしか扱えません。

しかし、主人公にアドバンテージが多すぎるのに加え、子供なのに老成した主人公のメンタリティ、上から目線の独語がどうしても多くなること、恋愛の不在、周囲の事態に対する無関心など、視聴者からの広い共感を集めにくい設定のせいで、視聴者数を稼ぐことができないまま「物語はまだはじまったばかり」の段階で打ち切りが決まってしまい、非常に気の毒な形で終わるという悲しい傾向があるように思います。

今シーズンでいうと「最強陰陽師の異世界転生記」「英雄王、武を極めるため転生す」は、ともに凝った設定の面白い話で、楽しみに見ていたのですが、どちらの作品も、本格的な冒険に出発するどころか、主人公が学校を卒業すらできない段階で無理やり打ち切りです。

アニメは、1回分(25分)の制作に最低でも1000万、つまり1シーズンを12回とすると、制作費に1億以上は軽くかかるそうですが、転生ものの場合、確実に凝った設定になるため、ゴブリンやファイアボールだけで話を進めるわけにはいかず、作画に手間がかかるため費用はさらに何割か増えるのだろうなということは容易に想像がつきます。

制作には普通以上にお金がかかるのに視聴者数は稼げず、まだ主人公が子供で本体の物語がはじまりすらしないうちに打ち切りになってしまう可能性が高い、となると、ビジネス的にはアニメ化をためらうのは当然だろうと思います。

サブスクブームの急速な終焉もあり、お金の流入が激減した現状では、こうした作品のアニメ化はますますむずかしくなっていくんでしょうね。大人にとってむしろ面白い話が、かえって大人の事情に阻まれやすいというのは残念なことです。