月組大劇『エリザベート』感想④ | ★F**kin' Perfect★

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徒然なるままに、つらつらと。。。

の続き右矢印

 

最後に脚本について。といっても脚本というより作品に対する考察というか。

初めてこの作品を観た時、トート閣下の一人の少女を愛してしまってからの片思いな

純情物語と思っていました。詮無い言い方をすると、ロリコンからのストーカー(お巡りさん!)

 

ご存じない方も多いかもしれませんが、その昔『悪魔の花嫁』という漫画があって、

悪魔が一人の少女を花嫁にしようとあの手この手で誘惑をします。

元は少女を愛したというより器として必要なだけでしたが、本当に彼女自身を

愛してしまい、彼女が望まず花嫁(死)になりそうな時に押しとどめたりしたり。

まぁ、違う点はあれどこの作品に共通点を見出していました。

しかし、最近はどうもそうではないような、そんな気がしてきたのです。

 

東宝版を見たことがないですが、ウィーン版はいたって簡単。トートはあくまで“死”であり、

その姿はシシィと分身でもあるルドルフにしか見えず、常に死の影を

感じながらも懸命に自分らしさと自由を求め生きた『エリザベート』の物語。

ウィーン版を見て面白いなと思ったのは、民衆を煽ってるのがひたすら

ルキーニという事(そもそも革命家がいない)トートはひたすら傍観するだけ。

 

しかしそこは宝塚。“愛と死の輪舞”であり、トートは黄泉の帝王。

革命家や民衆、シシィの侍女にもその姿は見えており、ちゃんと実体がある。

そもそも黄泉の帝王ってなんなんでしょう。煉獄の裁判官との関係は?

どっちが位が上なの?なんて下世話なことも考えたりしますが汗

 

まず“煉獄の裁判官”ってのがおかしな話で、煉獄はあくまで罪を浄化するところ。

その浄化する罪の査定をしているとも言えなくはないですが「この煉獄を出ることはならぬ!」って

煉獄を出たら行きつくところは天国。あのグッディたちもいるところにルキーニも(笑)

 

カトリックの教義として、最後の審判を受けた後に極悪人は地獄に、罪の犯してないものは天国、

小罪を犯したものは煉獄に回され、残した罪を償って天国に行くという。

でも、、、ルキーニは無政府主義者に恐らく無神論者、行きつく先は地獄な気が、、

まぁ、煉獄だからこそ罪を償い中の他のハプスブルク家の霊魂を召喚できたとも言えますが。

 

とまぁ訳の細かいところをつつくのは止めにして。トート閣下は一体だれなのか。

そもそも“閣下”や“黄泉の帝王”なんてたいそうな名前で“彼”を呼ぶのはルキーニだけ。

本当の彼は「人の命を奪って(人目線から)弄ぶ」いち死神だとしたら(オーストリー

担当みたいなw)煉獄の者たちが彼の事を知らなかったことも頷ける気がします。

 

そんな彼が本当なら奪うべき少女の命を奪わなかった。そして命は返された。

今まで木から落ちて気を失っている間に夢枕に立ってただけとも思っていましたが、

どうやら本当に死んでいて命が返されたのだと、今回生で見て思えるように。

 

結果その事が彼女をその後何十年もの間苦しみに閉じ込める事になるのだけれど。

トートもまさかトンビが油揚げ掻っ攫うかのようにフランツに取られるとは

夢にも思っていなかっただろうしあせる(心なしかフランツに嫉妬心でメラメラですから)

 

そもそもシシィは“皇后教育”を受けていない。他の妹たちがあちらこちらの王妃に

なっているところを見るといずれはどこかの王妃になっていたかもしれませんが、

そこは規律を重んじ権威を守り続けてきた厳格なハプスブルク家。動物たちと戯れ大自然の中

生きてきた彼女にとって首飾りを掛けられたときはこんな生活と夢にも思わなかったでしょう。

 

