「戦後80年」なんておこがましい
作家高村薫さんがみる日本の今/朝日新聞2025年8月12日
戦後80年の夏、私たちの現在地はどうなっているのか。「ほんまもん」の言葉をつむぎ続ける作家の高村薫さんをたずねた。
――戦後80年を迎えました。
「戦後」という言葉は80年も経つと意味を持ちませんし、数字を数えることには意味がない気がします。100年なら抽象的な意味はあるかも知れませんが。
――日本が80年間、戦争をしてこなかった証しとはいえませんか。
戦後を戦争をしなかった年月と数えるのは、私はおこがましいんじゃないかという気がします。米国の「核の傘」の下、日本が軍事大国になることを米国も求めず、ひたすら経済発展を追求できた。日本が積極的に平和のために外交で身を削った年月ではないですから。受動的にたまたま戦争をする必要がなかっただけのことです。
過去の15年戦争(1931年の満州事変から45年の敗戦まで)に対して、「侵略戦争ではなかった」という言説がちらちらと頭をもたげ続けてきた80年です。だから戦争をしなかった80年と数えるのは潔くないし、正しくないと思います。
――侵略戦争の総括をしていないということでしょうか。
国として総括したことはないです。アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えたとして反省を述べた(戦後50年の)村山談話でさえ保守層はごちゃごちゃ言っている。国民全体が共有している認識ではありません。日本は戦後と言いつつ、15年戦争を清算しないまま引きずっているような気がします。
――戦争の時代と今は地続きということでしょうか。
日本の政府も国民も、戦争を清算する発想すらなかった。まず天皇の責任を問わなかった。米国は、日本を共産圏に対する橋頭堡(きょうとうほ)にしたいということで、それを認めた。日本人は東条英機(太平洋戦争開戦時の首相)とかに責任を押しつけ、それでなんとなく終わったと思っている。けれども本当に責任を負うべきは、当時の天皇以下、軍人はもちろん大政翼賛に賛同した政治家全般です。彼らは戦後返り咲き、それを国民が許した。戦争をきれいさっぱり水に流したんです。
――植民地朝鮮出身の元徴用工や慰安婦の問題もそうでしょうか。
外交上の解決と国民としての落とし前のつけ方は別です。被害者は納得していないのに、加害者は知らん顔だから解決しない。国民同士、日本国民と韓国・朝鮮の人たちとの和解はいまだにきちんとなされていません。そういう意味でも、戦争をしなかった80年とは、おこがましくて言えません。
――戦争を巡る日本人とアジアの人々の意識の溝は残ったままです。
日本人全体の集合の意識、集合の物語が必要なのです。加害者としての。ドイツはそれをしたが、日本はしなかった。国民一人一人の責任ではないですが、日本人という集合の加害の物語はどこかでつくらなきゃならなかった。日本は敗戦したんだから。音頭をとってきちんと進めるべきなのは政治ですが、やらなかった。それができなかった80年です。
「日本人ファースト」と「非国民」に通底するもの
――日本人の集合といえば、参院選で「日本人ファースト」という言葉がちまたを飛び交いました。
明治時代、日本は脱亜入欧を掲げて富国強兵に走り、早くからアジアを侵略しました。そこには蔑視があったと思います。日本は100年以上、中国、朝鮮をはじめアジアの人々に対して差別的だったし、日本人のゆがんだ優越感は折に触れて出てきます。いまだに東京都知事が関東大震災での朝鮮人虐殺を認めないということがまかり通っています。
日本が傾き、だんだんと貧しくなる中、これまでのような優越感を保てなくなった多くの日本人が不満や鬱屈(うっくつ)の矛先を外国人に向けた。それだけのことで思想なんて何もない。
――日本の外国人政策はそもそも寛容だったのでしょうか。
