乙女座満月の前の一週間、

珍しく、私が住んでいるところでは、雨の日が続きました。

 

自愛を進めてから、ここ数年の記憶の限りでは、私は、「雨・雪・台風避け」が得意です。

雨や雪や台風がきそうな時間帯が、私の、通勤とかの移動時間と一切重ならないのです。

高校野球遠征と台風接近が重なった時に、ギリギリ、新幹線の運休を回避して、通常運転で移動できたことも、ありました。

他、天気予報で重なりそうになっても、なぜか、当日、時間がずれた、なんてこともありました笑。

 

なので、今週は、珍しく、私の通勤日に雨が重なる日が続いたということに。

職場に傘を持っていくこと自体久しぶりの感覚がありました笑。

 

・・・そんな雨の日らしく、とでもいいましょうか。

デトックスの雨、溜まった古い傷を流す雨、とでもいいましょうか。

寝ている間に、夢、というわけではなく、意識の中で自己対話して、自分を癒したことを覚えていましたので、その話を書きます。

そして、そのときに向き合ったネタが、まさに、今まで、算命学の宗家のお話で聴いたことともリンクしていました・・・。

 

・部下の指導離脱でわかった「NGライン」のからくりと気づき

先週、私は、部下の指導を辞めることになりました。

その原因は、私の「こういう人と接点をもつのはNG」というラインを、部下に侵されたと感じたことがストレスになったことです。

 

 

で、気づいたのが、このラインの定義はいつどこでできたか、というと、

親と縁を切るときに、できていた、

つまり、私からみた元母親のことを定義していた、という話だったのです。

 

「こういう人と接点をもつのはNG」というラインは、

1:自分主体で考えようとしない。思考停止が習慣化。また、物事の本質を見ようとしない。

 

2:プライドがこじれており、自分、特に自分の闇と向き合おうとしない。自分の闇から目を背け続け、その面倒を人に見てもらおうと依存する。(=今はまだ向き合うのがうまくなくても、向き合っていこうという意志があり、そうしようと行動していくならOK)

 

というのは、部下との接点から気づいたのですが、

自分を掘り下げてみると、もう一つありました。

 

3:私に向かって、精神的または肉体的に攻撃を続けてくる。(精神的な攻撃は、「コントロール」(支配欲)や「言葉の暴力、特に、人格否定っぽい言葉」です。)

※「続けてくる」というのがミソです。

いっとき、過去の行動パターンから、やりかけてしまったとしても、

それに気づいて立ち止まり、「言行一致で」自分を変えよう、もうこんなことはしない、と、自分と向き合って変えていき、ゆくゆくはなくなっていく、ならOK。

(そりゃ、人は誰しも、失敗すること、ありますから。私にだってあります。)

元母親の場合は、私が「傷ついた」と言っても、「そんなこと言った記憶はない」と返されるか、たとえ、いっときは謝り、「もうしない」と言われることがあっても、言行不一致で、また同じ言動、態度が繰り返された、という状態でした。

 

3は、今回の部下にそのようなことはされなかったので、当てはまらなかったのですが、元母親の場合は、大いに当てはまっていた、

というか、1や2もあったのですが、

3がメインの「離別」の引き金になった理由でした。

 

そして、このNGラインは、1、2、3どれか一つが侵されようものなら、私のキロンである、牡牛座24度の「徹底的に自分を守るために、相手に攻撃する等して、距離を置く、逃げる」が発動する、という仕組みになっています。

 

ここは、私の中の「愛しい、一番大切な自分を守る」という要素ですので、

自らの良心と資質に基づいた話です。

ですので、もちろん、変えることはできません、変えようがありません。

 

 

・親との因縁、部下との縁

数日前に書いた、高尾宗家の因縁のお話↓

 

その中に、

他人に対して冷たくする、他人を都合よく利用する、邪険に扱う、とかをしてしまうと、そんな仕打ちを受けた他人は、その人を恨む

 

