西行の出家の語られなかった理由の考察に移ります。

おぽんちゃんは、西行の出家の理由には、A.背景的な理由と、B.直接的理由のふたつがあると考えます。

背景的理由のほうは、それだけでは出家につながらないものであるため、直接的理由だけでも十分といえば十分なのですが、あえて背景的理由を考察するのは、今回のメインテーマである「お釈迦さまの出家の語られなかった理由」を考える上で、重要な示唆を含むと考えているためです。

また、今回のテーマとは関係ありませんが、西行とは不思議な因縁のある頼朝を理解する上でも、この背景的理由は意味を持つのではないかと思っています。


以下は人物表です。活躍した時代を比較しやすくするためのものですので、西暦で表記します。

頼朝:1147年-1199年(義経追放1185年、征夷大将軍1192年)
西行:1118年-1190年(出家は1140年)
清盛:1118年-1181年

 

崇徳天皇:1119年-1164年(在位1123年-1142年)  鳥羽天皇の第一皇子。母は待賢門院

近衛天皇:1139年-1155年(在位1142年-1155年)  鳥羽天皇の第九皇子。母は美福門院

後白河天皇:1127年-1192年(在位1155年-1158年) 鳥羽天皇の第四皇子。母は待賢門院

 

保元の乱:1156年

 

鳥羽天皇:1103年-1156年(在位1107年-1123年)

待賢門院璋子:1101年-1145年 鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母

美福門院得子:1117年-1160年 鳥羽天皇譲位後の寵姫だが、皇后に立てられる。近衛天皇の母

 

西行と清盛と崇徳天皇、そして美福門院は完全に同世代の人たちなんですね。一方、鳥羽天皇の中宮待賢門院璋子は、彼らにとっては母親の世代、頼朝は息子の世代ということになります。


西行という人の業績や人物像については、熱い紹介がたくさんありますので、そうしたサイトさんや書籍などを御覧ください。西行のことをいろいろ考えたせいで、彼について従来とは違う人物像が心の中に生まれつつあるのですが、まとめるとしても別の機会にしようと思います。

今回の考察の目的である西行の出家の背景的な理由として、注目したいのは、出家の結果として西行が断念した、

1.朝廷における武人としての出世・栄達の可能性
2.武家の棟梁になる可能性

という2つの可能性です。


1.朝廷に仕える武人としての輝かしい出世・栄達の可能性の断念

西行は、北面の武士として平清盛と同僚であったぐらいで、当時朝廷に仕えていた武士として、最高クラスの輝かしい出世ルートにいた人です。

それだけに、彼の出家は当時の人に驚きをもたらしたわけですが、なぜ西行は輝かしい出世への道を断念したのでしょうか。

おぽんちゃんはその理由を次のように考えます。

田舎出身のエリートとして、当然ながら少し古い時代に適合した価値感をもっていたであろう西行ですから、おそらく明確に意識まではしていなかったと思うのですが、

20歳ごろの彼がいたのは、まずは平氏、次いで源氏へと「武士」に実権が移っていくことになる時代の最先端の場所でした。

その場所でかりに彼が、①清盛のように、天皇の隠し子でありかつ武家の棟梁の家の嫡男でもあるという、秩序を転倒させうる矛盾をはらんだ立場にあったとか、

②頼朝のように、流人となった先で拾われ、身寄りのない貴人であったがゆえに逆に、地方に根を張った土着の武士によって(自分たちの基盤を奪われる心配のない)旗印としてまつりあげるのに格好の人物だったとか、

③義経や将門のように、宮廷文化とは無縁の、地方武士たちと同様のメンタリティをもった、野望にあふれる田舎者であったりしたのであれば、

 

話は全然別だったと思います。

しかし、西行は従来型の「恵まれたエリート武士」でした。彼には時代を変えたいという気持ちはなかったでしょうし、そもそもそのための準備や背景もなかったと思います。そのような状態で、後にいう「下剋上」の時代がはじまってしまったとき、従来型のエリートである彼に何ができたでしょう。

西行が出家した時点では、「なぜこんなに恵まれた人が」と、周囲は驚いたと思います。しかし、時代の変化は早く、彼の出家から16年後には保元の乱が起こります。貴族社会が崩壊していく中で、「貴族に仕えるエリート武士」という存在の意味のほうが急速になくなっていったわけです。

こう考えると、彼は出世を断念したのではなく、時代をほんの少しだけ先取りしていたにすぎなかったのではないかと思います。彼に限らず、もはや「朝廷に仕える武人としての輝かしい出世・栄達の可能性」のほうが無くなってしまったのです。

 


2.武家の棟梁になる可能性の断念

彼は藤原秀郷の嫡流で、藤原秀郷といえば平将門を討ったまさにその人物ですから、西行もまた、「武家の棟梁」になりうる人間として、源頼朝や平清盛にけっして劣らない家柄に生まれたことになります。

しかしおぽんちゃんは、彼には清盛や頼朝のような形で、全国の武士を統べるというレベルでの「武家の棟梁」になる道は、最初からなかったのではないかと考えます。

武家は公家から実権を奪った、歴史を現在から見ればそう見えますが、同時代に生きて戦っていた武士たちにとっては、「朝廷の実権をほしいままにしていた公家=藤原氏およびその同類である平家の公達から、天皇親政を取り戻す」というのが、自分たちの大義名分になっていたはずです。

一方で、全国の土着の武士たちが潜在的に「武家の棟梁」にもとめていたのは、天皇親政の回復ではなく、中央の公家から奪った自分たちの土地が公権力によって奪いかえされないことの保障でした。そのために「武家の棟梁」は、「彼らの側の人間」、つまり地方に根を張った人間である必要があったはずです。

さらに、新たな時代の主役になるためには、単に地方の人間であるだけでは足りず、近畿から離れた「東国」か「西国」に根ざした地方武士たちの支持を集める必要があったのだろうと思います。

これは、東国から権力を奪い返そうとした南北朝時代においては流れが逆転し、むしろ畿内に根を張る楠木正成のような人物が新たな潮流を作っていったことに対応していそうです。

西行は、そうした地方武士のニーズのどれをも満たすことができない立場の人物でした。彼は「藤原氏」であり、その領地は紀の川流域と中央に近く、エリートとしての地位にあって、中央にいる「堕落した連中」から何かを奪おうとか守ろうと考える理由もなく、公家たちに反抗しようという気持ちも持っていませんでした。それどころか彼は、「堕落した宮廷文化」が、武士としての生活よりもむしろ好きだったのだと思います。

こう見たとき、彼は「武家の棟梁」になる可能性を断念したのではなく、実際には、彼にはその資格が「はじめからなかった」といっていいと思います。


もっとも、これだけでは彼が出家して世俗との縁を切るような理由にはなりません。決定的なのは、やはり待賢門院璋子との関係にあったと思います。