最初から排外主義です。外国人労働者は受け入れるが、移民は認めず、難民申請も認めない。今さら排外主義と言うのもおかしな話で、それではだめだから共生社会をつくりましょうというのが私たちのコンセンサス(合意)だったはずです。今さら外国人政策を選挙の争点にすること自体が間違っています。
――戦時中には「非国民」という言葉がありました。
日本には昔から「村八分」というのがありました。言うことを聞かない者は排斥する。それが戦時下では「非国民」という言葉になり、今は「日本人ファースト」になった。あまり褒められたものではない、私たち日本人が持っている嫌な面です。わんさか押し寄せてくるインバウンドに対する怨嗟(えんさ)がスローガンになった。根拠のないひがみです。
――高村さんは講演でネットの言論の危うさを指摘されています。
冷戦下と比べて世界の枠組みを言葉でとらえ、説明するのが難しくなっています。基軸のない世界で、どこに正義があり、どこに問題があってどう考えたらいいのか。なかなかひと言で語ることはできません。
ですが、ネットの言論は切り取りたいところだけ切り取って単純化する。あれかこれか二項対立で切り取ります。だから広がるんです。
言い換えれば、私たちは複雑な世界をきちんと言葉で捉えるだけの忍耐を持っていない。忍耐がないし、時間もない。難しくて複雑で曖昧(あいまい)な思考に耐えられないんです、私たちの頭が。だから単純な言説にどうしても流されてしまう。
日本社会には産業、経済、少子高齢化と問題がたくさんありますが、全部に目配りをする政治が本当は必要なんです。ただ、それでは有権者の心を捉えることができない。目立つものがないから。
今回の参院選も減税か給付か、単純化して争点にする。選挙はバラマキだと言われますが、日本の経済や財政の現状はバラマキに耐えられないぐらい悪くなっている、と私は考えています。
懸念する「取り返しのつかないミス」
――ネットに慣れ、私たちは複雑な思考をする能力が落ちたのでしょうか。
政治が難しくてよくわからんというのは、昔も今も一緒です。ネット社会になり、SNSは自分たちにわかるような言葉で発信してくれる。
経済や世界の現状も難しくてわからないし、外交も何が正しいのかわからない。そんな私たちに向かってわかりやすい言葉を投げてくれるSNSに飛びついただけのことです。
――ネットの言説が広がり、戦争体験世代が減る中、日本が戦争をする危うさをどうみていますか。
歯止めがなくなっています。防衛に関する認識が国民と政治家、自衛隊で共有されているのか、大いに心もとない。国は敵基地攻撃能力をもつミサイル配備を進めようとしていますが、運用はものすごく難しい。
相手国が日本に攻撃を仕掛ける予兆を的確に捉え、撃つかどうかを決断するに足る情報収集力や国家の意思が定まっているとは言えません。外交力も米国に頼って磨いてこなかった。何が起きやすいかといえば、適切ではないタイミングでミサイルを撃ってしまう取り返しのつかないミスです。
――今年も8月15日を迎えます。
「終戦記念日」と言いますが、日本が戦争に負けた日であり、敗戦という事実を改めて認識すべきです。昔から「終戦って何だろう」って気になっていました。敗戦を掲げて初めて、なぜ負ける戦争をしたんだとなる。敗戦って言わなきゃだめなんです。
300万人もの命が失われたことについて、今更ながらですが私たちはもうちょっと考えてもいい。
そんな戦争をなぜしたのか。外交の失敗や軍部の突出、戦争に向かっていく大政翼賛の政治の姿を振り返る。すべて「敗戦」と言ってから始まることです。8月15日は敗戦の日と改めてもいいと思います。
高村薫さん
たかむら・かおる 作家。1953年生まれ。「黄金を抱いて翔(と)べ」で90年デビュー。「マークスの山」で93年直木賞受賞。「レディ・ジョーカー」「空海」「土の記」「墳墓記」など著書多数。大阪の北摂に居を構えて多彩な執筆を重ねている。
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