決して著者の研究の蓄積を軽視するものではないが、本書の内容は最初の「まえがき」と第3章の一文に言い尽くされている。つまり、

 

出発点は江藤淳(p.14)

 

そして

 

江藤淳は効果が上がらなかったことを理解していた(p.181)

 

 はい、おしまい。

 

 WGIPは江藤淳がアメリカで発見した(アメリカの研究者からコピーを渡された)ことになっているが、もしこれが別の歴史研究者によって発見されたとしたら、「ドラフト(下書き)」と記された文書のWGIPという言葉に「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画」などという恣意的、作為的、というより扇情的な訳はあてなかっただろう。ためしに機械翻訳にあててみよう。

 

 War Guilt Information Program(戦争責任情報プログラム 訳:DeepL)

 

 DeepLによる直訳調の違和感はともかく、元の文字列に「植え付ける」という動詞は何処にも見当たらない。

 

 1990年代後半から今もはびこる保守論壇のGHQ陰謀論は江藤淳が出発点だ。そして江藤自身も『閉された言語空間』の中でWGIPはさして効果がなかったとしている。

 

 はい、おしまい。御名御璽。

 

 と、本来ここで終わる話しなのだ。しかしいまGoogleで「WGIP」という言葉を検索すると約 183,000件、AmebaBlogだけでも428件の記事がヒットする。内容は推して知るべしだろう。

 

 著者の賀茂道子氏は国会図書館のキーワード検索で「自虐史観」という言葉が1996年あたりから急増していると指摘している。その原因とされている「WGIP」も同じように増加しているはずだ。

 

 賀茂氏はそれが「作る会」の発足と同時期だとしているが、ネットという閉された言語空間にまで広まる契機となったのは小林よしのり『戦争論』だろう。

 

 普通ならここから小林よしのりの悪口を始める所だが、彼のコロナ騒動への応接を見てから、別の見方もあるのではないかと思うようになった。

 

 小林よしのりはコロナ対策のために経済を止めるべきではないという。何故なら経済苦による自殺者ウン万人の時代に再びなってしまうからだという。

 

 はて、小林よしのりのパブリック・イメージに自殺問題専門家というものはあっただろうか、と考える(荻上チキ氏あたりならわかるが)。ゴー宣の何処かでは取り上げていたことはあるのか知らないけど、単著で『自殺論』とかないよね。

 

 そして「自殺論」という言葉からふと思い出したのが「戦争があると自殺者が減る」という社会学の知見だ。戦うべき、滅殺すべき「敵」の出現と国家の勝利という大目標は人を高揚させ自殺は減る。精神病患者も減るという。

 

 雑誌連載から単著『戦争論』が出版された1995年から1998年にかけて、日本の自殺者数は激増している。

 

警察庁の自殺統計に基づく自殺者数の推移

 

 「作る会」の発足や『戦争論』の出版が自殺者激増の原因だと言いたい訳ではなくむしろ逆だ。

 

 小林よしのりは自殺激増時代に面接して無意識的に日本を「戦争状態」にして自殺を防遏しようとしたのではないか。事実、近代化以降で日本で一番自殺率が少なかったのは太平洋戦争期だ。そして近年自殺者数が減り続けていたのがロシアだ。ウクライナ侵攻は当事者の感覚からすれば8年前のマイダン革命の頃から始まっていたという。ロシアで自殺者が減り始めたのはウクライナ騒乱の一年後の2015年。ロシアにおいて戦争状態はその頃から始まっていたのだ(ウクライナのデータは不明。

 

 しかし日本では戦争状態を作り出す為の最大の障壁がありそれが日本国憲法だ。潜在的自殺志願者に擬制的な大目標(憲法改正)を与えればその実現までは彼は生きて行ける。

 

 1997年のエレファント・カシマシ「昔の侍」の歌詞はこの時代の雰囲気をよく伝えている。

 

 

 もちろん改憲派の実存的心情を唄っているようにも聞こえる歌詞を是としているわけではない。宮本浩次は「戦う術」があった時代にはもう帰れないので「さよならさ」と決別している。

 

 新刊書店の書架を見る限りWGIP神話は一時退潮したかに見えたが、古本屋やWebのログにはにはおどろおどろしい煽り文句とともに今この時も再生産され続けている。賀茂道子さんのような真っ当な歴史研究手法に根ざした実証研究もこのクソ熱い昨今の日本の熱帯化に向かって扇風機で立ち向かうようなものだろう。

 

 そして今後も扇風機で立ち向かい続けて欲しい(絶唱。

 

 

 朝から視聴者を鬱状態に叩き落とす鬼畜展開と脅威の伏線回収率で話題になったNHK朝の連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』を、自分はしかし別の興味から見ていた。

 

 

 

 戦前からはじまる物語の中で登場人物たちは日本版『ラジオデイズ』よろしく事あるごとにラジオを聞いている。

 

 敗戦後、彼(女)等は確実に”GHQによる洗脳計画”たるWGIP、つまり『真相はかうだ』や『真相箱』を聞くにちがいない。それがどう描かれるのか。

 