という話があります。

この話のポイントは、「恨む」の主語が「他人」であることです。

 

こちらとしては、己の価値観、理性、良心、愛に基づいて、

自分と相手のためを思って選択し、接したとしても、

受けたときの相手が「冷たい仕打ち」「酷い、邪見な仕打ち」と捉えれば、

そのときに、こちらは「恨み」の気を受け取ったことになってしまう

のではないか、と思いました。

 

私が、元母親に離別を言い渡したのは、2回ありました。

1回目は、介護していた父親が本格的に施設に入ることになり、自宅介護が終わったとき。

このときは、

「(この、夫(※母親からみたら「夫」です)と別れて一番心が辛いときに)なんであなたは、私が辛いときに、支えになってくれないんだ、

それどころか、そんな、別れるだなんて、私をさらに突き落とす酷いことをするんだ」

あんただって、私が辛いときに、支えになるどころか、理想を押し付けて言葉の暴力で追撃しただろう、とか思いましたが、、まさに因果応報(人は、相手にしたように、自分にもされる)

 

「死んでお詫びすればいいのか」

 

と、恨み節を吐かれましたから、

当然、私は、恨みの気を受け取っていたことでしょう。

 

そして、元母親の方が、

(そりゃ、私のマンションの鍵や、年金手帳を渡す、とかの現実的な離別行動はやってくれたけれど)

この離別の後も、しばらく、私に、会いたい、などとしつこくメールを送ってきたことがあり(もちろん、全部無視)

 

自分に原因があったから私が離れた、ということに、向き合っておらず、

今までどおり、私に依存しようとしていたことは明らかでした。

 

で、2回目は、父親が亡くなって、相続とかの手続きが全部終わった後です。

このときは、さすがに観念したようで、以後は「なるべく迷惑をかけず、やむを得ないときだけの最低限の接点で」と、明らかに態度が変わりました。

妹の話によると、元母親自身も、自分の母親(私からみると祖母)から離れ、毎年実家に帰るのをやめたそうで、もしかすると、何かを悟ったのかもしれません。

離れた方が、お互いのためである、と。

 

何はともあれ、

私は、上に書いた、特に1回目の離別は、

母親の恨みの気を受けながら、苦しみを抱えつつやったわけですが。

先日の雨降る日の夜、こんなことに気づきました。

 

私は、「母親と離別(絶縁)した」という、自分の行動を「罪」だと思ってしまっていた。

そして、それをした自分を許せていなかった。

 

だからこそ、それを思い出させるために、

親と、「自分で考えない」「自分の面倒をみてもらおうとする」点が似ている(さらにいうと、頭の回転が異様に遅いことも似ている)部下との縁が、もたらされてしまったのかもしれない。

 

もし、幹部が「この出来が悪い部下に、私の指導力をぶつけよう」と思って、私を今の部署に異動させていたのならば、

その本質は、単に、指導力をぶつけるだけではなく、

私の業や因縁の解消のために、とんでもない重要なものをプレゼントしてくれた、

ということなのかもしれない・・・

 

(・・・だとすると、人の縁とは不思議なものですし、

そのために、といっては何ですが、出来が悪いままでいて、自身は否定で辛い(でも、考えないので改善されないわけだが、、)という想いまでして、そんな、気づかせ役をやってくれた、部下というのは、実は、かなり鍛錬意欲のある魂なのかもしれない、、

今世はダメな人のままかもしれないけど、来世で、今世で↑のような役を引き受けた分とかで魂が成長して、そのときは、素晴らしき人になっているのかもしれませんね。)

 

 

この部下の指導は、そりゃ「やりたくないこと」「苦手なこと」に入りました。

まさに、↑の宗家のお話の、

嫌いなこと、

自分に合わないことをやる。

それによって、

元母親から受けた恨みの気を浄化する。

ということだったのでしょう。

 

