セクシー田中さんは正しい? | ♂だけどベリーダンスがんばるブログ

セクシー田中さんは正しい?

ベリーダンスというと「セクシーな踊り」と称されることが多いですよね。

 

 

セクシーという言葉は、良い意味で発しても、悪く受け取られる事が多い不思議な言葉でしてガーン、、

特にベリーをアートとして認めてほしいと思うダンサーさんが忌み嫌う言葉ムキーでもありますw

 

セクシーって悪いこと?

 

と私個人としては戸惑ってしまうこともあります。

少なくともテクニックだけ優れてるダンサーさんより、私にとっては魅力的です。

(勿論それだけというのは論外ですがw)

 

 

さてでは、どんな言葉を使うとシックリくるのでしょう…?

 

 

話題変わりますが、

実は先日、ベリーよりさらにセクシーなバーレスクのショーに出演しました❤️

私以外のゲストには、なんと元師匠のMAHA大先生もいらしたのです!!

 

MAHA先生といえば、ベリーダンスという言葉すらほとんどの人が知らない時代から、この踊りを世に広めるべく尽力された大御所です。

 

当初、バレエやらジャズやら他のダンスの先生方から

「あら、オッパイをぷるぷる振ったりする踊りがあるのねw」

とバカにされたそうです。

そのとき先生は「この踊りをちゃんとしたダンスとして世間に認めさせる」ことを誓いました。

 

ただしその方法は、身体の露出を極力控えたり、色っぽい動きを封印するといった

芸術界(とやら)に卑屈に擦り寄ったやり方ではありませんでした。

 

ベリーダンスから官能を奪うようなことはするまい

 

という信念があったからです。

官能が無かったら、それはベリーダンスではない、と。

(だからバーレスクも卑下してないのです)

 

 

 

ああ、、、それかッ!!

 

 

 

と私は腑に落ちました。

これまでどうして自分が「ただ上手なだけ」「ただキレイなだけ」な優等生的ダンサーに心を動かされなかったのか!?(それがベリバカップを始めたキッカケでもあります)

 

それは、そのダンサーに「官能」を感じなかったからだと気づいたのです。

 

 

「官能」という日本語、深いと思いませんか、、?

セクシーだね、というと、見た目とか表面的な評価ですが

官能的だね、というと、もっと深いところを指してる気がします。

 

例えばあなたが「セクシー田中さん」に出演することになって、監督さんから

「今のダンス、もっとセクシーに踊ってみて」

とリクエストされたら、(ムッとしつつも)ハイハイこうすればいいのね!

と、すぐに対応できるけど

 

「う〜ん今のダンス、官能が足りないなぁ」

と言われたら、どう変えてみせますか、、、?

 

難しいですよね(汗)

 

 

くしくも、ベリーダンスの書籍を2冊出した関口 義人氏の1冊目のタイトルは

「ベリーダンスの官能」でした。

 

 

ずいぶん時間が経って、やっとこのタイトルの価値を理解した気がします。

(光栄にも2冊目の「ベリーダンス〜伝統と革新のあいだで」では私もご紹介いただきました!)

 

セクシーで勝負するなら、若さ、ルックス、プロポーションなどで有利不利が分かれますが、

官能は、たとえ年齢を重ねていても、男性であっても宿っている事が十分にある、超越した感覚です。

 

 

MAHA先生、さすがだなあ!

 

 

私はこれからも、ただ派手なだけではなく、心を震わせてくれるダンサーを追い続け、皆に紹介し共有し、自分自身も目指したいと思ってます。

 

そう「セクシー田中さん」ではなく、「官能・田中さん」ですね(笑)

(※ドラマはストーリーが面白いので全話観てま〜すw すごく頑張って作っておられると感心してます😀)

 

 

 

さてさて、

来年のベリバカップもブレずに、審査員のZIZI先生Mayady先生により「ウマい・キレイ・派手」だけでないダンサーを発掘し、流行りだけに捉われない世界を求めていきたいです★(発表もう少し待ってね)

 

私の中で頂点のこの御二人にたっぷり踊っていただく、1月20日(土)「劇団蒲田・ふたりのビッグショー」も昼の部は残り少なくなってまいりました。

上質な官能を堪能できるこの機会をお見逃しなく!

 

詳しくは下記をご参照↓

 

 

 

 

 

 

 

<おまけ解説>

バーレスクというのは、ストリップのように全部見せてしまうのではなく

脱ぐ過程のティーズ(焦らし)をメインにした大人のエンターテインメントです。

 

アギレラが出た映画「バーレスク」は単なるセクシーダンスですね。。

世界的に有名なDita von Teeseをググってみれば本質が分かりますよ↓

 

どんな事も極めればアートです。

アートと認められたいから本質を捻じ曲げる、という時点でもはやアートではないのです。

そして芸術と官能は同居できるのですよ。