Facebookより

 

74年「むつ」が入港した場合

3万俵の土嚢を千隻の船に積み

母港周辺の海に沈めて水深を浅くし

「むつ」が接岸できなくする作戦

 

星川 淳さんのコメント:

この魂よ、甦(よみがえ)れ!

 

山田 勝仁

 

「私が今指令を出せばすぐさま土嚢(どのう)作戦に突入する。それでもいいのか」(杉山・県漁連会長)

「原船むつの入港は絶対に認めない」(菊池・むつ市長)

 

この写真を見るといつも胸が熱くなる。

 巨像のような原子力船をアリのように小さな漁船が十重二十重と取り囲んで、出港を阻止している。

1974年、漁民の反対にもかかわらず、日本初の原子力船むつが出航、洋上で出力試験を行い、放射能漏れ事故を起こした。

 

 原船むつは母港の大湊に帰港することができず洋上を彷徨った。

 当時のむつ市長は知識人で革新市長の菊池渙治氏(1919年ー2003年)。

 青森県では漁民を中心に原子力船むつ反対運動が盛り上がり、県漁連会長の杉山氏が原船事業団に対し「放射線漏れのむつを絶対にむつ湾に入れるな」と申し入れた。

 菊池市長は「むつの入港は絶対に認めない」と言い切った。

 

 漁師たちは強制入港する「むつ」に備えて土嚢(どのう)づくりをした。「むつ」が入港した場合、3万俵の土嚢を千隻の船に積み、母港周辺の海に沈めて水深を浅くし、「むつ」が接岸できなくする作戦だ。

 漁師たちは一人10俵の土嚢づくりを始めた。

 

 杉山県漁連会長は上京し国に抗議。

「私が今指令を出せばすぐさま土嚢作戦に突入する。どうする」と迫った。

  その抗議活動によって、「むつ」の帰港は延期となり、その後50日間洋上を彷徨うことになった。

 

 その後、「むつ」の原子炉は封印されたものの、引き取り先の佐世保でも漁民の反対に遭い、再び下北半島へ。

 母港を外洋の関根浜に移動。出力試験を行うなどしたが、1992年に役目を終えて原子炉を撤去。現在は海洋地球研究船として運用されている。

 この原子力船むつ問題で、漁師たちが1万俵の土嚢で対抗しようとしたことが誇らしい。

 

青森県民は保守的な人間ばかりではない。

 縄文の誇りがある。

 中央政府に唯々諾々と従っていてはいけない。東北独立くらいの気骨を持たないと。

 

 新知事は国に恭順するのではなく、下北出身者としての矜持を持つべきだろう。

 70年代、気骨ある知識人だったむつ市長・菊池渙治氏こそ県知事にふさわしい人物だった。

 

放射能汚染水の海洋投棄が日程に上がってきたが、この下北の漁師たちのように体を張って、海洋投棄を止める漁連は今あるか。

 

 

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