突然ですが、感じたことがあるので書かせていただきます。
ご覧になった方はわかったかと思いますが、今日の東京12R4歳以上1000万下で2着に入ったシャイニンアーサー。ゴールまで残りわずかの地点で左第1指関節脱臼を発症。ゴール板は通り過ぎたものの、その後すぐに騎手が下馬しました。
このレースでシャイニンアーサーは、これまでの競走馬生活において一番のパフォーマンスを見せました。鋭い瞬発力が使えるわけでは決してない同馬が、持ったままで坂を上がってきたのです。
先に抜け出したレインスティックに馬体を併せ、交わしたその瞬間、脚が悲鳴を上げました。前につんのめったシャイニンアーサーはしかし体勢を立て直し、なんとか惰性でゴール板を通過しましたが、口を割って苦しそうに止まりました。
シャイニンアーサーは2歳時から気性的に難しい面があり、安定して走れるようになったのはここ最近の話でした。ブリンカーを着用していることからもわかるように、いつレースを投げてしまうかわからない危うさを持った馬でした。そんな同馬がなぜこれまでと全く違う走りを見せたのでしょうか。
馬という生き物は、基本的に愛情を捧げてくれる人間の期待に応えようとする生き物です。自分のまわりにいる人間たちが、自分が勝つことで嬉しい顔をしてくれる。そんなことをほとんどの馬はキャリアを重ねるにつれて理解していきます。
12Rの一つ前のレース、青葉賞で同じ藤沢和雄厩舎の所属で、人気になったサトノギャラントを始めとした僚馬がみな惨敗しました。ダービーに出走させたかったであろう厩舎スタッフは残念な気持ちになったと思います。そんな厩舎スタッフの間に少なからず漂ったであろうどこか寂しく重苦しい空気。それを変えることができるのは誰でしょうか。シャイニンアーサーは自分が変えなければならないと感じたのです。
競走馬は走るために生まれてきたといわれます。馬たちにとって、走ることがすべてなのです。そんな勝負の世界において、これまで一度も「マジ」にならなかったシャイニンアーサーが己の限界を超えて人間たちを喜ばせるために走った。その結果、非情にも競走生命に終止符が打たれてしまった。私はこのレースを見てからしばらく黙りこんで考えていたのですが、こんな考えにまとまったのです。
立てなくなったり、一瞬で倒れこんでしまうような故障でも、馬は前へ前へ進もうとします。フラムドパシオンもアドマイヤコスモスも、そしてこのシャイニンアーサーも、たとえ自分の脚が痛くても、今ここでレースを止めたらどうなってしまうのかは感じ取ります。
仮にシャイニンアーサーに上述のような気持ちがあったとすれば、自分が止まることで周りの人間がまた残念な気持ちになる。自分は人間を喜ばせるために全力で走ったのに、悲しませてはいけない。そうほんの少しでも感じたがために、前に倒れかけても踏ん張ってゴール板を駆け抜けたのではないでしょうか。
競馬を見ている上で、このような出来事が起こってしまうのは仕方のないことではあります。しかし、こういった場面から何かを感じ取ることができれば、馬たちが発信したかったメッセージを受け取ることができれば、競馬の見方は少しだけでも変るものです。私にもライスシャワーという教科書となった名馬がいました。このブログをご覧の方にも、今回私が書いたしょうもない持論でもいいので、なにか心のどこかで覚えていていただければ、ターフに散った馬たちの鎮魂になると考えます・・・
最後になりましたが、シャイニンアーサー号のご冥福をお祈りします。お疲れ様でした。
※ここまでに上げたものはあくまで私の推論です。決して間違いないと断言できることではないのでご了承ください。