「今」のもう1つ上へ。 ~ひとまず脱・無気力へ~ -11ページ目

「今」のもう1つ上へ。 ~ひとまず脱・無気力へ~

テーマは「今」の自分よりも1つ、そしてその自分よりまた1つ、と成長すること。そのための日々の記録、思ったこと、あとは普通に日記とかを書いていきます。

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)

 

著者:平野 啓一郎

 

 

 

 

「個人」という単位をさらに「分人」という単位に分けると、

社会で生活するにあたっていろいろと気持ちの悪かった部分が、

多少なりとも解消されるという、そういった内容の本。

 

 

 

言葉にするのが難しい感覚を、

上手く言葉にして表現して、

まとめられている感じ。

 

難しい部分もあるけれど、

読み進めていく後の方が、自分にとっては具体的に感じ、

理解しやすい展開となっている気がする。

 

ただ、理解できないというか、受け入れ難い部分もあるかな。

それは自分が頑なで、その自分を過ごした時間が、

自分が生まれてから今までの間で長い時間を占めているからであって、

柔軟ならすぐに受け入れられるのではないかとも思う。

 

 

 

自分は「自分らしくありたい」という気持ちで生きてきた。

 

本書でいう「分人」と同等と考えていいのか分からないけれど、

「役割演技」と言うものが気持ち悪いと思っている。

 

慣れない誰かと喋っているときの、

例えば声が上ずっているような自分は「本当の自分」ではなくて、

慣れている誰かと喋っている落ち着いた声の自分が「本当の自分(に近い)」と感じている。

慣れている誰かと過ごす時間が、「慣れている」と言えるほど長い時間であれば、感覚としてはそれが「本当の自分」だと信じている。

 

だから本当は、誰に対しても「本当の自分」であるのが自然なことで、

「役割演技」は不自然なことだと考えていた。

 

電話でしゃべる母親の声が普段の声より高くなるのを聞いていると、

気持ち悪いなと感じる。

そうでありながらも自分だって、電話のときにはたいてい高い声になってることに気付く。

そして自己嫌悪に落ちるのだ。

 

人の中には

ある人に対するときの分人、

またある人に対するときの分人、

と複数の分人が存在して、

そのどちらもが「本当の自分」である

という本書の考えには救われる。

 

 

 

友達と過ごしているときの自分を親に見られるのは恥ずかしくて、

親と過ごしているときの自分を見られるのもまた恥ずかしいと思っていた。

それらの自分にはギャップがあって、どちらが自分らしいのか、

片方は自分らしくないのかと考えてしまう。

 

それも、それぞれに対しての分人があって、

どちらも「本当の自分」であるということだ。

しかしながら、

それぞれの分人を別の人に見られるのが恥ずかしいことには変わりないかな。

 

 

 

その他に書き留めておきたい言葉。

 

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態

他者を経由した自己肯定の状態 p136

 

このあたりの、

恋愛と嫉妬についての部分が特に具体的でわかりやすかったと思う。

愛をそのように捉えると、人との間に愛を共有できているかどうかが確認しやすいように思う。

しかしながら、その人といるときの自分が好きかと言えば、

どうもそういう実感は現時点では味わったことがないと思われる。

ネガティブなだけだろうか。

 

ただ相手と喋っていると楽しい、楽しいから笑顔になって自信が持てる、というのはポジティブな感情を得ることができて、

つまりはその人といるときの自分を、少なくとも嫌いだとは思わなくなれるだろう。

 

そういう相手といる自分が長い時間を占めれば、

分人の構成比率的にも、自己肯定感が強くなるのかな。

 

 

 

もう一つ書き留めておきたい言葉。

 

子供たちは、社会の中で様々な分人化を経験して、大人になる

そうすると、犯罪の責任の半分は、やはり社会の側にある。 p162

 

これはまさに思ってることで、

自分の暗さとか卑屈な性格とか、

自分は素直だったのに周りのせいでこうなったと感じている。

 

自分はまだ犯罪はしていないけれど、

隣り合わせにいると思っている。

 

自分勝手な行動をする者、

自分の行動範囲の中での身近な例でいうと、

信号無視をする者、

自分なんかは信号を守っていながらも信号無視の車に轢かれた上、

周囲の人間がこちらが赤で渡ったと難癖をつけてこられた経験があり、

その思いが特に強いのだが、

そういうことをする者を処罰してやりたい、消してやりたい、

それが正義だと思っている。

そういうやつがいなくなれば、平和になると信じている。

 

この感情は間違いなく他者の行いから生まれたものであるし、

例えば自分がそいつを殺しても正義だと思うその考え方も、

他者の行いから生まれたものだ。

 

そうなるとそれは「犯罪」と呼ばれるに違いないけれど、

やはり他者に責任があるし、必ずしも悪いことであるとは考えられないのではないかと思う。

 

 

 

 

 

あとは、

こういった考えに至る前から至った後の、

それぞれの平野さんの小説がどのような考えで書かれたのかが紹介されていて、

興味を持った。

 

 

 

 

 

 

 

『真夜中のマーチ』(集英社文庫)

 

著者:奥田 英朗

 

 

 

 

 

面白かった。

ということには違いないのだが「とても」とまではいかない感じ。

 

例えば自分が登場人物の立場だったら、

もちろん緊張して疲弊するだろうとは思うけど、

読んでいる分ではいまいち、こう、

出来事の振れ幅が小さいような、そんな印象。

 

読みやすく、読んでいて疲れないのはいいのだけど。

 

まあでも、強盗するっていうのは夢があって、ワクワクしてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

『私と踊って』(新潮文庫)

 

著者: 恩田 陸

 

 

 

 

 

ファンタジーやSF要素が強い短編集。

 

一冊を通してそれぞれにはおおよそ関連性はなく、

それぞれで完結させられているものが多いが、

すっきりしないものが多い。

 

理解も追いつかない。

 

例えば一つずつ長編なら、

もう少し入り込めて状況を理解しつつ読め、

「面白かった」と言えたのではないかと思う。

 

恩田作品の中で初めてハズレを引いたと、今の段階では感じている。