時折思うのですが、野に咲く綺麗な女の子が王子に見初められ王妃になるシンデレラストーリー。

その後が本当は大変なんじゃないかと、『エリザ』を見るたびに頭をよぎります汗

 

彼女にとってフランツとの結婚は不幸の始まりでしたが、自由を愛しすぎる皇后の存在は

周りの人間にとっても(勿論フランツも)不幸でしかない。フランツの愛はそれほどに重い。

一方で彼女がなしえた功績もありますが、それはあくまで自分が自由を求めた、

あるいは牢獄から抜けようと彷徨い続けた結果にすぎないでしょうね。

 

そんなシシィをトートはどうしたかったのか。人が死を愛する=死だとしたら、彼は彼女に

愛してほしかったのか、それとも生きて欲しかったのか。彼はあの手この手で

彼女を追い詰めていきます。それこそ革命家たちを扇動したりして。

 

余談ですが、革命家ジュラはハンガリーの初代首相であり、作中はあんなに罵っている

シシィとは近しい仲だったとか。エルマーは1932年まで行きハプスブルクの終焉を見届け、

シュテファンは実は穏健派。劇中の苛烈な様子から想像が尽きませんが、、、

 

彼女を追い詰めることが逆に彼女に生きる意味を見出させてしまった。

でも強く彼(死)を拒絶するそんな彼女を見る目がちょっと嬉しそうだったり←マゾか

追い詰めすぎて、彼女が彼女の意に沿わない愛を受け入ろうとしたときは拒絶したり。

 

彼女がボートの行きつく先を定めるまで何十年も待つのは何とも気の長い話ですが、

やすりで刺された(本編では短剣)時には、愛を受け入れるべくして受け入れたのかなと。

(他殺ではありますが、死すべきして死んだ)だからこそ彼の声に反応した。

 

他方、先ほどフランツに嫉妬心があったといいましたが、最終答弁でフランツに

痛いところをつかれて「ほなやってやろうやん!」とムキになったとも見えますが。。。。

どちらにせよ、純愛風に最後終わっていますがずいぶん屈折した愛ですよねあせる

 

と、トートに導かれあの世へ行くわけですが、行きつく先は三途の川、、

じゃなくて先ほど出てきた“最後の審判”からの恐らくは煉獄行き。折角愛を

受け入れてくれたというのに、すぐにわかれなきゃならないなんてトートも憐れ。

(彼は“人”ではないので、愛を受け入れた時点で完徹しているのかもしれませんが)

シシィにとっては先に行ったルドルフとも会えるわけで←ゾフィもいますが。

 

或いは、煉獄のシーンにはいなかったわけで(演出上ではありますけど)

もしかしたら黒天使のように今ではトートの傍近くにいたりだったり。

そんな彼女の初仕事?がハプスブルクの崩壊だとすると、輪廻の世界。

 

もしくは、、、アメンバー様がおっしゃってて「なるほど!」と思ったのが。

『ユージュアル・サスペクツ』という映画がありますが、本編の話全部がとある男の

作り話というオチでして、ルキーニがずっと語っていたのはそれこそ“夢物語”

トートの存在も彼が愛したというのも作り話、或いは彼の妄想だったというもの。

それはそれで、彼が最後にあんなにも語りたがっていたのがわかる気がします。

 

4作目からの新曲「私が踊るとき」に自分をかもめに例えていますが、

彼女が放浪の途中でこう書き記しています。

“私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。

その中に必ず、ほどんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。

時にはそのカモメが、大陸から大陸へ移動する1週間の間、

ずっと私に付き添っていたこともあった。そのカモメは私の<運命>なのだと思う。”

ルキーニの夢物語もありという話をしましたが、その黒かもめこそがトートだった。

そう思えてなりません。

 

 

以下、全体感想と言う名の長文駄文でしたショック!

力尽きてしまったのでとりあえずここまで右矢印(個人の感想はできたらまた)