そして、1月中は、私の持前の、なるべくストレスフリー、今ここに集中して切り替える生き方が功を奏し、首にストレスが出始めたものの、まだ心が平穏だった、

のですが、これはつまり、1月時点では、まだ、恨みの気の浄化が完了していなかった、ということだったのでしょう。

 

浄化が完了したからこそ、

心が壊れかける、という変化によって「浄化完了、もう、自分を守るために部下から離れよう」ということに、なったのかもしれません。

 

 

とはいえ、その間に負った、首の大きな凝りと、背骨上部分の歪みと、肋骨下エリアの痛みは、大いなる傷です・・・

これを回復する、そのための自愛です。

傷を負ってでも、

向き合って、乗り越える必要があることだった、というお話。

 

 

・「母親と離別した(母親に絶縁を言い渡した)」自分にどう接するか

はい、これが、まさに、雨の日の夜に向き合った、最大のテーマでした。

私が、絶縁言い渡しを罪だと思ってしまい、そんなことをした自分を否定していたのは、

道徳的な観念(特に、親を敬うのがよし、の儒教思想)、

一般的な生き方の「正しさ」、

そして、「人は家系の中で生きる」という、算命学にもある、生き方の通念、

ここらへんに合うものではない、

そういうふうに考えていたからだったかと。

 

でも、だからといって

じゃあ、今まで親と絶縁してた自分が間違っていた、と、元母親に謝罪して、これからは親孝行します、とするか?

(そうしたら、上に書いた、「正しさ」に言行一致ですからね。)

 

と、自分に問いかけたら、答えは「絶対にNO」でした。

 

一般的な生き方から外れており、「罪」のような生き方かもしれないが、

それは、「一番大切で愛しい自分を守る」という、

私自身の資質と良心、

最愛の自分と幸せに生き続けるという理想に向かう理性、

それらに基づくものだからです。

 

もし、元母親に親孝行しようとして、接点をもってしまうと、

また、「精神的暴力」「依存」が発動する可能性大であり、

私の心も、体も、元母親と接点を持つことを全力で拒否している、

そんな状態なのだから、なおさら、「安全に離れたところに、自分を置いてあげる」ことが必須だ、と。

 

なるほど、

キロンの資質である「守り」は、既に、「元母親から自分を守る」ことに使っており、

その行動で、私は、自分は罪のような生き方かもしれない、と捉えてしまう、

そんな傷を負ってしまった、

ということだったのでしょう。

 

 

・私は罪深いかもしれないが、そんな自分が最高に愛しい

では、これからどうするか、ですが、

やっぱり、最後は、愛です。

私は罪を負ったかもしれないが

己の良心、理性に基づいて、ベストな選択をしたまでのこと。

そんな自分が、最高に愛しいのです。

 

本当は、「親を捨てる」=罪ではない、と捉えることができるのが、一番いいのですが。

今の私には、まだ、それは無理だったので、

たとえ、罪相当のことをしてしまったとしても

己の良心と理性に従ったのだから、

一般論からずれても、いいではないか。

自分からは、ずれていないのだから。

そして、そんな自分が最高に愛おしい。

というのが、一番しっくりきました。

 

自分への愛を高めていって、

ゆくゆくは、

一般論、道徳、儒教?そんなものよりずっと自分の理性と良心の方が正しいさ!

という境地に達することにします。

 

※もしかすると、「親を捨てる」=罪、というのは、

一般論どうこう、というよりは、一族で受け継いでしまった、肉体に残った残存念のようなものだったかもしれません。

なんにせよ、私自身の要素でないことは明らかですので、

しっかり、燃やして流して浄化します。

 

 

実は、今回の向き合いに至ったきっかけは、こちらの曲を久しぶりに聞きたくなって、聴いたことです↓

 

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この曲の中に、

我が身 罪深く 愛しい

というものがありまして、

このフレーズがやたら心の奥深くに響いて、

そんな状態で寝たら、上に書いた向き合いに至りました(寝てる間に向き合った!)。

 

