Martin D-28 2017年以前の旧モデルのほうが何だか、より楽しめるような、音楽的… | 個人用途の新速記法 EPSEMS(エプセムズ)

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Martin D-28

 2017年以前の旧モデルのほうが何だか、

  より楽しめるような

    音楽的…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スタンダードD-28の骨太な感じに好感が持てる。音のバランス、ピッチ、音色、鳴りっぷり、ルックス、所有感と、トータル的にやはり素晴らしい。

 

 2017年6月発表のモデルチェンジにより、画像にある私が所有するところのこの個体は旧モデルとなったが、ブラックピックガード、ノンスキャロップドのスタンダード"X"ブレイシングのD-28として「クラシックMartinに昇格」といった感あり。こういうオーソドックスな旧モデルを好む方々も少なくないようである。

 

 そんな私も、旧モデル最終年、最終型の駆け込み需要組のひとりである。同型の低年式物からは正常コンディション物を得ることはなかなか困難であり、思い切って最終物の新品同様品、車でいうところの新古車のようなものを入手している。全く新品では値が張る。きちんと探し当てさえすれば、実利面からは今回のような新品同様品で全くマイナス面が認められない。

 

 あくまでも私感として思い切って書いてしまうが、旧モデルのほうが何だか、より楽しめるような、音楽的にバランスのとれた音となっているように思う。旧モデルのほうがインストゥルメンタルにも弾き語りにも、よりうまく対応できるバランスのとれた音を奏でるギターだと感じる。ギターのみならずクルマでも何でも、こういった語り方、批評は各時代でなされるものだが…、とはいえ…。旧モデルのほうが、より奇をてらわぬ、さりげないスタンダードとしての味があるということが、私の感覚そのものからは言える。

 

 音色、鳴りっぷり、全体的なルックス等、70年代あたり以降から続くノスタルジーを求められる方、世代も少なくなく、そういった向きには長きにわたり受け継がれた旧モデルの魅力には抗しがたいものがあるはずだ。どんな音がいい音かというよりは、各人がイメージした「アコースティックギターらしい音」があるのかもしれない。アコースティックギターやそれが奏でる音楽に触れた原体験、すり込みといったものが、その後のギター観、好みの中心に居座るのだ。

 

 クセのないプレーンなサウンド特性で幅広いジャンルをカバーし得るD-28、永年のベストセラーモデルにはワケがある。販売実績などでMartinを凌駕するようなメーカーが現われても、生音のMartinの魅力には捨てがたいものがある。どちらがどのようにいい音かというよりは、あのMartinのMartinらしい音をこの手で奏でたいのだから。

 

 わかりやすいよさが詰まっているのがMartinでもある。

 

 一時の思いで、場合によってはD-28を手放してしまうことだってあるかもしれないが、手元になくなってみるとその素晴らしさがしみじみとわかるようなギターでもある。こういったよくありそうな例、過去の私もご多分に漏れない。音のシンプルさと煌びやかさのバランス加減、低音らしい低音、中音や高音もしかり。音楽を奏でる楽器として過不足なく手をかけられていることを感じさせてくれるその造作、長く使うことを前提とした構造、そして奇をてらわぬ意匠、定番の位置を独占してきた歴史自体…等々、挙げたら全く切りがないのである。

 

 いろいろと比較したりと、情報が多い中にあってはわからなくなる環境もあったりするのだけれど、そこらの安物に負けるようなギターでもなければ、並みいるメーカー品の中にあっても中央に鎮座するだけのことはあるギターなので、その魅力を感じたときのその感じを忘れないでいたい。一般的な人、庶民が夢を描く範囲で夢見ながら、それを実現させることができるという意味でも、よき指標としていつでも随伴していてくれるような存在であり、このようなギターを継続生産してきてくれたMartin社には感謝と尊敬の念を素直に持たざるを得ない。

 

 ほんとに自分が気に入ったギター、ルックスも音も両方ならばなおさらのこと、それを所有し日常生活で気軽に奏でること自体に充実感があるものだし、「嗜み(たしなみ)の喜び」をたっぷりと享受できる。あすへの継続、あすへのエネルギーの再生産にもなっているものだと信ずる。

 

 「新しいMartinはダメ、ヴィンテージのよいものがやっぱりいい」などという話はある意味正解だが、片や全くの杞憂でもある。これは自分自身で確かめるしかないことだが。その時代、その時代のMartinにMartinを感じることができる人にとっては、それこそがMartinそのものなのだ。

 

 長いスパンでの計画性というか理念というか、そんなところでMartinが「思考の太い幹、思考の豊かな源泉」を持つメーカーであることを感じさせられることが幾つもあった。各々の時代におけるさまざまな改良、革新的な試行錯誤それ自体のほとんどにそんなことを感じさせられてきた。大げさな言い方かもしれないが、それは時に「神の意志(意思)」すら感じられるような出来事が散見されるのだ。

 

 話は尽きないので、この辺でさっさとシンプルに締めくくろうと思う。そこで最後に一言(ひとこと)。D-28の音は木そのものの優しい音、自然の温かさをストレートに残した音だから、皆、好きになってしまう。

 

 

 

 

 

 

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↓ Martin D-28 Standard (2017)

 

1944年途中より2017年途中まで(D-18は2012年の大幅な仕様変更まで)の長きにわたり『ヴィンテージ仕様への回帰、わざとらしい塗装着色』などせずに標準器として続いた、フォワード・シフテッドでないノンスキャロップド・ブレース仕様の最終系統。


30〜40年代とか50〜60年代とか70〜80年代とか、それぞれ素晴らしいけれど、90〜2000〜2010年代のモデルもこれはこれでまた素晴らしい。私としては、演奏楽器として十分過ぎるほどでもあり、維持のしやすさも含め、むしろ好ましくもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ↓  Matin D-18  (1999)& Matin D-28  (2011)

 

1944年途中より2017年途中まで(D-18は2012年の大幅な仕様変更まで)の長きにわたり『ヴィンテージ仕様への回帰、わざとらしい塗装着色』などせずに標準器として続いた、フォワード・シフテッドでないノンスキャロップド・ブレース仕様の最終系統。


30〜40年代とか50〜60年代とか70〜80年代とか、それぞれ素晴らしいけれど、90〜2000〜2010年代のモデルもこれはこれでまた素晴らしい。私としては、演奏楽器として十分過ぎるほどでもあり、維持のしやすさも含め、むしろ好ましくもある。

 

 

 

 

↓  Matin D-28  (2011)

 

1944年途中より2017年途中まで(D-18は2012年の大幅な仕様変更まで)の長きにわたり『ヴィンテージ仕様への回帰、わざとらしい塗装着色』などせずに標準器として続いた、フォワード・シフテッドでないノンスキャロップド・ブレース仕様の最終系統。


30〜40年代とか50〜60年代とか70〜80年代とか、それぞれ素晴らしいけれど、90〜2000〜2010年代のモデルもこれはこれでまた素晴らしい。私としては、演奏楽器として十分過ぎるほどでもあり、維持のしやすさも含め、むしろ好ましくもある。

 

 

 

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