よく頑張った。だけど身体が追い付いてこなかった。やむなし、という感じである。
本人は会見で「悔いなし」と発言したが、本当はやり切ったとは思えていない、悔しさがにじみ出ていたと吾輩には感じられた。
昨年の十一月場所でまた新たに膝を痛めてしまった。
だが場所を終えて、横綱審議委員会からはその怪我に対するコメントは無く、「初場所は結果を残さないといけない」と言われてしまった。これは『どんな形ででも出ろ』と言われたに等しかった。本当は新たな怪我をちゃんと治し、もっと鍛え直してから進退を懸ける場所に臨みたいと、本人もそう思っていたのではなかろうか。その怪我の具合は、初場所の2週間前まで実際に相撲を取る稽古が行えなかったほどだと聞いている。
この初場所前にとある宴で吾輩は稀勢の里と顔を合わせる機会があった。その際吾輩が「頑張ってね」と声を掛けると彼は「はい、頑張ります」と意外なほどの明るい顔で応えたのが印象的であった。
迎えたこの初場所の稀勢の里の相撲…内容もだが土俵に臨む姿全般を見ていて吾輩は思った。歴史や伝統も大事だが、『引退する決意、また引退を促す』ということを含めた横綱のあり方を、一度考え直してもいいのではないか。
力士もアスリートだ。その視点で言えば、『怪我はちゃんと治すまで待つ。そして納得がゆくまで鍛え直す』。それで再起を懸け、それでもダメなら引退、という形を横綱にも、と。
みな事情や背景が異なるのだから、単なる数字の『何場所』ではないのではないか?、と。
その意識改革は角界全体。ファンもファンでない一般人もマス・メディアをも含めてである。
今回、その問題提起をされた心もちである。
 
いずれにせよ、新横綱だった場所(一昨年三月)での大胸筋(上腕筋や肩の脱臼まで至るなど諸説あるが詳細不明)の怪我が大きかった。稀勢の里はそれまで、休場するほど大きな怪我が無かった力士だったがゆえに、綱の責任感とも相まって対処の道を誤ってしまったと、吾輩には思われる。
最初の怪我をかばうために相撲のバランスが崩れ、身体の他の部分に負担がかかり、次々と足首や膝などを痛める『負のスパイラル』に繋がってしまった。実は新しい怪我を負っているのに、ずっと同じ個所が理由で休んでいるように扱われてしまった。
今場所に関して言えば、『積極的に攻めなければ』という姿勢は見えたが、いかんせん下半身の鍛えが間に合わなかったのかな、という印象だ。
実直であるがゆえに、そういうことを彼は口にはしなかった。純朴な不器用さを伴う実直さであるがゆえに、そこが愛される点でもあった。昭和のスポーツ少年や高校球児の姿にも似た郷愁を誘う魅力があった。更に礼節、自制、相手への敬意、責任感など、「和」の美意識を多く持ち合せた力士であった。
 
横綱としては数字の上で大きな成果に至れなかったかも知れぬが、『力士』としては幕内で約14年間、長く土俵を沸かせてくれた大功労者である。
無念さはあるかも知れないが「誇りに思ってくれ給へ!」と言いたい。
 
稀勢の里は白鵬…同時代の横綱として器用に何でもこなしほぼ全ての主たる記録を塗り替えつつある白鵬と対照的な存在であったが、その白鵬がきっともう塗り替えることが難しいであろう金字塔の記録『双葉山の69連勝』。かつてそれを破る目前の『63』で白鵬を止めたのがこの稀勢の里であったことも、彼の存在の輝かしさを示している。
 
稀勢の里が入門時から大関になる直前までの『生み』の師匠(故・先代・鳴戸親方、元横綱・隆の里)もきっと褒めてくれているに違いない、「萩原、よく頑張った」と。
 
ではまたWebRock!

※最初にアップロードした時の文章に数時間後、自ら些細な追記や修正を行った。結果それらは元文を引用している媒体の記事での文言と「微妙に異なる」ことになってしまったが、引用している媒体の非ではないことを報告しておきたい。(01/17未明追記、DK)