①の続き
脚本について。基本的に原作の雰囲気や構成そのままに。何分原作自体が長編であり、
かつどんどん現われてくる壁、もとい敵を倒し武芸者としての成長を描く物語。
そのエピソードごとに波と言うか見せ場があり(元々新聞で連載されてたという
経緯もありますので)次は次は?とどんどん読ませてくれますが、
舞台ではそのエピソードをぶった切って要素の濃い部分だけつなぎ合わせているので
どうしても挿絵的と言うか、淡々と大きな見せ場なく進んでいる感は否めません。
舞台的には小次郎と武蔵の決闘をもう少し“魅せて欲しい”のと武蔵の成長を
段階的に示してほしいところですが、一流の武芸者同士の戦いは静寂の後一閃の元
決着が付いてしまうこと。そもそも武蔵が決闘の段階でも成長過程であることが要因。
だからこそ武の頂と思っていた小次郎を討ってすら虚しいと感じたし、更なる修行のため
最後に旅立っていったわけですが、この境地は小次郎は武蔵父と戦った時すでに達したものであり、
この時点になってようやく並びえたのが天才型小次郎と努力型武蔵の違いでもあり。
この境地って実は『サンファン』の凛もたどり着いたんですよね。あの人の場合は剣に飽きて
盗賊になったけどwファンタジーでも史実?であってもたどり着くところが同じと言うのが面白いというか。
少し脱線しましたが、その描写に忠実であろうとしたサイトー先生の意気込みは伝わります。
このシーンだけでなくても場面場面ごとに原作(というか武蔵)へのリスペクトが感じられますね。
ただ、それが宝塚の演出として正しいかどうかはう~んと悩ましいところです。
(個人的には原作のあのシーンが三次元に!と結構喜んだりもしましたが)
勿論原作そのままというわけにはいかず、脚色している部分もあります。
小次郎周辺がそうなんですが、中々に興味深いというか面白いと感じました。
(ロザリオを何度もあげても出てくるのは物理的に面白かったですが(笑))
この小次郎は武蔵の最大のライバルというだけでなく、武蔵の単なる武芸者として
だけでなく、人生においても先導者です。描き方の問題か、果たして美弥ちゃんの
存在感がなしえる業か。一般的解釈な沢庵以上に大きな影響を与えているよう感じます。
事実ポイントポイントで出現し、助言し、時には命を助けたりもする。
そんな小次郎を最後武蔵は越えたのだろうか?答えは否。と私は思います。
「剣 の道を極めた先は山の頂ではなく無辺の海原のようなもの。
極めるほどに果てが見えなくなる」とは誰が言ったものか。(注・凜雪鴉w)
小次郎はその先の見えない道中にあって周りに誰もいない(自分と並び立つものが居ない)
その孤独と必死に抗いながら、自分と共に剣の道を究め並び立つものを求めていたのでしょう。
或いは・・・その先の見えない道、力衰え野枯れ畳の上で安穏と死を迎えるぐらいなら、
自分が認めたものに終止符を打ってほしいと心のどこかで願っていたのか。
(ほんの少しですが、武芸の道と男役を極めるのは終わりがないという点で似ているなと)
実はその心こそが小次郎の驕りであり、鞘を投げ捨て無二斎と同様の言葉を
武蔵に投げかけられたとき、はたと自分が長きにわたり道を歩いてきたにもかかわらず
その頃から成長していない(未熟なまま)と自覚し動揺したのではとも思ったり(妄想ですが)
技量だけでは恐らく武蔵は小次郎に及ばずながらも、その動揺の虚を突き勝利を得た。
かといって、武蔵が勝利の先に経たのは剣の道の頂でもお通との安穏な生活でもなく、
小次郎がとうにたどり着いていた真理だったわけだったんですが(あの凛さんの言葉ですね)
トップコンビお披露目ということで最後お通と一緒になってほしかったという意見もわかります。
ですが、ここまで原作の世界観を押し通したのであれば、武蔵が最後まで武の道を突き通し
小次郎の魂を受け継ぎ孤独に歩んで行くのはむしろ良かったと思っています。
私的感情が入りすぎてますが、なんとなく美弥ちゃんの心を受けてトップとしての道を歩む
たまき君の姿に被ったりして。さくらちゃんはゴメンやけど、その分ショーで結婚式あげてるし
確かに最後武蔵が一人去っていく所は退団みたいですが、それを言えば『エルベ』もですし。
まぁお披露目らしさという話をしたら、たまちゃぴのトップコンビお披露目だって
めでたしめでたしとは言えないし、だいきほに至っては大劇はずっと悲劇のままですからね
何をもって「良し」となるのかは正直わかり辛い所ではありますね。
続く