数カ月掛かりやっと例のアロハシャツにゴールが見えてきた。しかし市場は納期遅れ3カ月目にして、もうクレームも爆発寸前の雰囲気。それでも後は信頼置ける工場長のもとでカタチにするだけ。もう少し…

 

 思えば色々なモノを手掛けた。私が所有する「あのヴィンテージ品たち」も躊躇なく切り刻んだし解体もした。どんな環境だろうと、失敗があろうとこの場とこの職がすごく好きだった。しかし、規模が大きくなるほど上司の判断に疑問を募らせる結果となったのだ。そしてどんなに頑張ろうとも、貢献しても「信用を得られないだろうな」とも感じ始め確信になっていった。語弊が無いように加えるが、私はこの企業とこの職に大変感謝をしているし、育ててくれた恩すら感じている。

 

退職を決めたのは数カ月前、最後にしっかりした企画と商品を残すつもりで挑んだアロハシャツが大失敗に終わり、初めて企画した商品も個人的に思い入れがある商品も、相変わらず資金が無かったために全て会社に返却すると決めたが断腸の思いとは正にこのこと。たくさんのモノを企画し販売し手掛けた気持ちではいたが、結局私の手には何も残らなかったのだ。それでももう一度書こう、この会社が好きだったしこの職は天職だとも感じていたと。やはりヴィンテージから始まりモノ創りそして販売と服に係わる、もしくはアメリカ文化に係わる仕事が私の中では揺るぎない「やりたい仕事」だった。

 

長野県に住む理由を失い秋田県へ戻ることにした。初めて長野県に来た時と同じ、真紅のダットサントラック620に荷物を満載にして帰省した。唯一進化したことは、愛車に少し手が加わった位だろうか。文面ではあまり触れていないが、深夜だろうが朝早くだろうが相手にしてくれたクルマ屋の親父のお陰で仕事以外の仲間も沢山出来ていた。そこで少しばかりクルマをカスタムしたとしておこう。

久しぶりに帰る秋田県は、人口減少に歯止めが掛からないこともあり、目に見えて衰退していると感じるほどだった。長野県の企業を退職する際に一つの約束をして後にした私。それは「同業では働かない」というものだったが、秋田の環境を見る限り「同業に勤めることはなさそう」と自分自身を諦めるよう仕向けていたし実際にそんな企業すら存在していない。

 

また社会人になる前のように、何もかも忘れてお金のために「職を選ばす」働けばいいさ。

そう思っていた。

服やクルマはあくまで趣味なんだと。

 

26歳 村松隼人 秋田へ帰省