横綱白鵬が現役引退の意向を固めたらしいという一報を聞いた。

進退をかけて臨んだこの七月(名古屋)場所では、45回目の優勝を全勝で飾るなど復活した感があったし、九月場所中には稽古を開始していると伝えられていただけに、この一報に吾輩も「ええ!?」と思ったが、既に心中では「最後の一花」という思いが七月の段階であったのかも知れない。

まだ正式な発表には至っていないが、本日9月27日段階での吾輩の思う所を記したい。

 

吾輩は白鵬関とは、彼が新大関に上がるころから交流があった。初対面の時には、将来横綱に上がった場合きっと不知火型の土俵入りをすることになるであろうから、せり上がりの時の両腕のあげ方には「こんな意味があるんだよ」と吾輩が知ったかぶりに語った記憶がある。が、その後、大相撲史に燦然と名を残す大横綱に何を言っていたのだろうと、今振り返るとかなり気恥ずかしい限りである。

 

マスメディアや取材の場だけではなく、本場所の打ち上げパーティーであったり、彼が立ち上げた国際交流を含む少年の相撲大会(今後の力士を育てる活動)「白鵬杯」の大会委員長を依頼されるなど、土俵の外でもしばしば親交を持った。ロング・インタヴューをしたこともあった。深夜に焼き肉屋に一緒に行ったこともある。懐かしい。

そうだ何年か前には、白鵬関が引退する時の何らかのセレモニーで歌えることを展望した「千秋楽」という雅楽を基調とする歌も作った。

 

吾輩のことを「先輩!」と呼ぶ素顔の彼は、周りを明るくする能力にも長け、楽しい人物だ。非常に勉強熱心でもあり、頭脳明晰な人だと思う。必ずしも相撲に直結しない歴史の書籍を読むなどして、日本の先人の考えを学ぼうとした。それでも、いわゆる日本文化の奥の奥の「美徳」のようなものを、完全に理解することは難しいのかな、とも思わされる時はあった。

圧倒的な実績を挙げながら、たびたび批判を浴びた横綱でもあった。荒々しい立ち合いや、審判への抗議、優勝インタビューでの万歳三唱……。

 

だが、東日本大震災の復興支援では率先して他の力士にも協力を求め、被災地を巡って手数入り(土俵入り)を披露し励ました。また、賭博や八百長、薬物など数々の不祥事に揺れ動いた角界を看板力士として何年間も衛り続けた。これは優勝回数や勝ち星の数字とは別にもっと評価されて然るべきだ。

吾輩は当時、まだモンゴル国籍だった白鵬に相撲協会は一代年寄をあげてはどうかと発言した。これだけのことをしてくれたことに対して、日本人は感謝や礼の心を持つべきだと考えたからだ。

 

白鵬は平成から令和にかけての「最強力士」と言える。これだけ長く綱を張れたのには、幾つかの要因が考えられる。一つは、四股、すり足や柔軟体操といった基礎稽古を他のどの力士より時間をかけてじっくりやってきたこと。長持ちの秘訣だったのだろう。今後も多くの力士の範となる。 天下を取って代わるような力士が一向に現れなかったことも無視できない。日馬富士も鶴竜、稀勢の里もしかり、近い世代の横綱が色んな理由があって、不本意な辞め方をしてしまった。若手大関は出てきたが、自身を追い落とすほどではなかった。

 

ちなみに吾輩は白鵬関のご両親、兄姉、夫人、ほぼ全ての大人の家族との面識があるが、彼の父親ジグジドゥ・ムンフバト氏(故人)はモンゴル人史上初のオリンピックのメダリスト(メキシコ五輪レスリングで銀メダル)で、モンゴルの英雄。氏が最初に出場した五輪が前回の東京大会。横綱白鵬は再び同じ地で開かれる今回の東京五輪を、自身の引退の花道の目安として大きなモチベーションにしてきた。だが、それもコロナ禍で1年延期に。「さあ、自分の散り様を見せるんだ」というタイミングを「肩すかし」され、延命させられてしまったようにも映った。

 

そんな中、やはり歴史的な「相撲界での偉業」を成し復活してきた新横綱の照ノ富士が、この九月場所で見事に優勝を果たした。立派な後継者が出てきてくれたと安堵して白鵬は肩の荷をおろす決意をしたのかもしれない。

それにしても出場した最後の場所を全勝で終えたところなど、白鵬らしいなあと思わされた。

 

相撲協会に残って後進の指導にあたる希望だとも聞いている。

親方としての育成力を大いに期待したい。

そして長きにわたり大相撲界を支えてくれたことに最大級の感謝をしたい、一相撲ファンとして。

そして「お疲れ様」と言いたい、「一先輩」として(吾輩は力士ではないので、まだ引退はしていないが)。

 

ではまたWebRock!