[石橋湛山] | ユリの木の下で

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ゆりの木の下で大きく成りました

石橋湛山再び

 

17日(金)読売新聞より

うわっ

9人

うう~ん

 

 

 

色褪せぬ100年前の社説「一切を棄つるの覚悟」 没後50年にして政界 ...

湛山は戦前、

東洋経済新報の社説「一切を

つるの覚悟」(1921年)

「大日本主義の幻想」(同)

で、

 

朝鮮(当時)や関東州(現中国東北部)、

台湾などの植民地放棄といった

小日本主義を訴えた。

 

「武力で他国を制圧することで国を富ませる考え

は必ず

破綻する。

>その通りに成って行った日本

植民地を放棄することで

世界の歴史の流れを大きく変えるべきだと言い続けた」

>湛山がトップでいたなら

戦後を迎えずに済んだと・・

 

「今回の防衛費倍増が

果たして日本の国情に照らして

正しいことだったのか考え続けることが

必要だ。

 

大事なことは、

いかに戦いを起こさせないか。

必要だ

 

湛山には

仏教の世界平和という考えが根底にあり、

それが生半可ではない。

 

大学で哲学を身に付けたことも大きい。

経済、政治、外交とあらゆる分野の扇の要となり、

思考がぶれなかった。

 

世界の中で

日本がどういう役割を果たすべきかという

ビジョンが

常にあった」

 

「湛山は日本の経済力を上げ、

日米対等になって初めて安保改定できると考えた。

防衛力強化で

日米同盟を強化しようとした岸(信介)

対米姿勢とは違う」

>湛山病気で次期首相は岸

 ※の下に

 そして挙句の果ては

 東京

 広島

 長崎

 

戦争ではあるけれど

その※に

人類最大の破壊をされた

 

それでも今なお

※の☂の下に居る

 

遣られた日本国民は誰一人☂の下に居ようなんて思っていない

き・から始まったトップのしわ・・・・といって間違いない

 

なってしまって初めて判る

其れが

今だ判らない

じみ・・・・・

そして

筆頭

 

湛山よ再び

 

占領期最大の恐怖「公職追放」:次期総裁候補の石橋湛山蔵相を ...

吉田茂が恐れたのは

石橋湛山

 

白洲次郎がほめた湛山

吉田茂首相特使の白洲次郎。講和条約締結に向けた下準備のため渡米した=1950年4月25日(共同)

吉田茂の側近として活躍し、

GHQ要人に

「従順ならざる唯一の日本人」

と言われたという

白洲次郎が

こう言っていた。

「あの時分(占領期)一番残念に思ったのは、

日本人が東洋人には偉そうなことを言うが

ビーグルしっぽビーグルあたま猫しっぽ猫あたま

西洋人にはからきし、

だらしがないことだ。

 

内閣の閣僚で欧米人に平気でものを言って、

一歩も退(ひ)かなかったのは

石橋湛山ですよ。

 

 

 

 

 

 

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