標準異世界チートものでは、武力と魔力によって支配されている中世ヨーロッパ風の世界に、圧倒的な力(チート)をもった普通のゲーム好きな高校生(か大学生・浪人生)が転生し、美少女たちに囲まれつつ、戦いに連戦連勝する、というのが基本構造となります。

ただ、中世ヨーロッパは成熟した社会ですから、そこに力だけもった異物が入り込んで新しい王になる話が納得しにくいものになるのは、舞台を江戸時代の日本に設定した場合を考えれば想像がつきます。中世ヨーロッパは「北斗の拳」の世界とはだいぶちがいますからね。

ゲームであれば「日常」の部分はそれほど重要な意味はないでしょうから、そんなに考えなくともよいのでいいのでしょう。しかし、物語となれば話は別です。設定を現実に近づけてしまっているために生じる難点ですが、もし私に書けといわれるのであれば、古典的なファンタジーから学ぶだろうと思います。具体的には、

A.偉大な王が後継者なくして死去した
B.力の空白が存在している、魔物だらけで人のほとんど住んでいない土地を舞台にする
C.弱い正当な権力者と権力を簒奪しようとたくらむ悪しき集団
D.干ばつや寒冷化、天変地異や魔物の襲来などによる土地の荒廃

「標準異世界」にこうした設定を重ねることで、「誰もが途方に暮れている中で異邦からやってきた主人公だけがその標準異世界の難問を解決できる」という形にするというわけです。

アニメの場合でも、上記の設定のうち、

Aとして「Re:ゼロから始める異世界生活」(この作品はDにもあたるかも)
Bとして「転生したらスライムだった件」「異世界のんびり農家」
Cとして「骸骨騎士様、只今異世界へお出掛け中」

があり、どれも異世界ものとしてすぐれた作品であることを思うと、設定の重要さがうかがわれます。

なお、「Re:ゼロからはじめる異世界生活」と「骸骨騎士様、只今異世界へお出掛け中」については一種の騎士道ものとも言えそうですが、これは次回扱おうと思っています。


さて、西欧における転生譚としては最古のひとつと言っても良さそうな話に、プラトンが紹介するオデュッセウスの転生の話があります。

といっても、女神アテネに愛された男でもある英雄オデュッセウスが転生先で大活躍したという話ではなく、彼が転生に際して(慎重さで知られた知恵者らしく)選択可能な来世を丹念に選び抜いた挙げ句、起伏のない地味な人生を選んだという話なのですが、

今シーズンの「標準異世界チートもの」にはこの意味で「オデュッセウス風」の設定が目につくほど多いのです。

上にあげたものの中では「異世界のんびり農家」がこのタイプになりそうですが、その他にも「とんでもスキルで異世界放浪メシ」「最強陰陽師の異世界転生記」「英雄王、武を極めるため転生す」がそうですし、転生ものではないもののかなり近い設定の「解雇された暗黒兵士(30代)のスローなセカンドライフ」も同様の設定に分類してよいと思います。

この「面倒事に巻き込まれないよう主人公になることを避ける主人公」がやたらに多いというのが、今シーズンのTVアニメ(特にサブスクで上位の視聴率を取っているもの)の特徴といっても良さそうです。


実はこれまでのブログとはかなり方向性が異なる「標準異世界チートもの」を分析しようと思ったのはこの傾向を面白いなと思ったのが理由でした。

こうした考え方は、上述のオデュッセウスだけでなく、お釈迦さまや老荘など、思想の世界でもとても馴染み深い発想なのですが、西洋哲学でいうとエピキュロスがその代表者ということになりそうです。

エピキュロスといえば快楽主義者=エピキュリアンのほうが有名ですが、彼自身の実際の教えはほとんどストア派の禁欲主義に近いもので、そのモットーは「隠れて生きよ」でした。

今シーズン目についた作風は、この「隠れて生きよ」というモットーにまとめることができるかもしれません。


さて、ここから現代社会論なりコロナ禍でのメンタリティの変化論などをやろうと思えばできそうですが、そういうことは他の方におまかせするとして、アニメをたくさん見て感じたのは、「すごい力」を使いつつ、「隠れて生きる」というのはそもそも無理なんじゃないのということです。

老荘あるいは列氏などでは、孔子の批判もあって、力を見せること自体を愚かなことと説かれています。

その意味で、元最強陰陽師やムコーダ君は「まだまだわかってないな」と思います。わかるためには前世で最強陰陽師として権力によって殺される程度ではまだまだで、オデュッセウスぐらいとんでもない目に合わないとだめなのかもしれません。

 

ただ、転生後のオデュッセウスのように「本当に隠れて生きてしまう」とドラマになりませんので、ファンタジーとしては成立しませんが。