 しかし主人公・安子(上白石萌音)はアメリカの空襲によって生家と家業とラジオを失い、幼い子を育てるためにそれどころではない。安子がラジオの声に触れるのは行商先の家の塀の向こうから聞こえる『英語会話』だけだった。

 

 思えば戦中戦後を描くことが多かったNHK朝の連続テレビ小説で、ラジオがあるような家が舞台だったとしても、それを聞くのは敗戦時の玉音放送、戦後は『赤いリンゴ』が流れる程度だった気がする。それよりも戦後の飢餓や貧困のなかで必死に生活する様が描かれていた。

 

 彼(女)等は何に、どうやって洗脳されたのだろう。

 

 主人公の安子は家族と家を空襲で失い、旦那を戦地で失い、戦争という情況を憎んでいただろう。しかしそれはラジオ番組を通してではなく現実の体験からだ。

 

 或る大学教授のツイートによれば、川平唯一による『英語会話』もGHQによる洗脳の一端だったという。でも…それこそそんな洗脳は効果がなかった証拠だよね、だって主人公以外の日本人はほとんど英語を喋れるようにはならなかったのだから。

 

 もうひとつ、興味深い設定があった。三代目の主人公である大月ひなたはチャンバラが好きで京都の太秦とおぼしき撮影所に就職する(彼女も英語の習得にはかなり苦労する)。

 

 復讐や仇討ちを良しとするチャンバラ映画はGHQが占領最初期に禁止したものである。しかし、チャンバラコンテンツはその時期を除けば一貫して日本人の娯楽であり続けた。今はBSや専門チャンネルで細ぼそと放映されるのみになったが、GHQの洗脳が遅延的に平成・令和の時代になって効果を発揮したのだろうか(江藤淳なら「そうにちがいない」と言いそうだが)。

 

 長くなりそうなので2に続く。

 

 

 

 本書の「あとがき」を読んでいたらまさに「我が意得たり」ということが書いてあった。

 

 数式やグラフが並び、綿密な論理によって組み立てられたエコノミストたちの議論を読めば、ここには客観的な真理を追及する「科学」があると思うかも知れない。しかし、お互いを激しく罵り合う論争や、自説についての傲慢なまでの確信を目の当たりにすると、むしろ、それは「宗教」に近いのではないかとすら感じることもあった。

 

 英語の「Boss」はかつて日本を訪れた宣教師が将軍より偉そうにしている僧侶=坊主(ボーズ)こそが真の日本の支配者(ボス)なのだと思い込んだことからきているという俗説がある。いまは竹中平蔵こそが”自分の営利のために日本を貧しい国にした闇の支配者”であるように表象している人は多いだろう。

 

 

この映画に出てくる伊武雅刀みたいな

 

 総理にまで上り詰めた石橋湛山や経済企画庁長官となった堺屋太一など、過去にエコノミストから政治家に転身した例はあるが、それはいわば公然としていた。しかし今「内閣参与」などになる経済学者が隠然と最高権力者に入れ知恵するのを宇宙人が見たら、怪しげな教義によって権力者を操る闇の支配者は彼らであると思ってしまうだろう。一般人は経済ニュースで「サプライサイド」や「量的緩和」「インフレ目標」などと言われても「ラマダン」とか「三位一体」とか「只管打坐」みたいな宗教用語みたいに聞こえる。ただひたすら座禅にうちこめば悟りは開けるという教義はただひたすらインフレ率2%をめざして金融緩和すれば経済は好転するという教義と相似形だ。

 

 そして経済学の派閥によって互いに相容れない教義が混在している。緊縮派vs.財政出動派などはキリスト教とゾロアスター教のように全く別の宗教のようである。それにつきあわされる子羊(経済主体)は最低でも数年、日本の場合は三〇年もさまざまな経済対策につきあわされ、どれも失敗してきた。しかし経済学者はそれを自身の理論の欠陥ではなく「規制緩和が足りなかった」「財務省が妨害した」「やめろというのに増税しやがった」と政治家の無理解や政策の中途半端さに帰するのが常だ。


 平安の昔、宮中には陰陽師なる呪術使いが正式な官職として公務を行っていたというが、千年の後、エコノミストという幻術(数学)使いが政権中枢にいて陰に陽に権力者を操っていたと歴史に記されるかも知れない。

 

 また、同筆者による『エコノミストは信用できるか』の終章もある疑問に対するヒントを教えてくれた。

 

 疑問とは、なぜ経済学者という人種はあんなに性格が悪くて傲慢なのかということだ。SNS上の経済議論を見ても、なんだか経済学とは人をバカにするためのツールになっているのではないかという印象を受ける。

 

 

 筆者は九〇年代前半までは経済学者が名指しで他の学者を批判することなど珍しかったと述べる。

 

 ところが、九八年の野口旭による『経済対立は誰が起こすのか』(ちくま新書)あたりから、名指しどころか相手の著作を「トンデモ本」と決めつけるような、激しい論争のスタイルが珍しくなくなってきた。野口氏は二○○二年刊の『経済学を知らないエコノミストたち』(日本評論社)でも、「教科書的」な観点から論敵を一方的に切りまくるスタイルで論じ続けた。

