市役所の方に歩いてみることに
最初のボランティア活動の時に拠点だった矢本保健相談センター、
2度目の時にテント張りの拠点になっていた、コミュニティーセンター横の広場。
いずれも、普段の日曜の姿に戻っています。
1度目の時昼食をとった市役所の向かいの居酒屋も店じまいしてしまったようで、
壊れた看板がもの悲しく思いました。
全国から有志、或いは自治体の応援職員が集まっていたあの頃が嘘のようでした。
でも、これで良いんです。これが普通の姿ですから。
ちょうどお昼前のこの時間ですので、東松島の経済にほんのちょっとだけ貢献すべく、矢本駅近くの蕎麦店でお昼をとることにしました。
鴨ざる。
今まで食事もそこそこに旅を前に進めることばかり考えていたので、鴨と葱、そばのハーモニーに感激しました。
この日はちょうど1983年5月26日の日本海中部地震から30年。ネットのニュースで知りました。
地震があったのは正午前といいます。この地震の時も津波で多数の犠牲が出ました。
しかし、あの頃はその後2万人近い犠牲者の出る地震を目の当たりにするなんて、思いもしていませんでした。
ちょうど1時間矢本を歩いて代行バスで再び仙台を目指します。
石巻~矢本の仙石線、そして代行バスは概ね1時間に一本程度の運転です。
バスは20名程度の乗車。
3歳くらいの子供が女性に連れられてバスに乗ってきましたが「電車でないと嫌だ」とだだをこねていました。
国道45号線にでてしばらくすると、左手が田園地帯になります。
松島基地があるためか民家や視界を遮る建物も少なく、海岸線の松林が見えます。
松林も相当に傷んでいる様子です。
国道45号も地震直後は津波に流された漂流物でふさがれていたというほどですので、この田園地帯も全て浸水しています。
塩害もあるのか、耕作している農地はごくわずかです。
採石がえぐられていた仙石線もこの先の陸前小野までが運転再開。
田植えの終わった農地もあり、着実に回腹の方向へ動き出しています。
左前方の丘の間にある谷間を切り土しているのが見えます。
あのあたりが仙石線新線の敷設場所になりそうです。
鳴瀬川まで来ました。
しかし、堤防道路は堤防のかさ上げ工事のため通行止め。
代行バスも迂回します。
そう言えば最初に通った時は堤内地の田んぼに小舟などの津波漂流物が散乱していました。
迂回路の脇には野蒜地区の集団移転地があり、造成工事の真っ最中でした。
野蒜から東名地区にかけては津波で多数の家屋が大破。
また、地盤沈下で海水に浸かったままになっている地区もあるため
集落が高台に集団移転することになりました。
バスは、野蒜小学校の脇を通って東名運河沿いの道路に出た後、野蒜駅の方向に少し戻ります。
かつて、目を覆いたくなるような悲惨な状態だったこのあたりも、ほとんどの家が取り壊されて更地になってしまいました。
移転先がまだ造成中ということは不便な生活を強いられている方も多いわけで、一日も早い工事の完成が待たれます。
野蒜駅も架線柱が破壊されたまま。
線路が付け替えられ、同時に駅もそちらに移転しますのでもうこの駅が使われることもありません。
地獄の様相を呈していた東名運河も今はすっかり静かな佇まいです。
しかし、護岸が破壊されたままで、痛々しさはそこかしこに見受けられます。
東名駅も線路の付け替えと共に移転します。
このあたりも家屋がめっきり少なくなってしまいました。
そして裏手の農地はまだ海水が引いていません。
陸前大塚の手前のこのあたりが既存の線路との接続点になりそうです。
松島で若干渋滞したもののほぼ定刻で松島海岸駅に到着しました。
JRでは現在、宮城県のキャンペーンを展開していてJRの制服を着て撮影ができるサービスなんかもやっていました。
松島は多数の観光客で賑わっています。
先程まで乗ってきた代行バスが今度は矢本に折り返していくのでしょう。
仙台駅に到着。
たっぷり歩き回ってきたのでちょっと休憩。
風薫る五月に。やはり「ずんだ」は外せないでしょう。
ということでこんな感じでお茶してみました。
こちらもJRの宮城キャンペーンの一環ですね。
Suicaペンギンの仙台バージョンです。
伊達ペンギンとでもいいましょうか。
おみやげも買って帰路へ。
帰りは「はやて40号」。
「はやて」ですが新型です。
夕陽を追いかけながら、「はやて」は南へ。
朝方はあまり天気が良くありませんでしたが、途中から持ち直してきました。
盛岡から石巻経由で仙台まで在来線の旅。しかも早朝から濃い旅になりました。
東松島の今後も気になるところですし、三陸の街も一度訪れてみたい気がします。
さて、次はいつになるんでしょうか。