 

となると、

上に書いた、一般論とか、一族の残存念の価値観のような、

今の自分の中に取り入れてしまわれている要素など、たいしたことはなくて、

結局、

どんな自分も丸ごと愛する、

もちろん、罪深い面もあるかもしれなくても、

それも含めて愛する、

ただ、それだけの話なのです。

 

これが腑に落ちて、

自愛、自分からの愛がさらに深まったように感じ、

同時に、今まで体が無意識に負っていた力が抜けて、

向き合って浄化した活動での疲れもあったでしょうか、

朝起きたら、

深く眠って、溜まっていた疲れを癒し、

まだ疲れの後が残っている感覚はあるものの、

体がまた、何かから解放され、解脱した感覚になりました。

とにかく、深く感謝です。

 

 

とても残念なことに、今の会社の原課の幹部たちもまた、プライド拗れたコントロール人が揃ってしまった模様なので、

とにかく、

コントロール人たちと縁を切り自分を守る、

そんな良心でもって、親も切り捨てて、

それは罪深いかもしれないが

そんな自分が、

そんな、罪かと葛藤してしまうほど

心優しい自分を、

もっともっと、

大切にし、守ってあげる。

 

これを日々徹底して、

彼らのような人たちから

どんどん離れていきます。

 

真っ先に切り離す対象ですね、ほんと。

 

親の件が消化しきれてなかったから、

今まで切り離せず、親に近しい人と接点ができてしまってたのかもしれません。

なので、さっさと消化し、さようならをします。

 

 

・さらにもらった「お題」

 

今回のことで、

今までの学びや、先祖からもらってしまった価値観からすると、一見、悪、罪であろうことでも、

自分の、理性と良心と愛がベースの言動ならば

それをすることを受け入れ、

それをした自分を愛する

という経験ができましたし、

この経験は、一生モノの財産です。

 

で、そのときに、内なる存在に、さらなるお題をいただきました。

 

あなたにとって深い縁の人(ライフパートナーとか)が、

同じように、

その人の理性と良心と愛ベースで何かをし、

 

たとえ、それが、

その人自身や、私の価値観から見て、

悪、罪っぽいことだったとしても

その人という存在を、丸ごと愛せますか?と。

 

このお題には、驚きました。

でも、

一生モノの深い縁にアクセスするならば、

これくらいのことは、当然やることだ、とハラをくくりました。

 

自分が自分に接するように

相手にも接する、

ただ、それだけの、簡単なお話です。

 

ここで、YESと即答するのが、

受け取り許可っていうやつだという気がしました。

 

サスペンスあるあるだと

パートナーが罪を犯して捕まっても、

その罪を償うまで、はもちろん、

社会に戻るときに、周りの、冷たくなりがちな目をスルーし、

いや、この人が、自分を貫いただけですから、

この人は素晴らしい存在ですから、

と、支えて愛し続けることができるか、

みたいなやつでしょうかね。

 

もちろん、ここで私と深い縁になる、ということは、

上に書いた、

自分で考え、自分の闇と向き合い、拗れたプライドもなく、

そして、暴力なし、ですので、

愛ベースで、誰かを、正当防衛(=自分を守るため)で傷つける以上のことはないはずです。

罪っぽい、というと、

思い浮かぶ例が、

私と同じように、親を、家を捨てる

くらいしかない。

 

私的には、

親を、家を捨てる、だなんて

自分を守る勇気ある選択で、素晴らしいから

全面同意ですし、できるだけのサポートをしたい、という気持ちになりますね。

 

なるほど、

もしそんな人と縁ができたら、

本当に、ぴったりの相手かもしれませんな、、

 

もちろん、

捨てた後に、主語を自分で生き続けることが大前提です。

 

余談ですが、受け身気質な私でも、

主語は、相変わらず、自分です。

私はーーを受け取る、って、最後に〆ています。