 

 「トンデモ本」という言葉はそろそろ広辞苑に載るんじゃないかというくらい定着した観があるが、「と学会」の『トンデモ本の世界』が出版されたのは九七年で一〇万部をこえるベストセラーになって一般化した。

 

 そして九〇年代といえば日本版歴史修正主義が勃興していた頃だ。彼等は学校の歴史教育は「自虐史観」であると罵り、あるいは「GHQに洗脳されている」と一方的な診断を下し、朝日・岩波などを手を変え品を変え批判した。本のタイトルに「バカ」とつくものが増えた頃でもある。それが経済論争に飛び火したのだろう。

 

 複数の源流が流れ込んだ先が野口旭も参加した『エコノミストミシュラン』(二○○三年)だった。『エコノミストミシュラン』を読んだ当時はしかし、この本を「痛快だ」と思っていた。それは当時ほぼ原理主義と化していた小泉構造改革路線の「痛み」にウンザリしていたときに、ノーベル賞を取った経済学者の威光を武器に公然と異を唱えるレジスタンスが出てきたと思えたからだ。しかし今はこの本に参加していたリフレ派(当時はインフレターゲットといっていた)経済学者の面々が今も同じスタイルでツイッターで発言しているのを見るとウンザリしている。

 

 もう一つ、『エコノミストは信用できるか』の終章の論旨とは違うのだが、共感したトピックがあった。それは「経済学は国民の「心理」を扱わないのか」という言葉だ。東谷氏はここではインフレターゲット論者が使う「期待」という概念に対し経済学が「心理」を扱うことに対する批判があったことに対する疑念を述べているのだが、そもそも人の購買行動という経済学の”基本のキ”からして人の心理が左右する。

 

 MMTなどとほぼ同時期に行動経済学が注目されたのはその現れだろう。でもダン・アリエリーなどの行動経済学書の面白さは、むかし心理学界隈を賑わせた「アフォーダンス理論」じゃん、と思ってしまう。しかもそれが説く理説は「人は見返りがないほど仕事にやりがいを感じる」といった、むかし流行った経営者に都合のいい、労働者をタダ働きさせる行動心理学の理論と同じじゃん。

 

 自分が感じていた違和感ははしかしそこではない。そういうことより「小難しいことを偉そうに上から言われて、わかんね−奴はバカだといった態度をとられて人は説得されるか」ということだ。具体的には「さざ波」発言で内閣参与をクビになった経済学者だ。どんなに人を愚弄しても彼の云う政策に拠って経済が爆上げしたのならともかく、リフレ政策は第二次安倍政権になって以来国政に取り立てられ、八年もそれが施行されてきたのにそうはなっていない。

 

 これを失敗だったと断じるMMT派も「国の財政は家計のメタファーでは語れない」といった常識転覆をしてそれを理解できない人や為政者を(リフレ派以上に嘲笑的なスタイルで)批判している。その”覚醒の語法”が一部の人に好まれるのはそれを理解した人の選民意識をくすぐるからだろう。"MMTer"という言葉があるが、それは主にSNSを通じて広まったようだ。ひとたびMMTをのみこむことができれば討論番組やワイドショーなどで「国の借金」という言葉が飛び出すたびにツイッターで「こいつバカだ」「国の赤字は国民の黒字」などとつぶやくことができる。

 

 

MMTER

 

 MMTが間違っていると言っているのではない(自分には判断できない)、経済オンチの自分ですら理解できてしまう単純さに罠があるような気がするのだ。

 

 MMTの入門書を数冊読んでから普通の経済書を読むと驚くのはMMT派の主張の異様なわかりやすさだ。数式も全くといっていいほど登場しない。だいたいのパターンは「誰かの赤字は誰かの黒字」「PB凍結」「お金は税金を払うためのもの」「税はインフレをコントロールするためのもの」「貨幣発行権を持った国は財政破綻はしない」「オカシオ・コルテスも言ってた」「コルテスもケルトンも美人」といったところか。

 

 そして自身の正しさを担保する「われわれは主流派から批判されている」というご法難の話法。

 

 MMTのエヴァンジェリスト藤井聡教授や山本太郎議員のMMTトークは最早話芸になっている。

 

 

 

 最近山本議員は自分たちの主張はMMTとは無関係と言っているようだけど、素人には見分けがつきませんよ。

 

 それにしても気がつけば何やかんや言ってMMT関係の本に既に一万円以上突っ込んでしまっている。リターンはゼロ(自分の出費は本屋の儲け)。一流の詐欺師は騙した相手に「いい夢を見せてくれてありがとう」と言わせるというけど、MMTの本は確かにそれくらい面白かった。以前は新書が数冊しかなかった入門書も経済書コーナーの一角を占めるようになって、解説者(必ずしもMMTを信じきっているわけでもない)も増えた。

 

 東谷暁氏は『エコノミストは信用できるか』の冒頭で九〇年代の経済本の隆盛をこう表現している。これは今も当てはまるだろう。

 

繁栄したのはエコノミストだけ。