死後、神になった方がお祀りされた神社などをお参りしていると、逆になぜこの方は神にならなかったのだろうと思う方のことを考えたりします。

おぽんちゃん的には、その代表格が義経と信長の二人です。

もちろん正確に言うと二人とも「神にならなかった」わけではありません。信長は「織田稲荷」に加え、現在は船岡山の「建勲神社」にお祀りされて、京都の守護神のようになっていますし、義経にしても、藤沢市の「白旗神社」や、大和郡山市の「源九郎稲荷」のほか、東北地方の各地などで、主に修験道系の神社としてお祀りされています。

ただ信長は、明治天皇によって建勲神社にお祀りされるまでは、稲荷という形をとって地域の方によってほそぼそとお祀りされていたわけですし、白旗神社や源九郎稲荷にしても、地域での崇敬を越えて、天神さんや神田明神、金比羅さんのように全国的な強い信仰を集めているという感じではありません。

 

もっとも、神社ではなくとも信長のお墓は怖いですし、信長のお墓にあえて不敬を働くような度胸のある人はあまりいないと思いますが。


今回扱うのは源義経です。義経の死は日本史でもまれに見るような「非業の死」ですから、ものすごい「怨霊」になってもおかしくないような気がします。

 

仮に鎌倉時代初期の京都に疫病が蔓延するなどして、義経の祟りという話が出たとしたらどうなったでしょう。

鎌倉幕府が開かれたとはいえ、御霊信仰の盛んだった時代です。その死に朝廷が直接関与していなかった信長とは異なり、義経に頼朝追討の宣旨を出された後白河法皇は、頼朝には義経追討の宣旨を出されて、これを根拠に義経が討たれました。さらに、都の人たちは、義経に対して相当うしろめたいことをしていたようですし、裏でいろいろ言ったりしていただろうことを考えれば、京の町に強力な祟り神として「義経大明神」が大々的に祀られるというようなことになっていてもおかしくはなかったはずです。

義経が祟り神にならなかったのは何故だろう、いろいろ考えてみたのですが、おぽんちゃんとしては「義経が都に祟りを起こさなかったこと」、「鎌倉にはタフな人たちしかおらず、義経の祟りにおびえるようなタイプの人たちはまずいなかったこと」、そして、「義経が神になるかわりに物語の主人公になったから」なのではないかという結論になりました。

 

日本には上代からの膨大な物語が残されていますが、その中でも最大の主人公が九郎判官義経です。義経は物語の主人公になることで、事実上「神」になったといってもいいのではないかと思うのです。

 


義経の物語ですが、おおまかに4つないし5つのグループに分類することができそうです。順番に、といっても歴史的な成立順ではなく、義経の人生に対応した順番ですが、

1.牛若丸-最初の平泉時代。主に「義経記」が典拠。鞍馬寺の物語と弁慶との出会いの物語が中心です。

2.京都での活躍時代。「平家物語」や「吾妻鏡」が典拠。『鎌倉殿』でこれから扱われる時代です。

3.都落ちの物語。「義経記」からはじまり、謡曲や浄瑠璃など、膨大な物語が作られています。静御前など、女性との道行きの物語の系統と、武蔵坊弁慶との主従の物語の2系統があります。

4.実は義経は死んでおらず、後の○○になったという物語。モンゴルに渡ってチンギスハンになったという伝説を含め、数多く存在しています。

日本の物語史上でとりわけ重要なのは3.義経の都落ちの物語で、これについてもいずれ扱ってみたいと思っています。今回は1の物語のひとつ、御伽草子の「御曹子(おんぞうし)島渡り」についてです。