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研究者としての反応と人間としての反応にギャップがあるとき、考古学者のジレンマが生ずる。知識の拡大と認識の深化は破壊された都市の悲劇を十分つぐなうと考えたがる向きもあるかもしれない。またはアクロポリスからすばらしい芸術品が救いだされたことは、その防衛のために死んだ人びとの悲劇の埋め合わせになる、と考えるものもあるかもしれない。
しかし長い歴史の眼で見るならば、善と悪、哀憐と有用性の較量はまったくの筋違いであり、単純にすぎるもののように思われる。これにたいして、研究者の任務は事実を記録し、解釈することにあって、過去について判断し、衡量し、道徳的評価を加えることではない、という反論も成り立とう。まったくその通りである。
だが、過去における人間の活動にたいして、まったく冷たく客観的な見方をするのでないかぎり、この問題を完全に回避することは困難である。この点についていえることは、われわれの態度に分裂があるということだけであろう。人間的な研究者はたえず、知識を豊かにし、過去をうかがい見る機会を提供してくれる、このような悲惨な出来事にたいして、呪詛の気持ちと奇妙な感謝の思いの間をたえず揺れ動いていなければならないのである。
私は20年後の今日なお、ジャック・ロンドンの『野生の呼び声』の一節を記憶している。その主人公のイヌがキャンプ•ファイアのかたわらでうずくまり、炎をじっと凝視している。このイヌの魂の原型的な深淵ともいうべきもののなかにおいて、かつて半ば野生のオオカミであったころ、恐ろしかったが制御できない魅力に惹かれて、毛皮を着た原始人のたく火のそばに近寄った、遠い過去の一種の記憶ともいうべきものがよみがえってくるのである。
私は居間の暖炉の火を眺めるときいつも、このようなヴィジョンを思い起こし、かつて人類が火の回りに集まり、この魔法の一画だけに暗闇の未知の恐怖から逃れ安息を見いだした、地上における人類の生活における時間と階段とをつねに戦慄をもって思い出したのであった。